川沿いの並木道を歩くこと小一時間はたっていた。
 爽麻そうまという名の男はそれから何も喋らなかった。不思議な青の眸。だがよく見れば髪の色も同じ青に見える。黒にほど近いようで、しかし青色の髪をしているのだ。
 この国でも、はたや隣国であっても、そんな髪の色をした人間はいない。黒かもしくは黒に近い茶色か、ともかく異質なことには違いないだろう。雰囲気からもそれは感じられるし、きっと只者ではないはずだ。そうだとしても、確証はない上に状況はよりややこしくなるばかりだった。
 遠くの国から、または海の向こうの大陸から来た人だったらどうしようかと、言葉は通じるのかと、頼次は内心で焦っていた。否、先程の言葉は聞き取れたもの、言っていることが理解不能だったのだ。
 まだ少女の楪ならともかく、いい歳をした大人が言うことにしてはおかしい。彼が冗談を言っているように聞こえなかったから尚更だ。
 頼次がひたすら不安と戦っているうちに、風に運ばれて潮の臭いがした。気が付けば海の近くまで来ていたのだ。
 潮風に晒される家は傷みが早いので長く住む者はいない。きっと訳ありなのだと頼次は結論付けた。そうしたところで、ここまで付いてきてしまったのだから、もう逃げることなど不可能だろう。
 小さな住居に招かれてその中は薄暗くてよく見えなかった。すぐに爽麻が蝋燭に火を灯し、うっすらと内部が見えてくる。よくて三人くらいが寝泊まり出来るくらいの広さの家は肌寒く感じた。
 座敷に上がるように促されて、足を踏み入れるとすぐに楪が座布団と引いてくれ、躊躇いつつも頼次は腰を下ろした。中の綿が少なくて座り心地は悪かったが、文句が言えるわけでもないので、黙って座っておくしかない。
 何やら奥から音がするのが聞こえてきて、目を向けてみれば台所があった。小奇麗に片付けられていて、生活感がせずに、それがどうにもこうにも落ち着かない。右に左へと視線を送って、頼次は居心地の悪さをやり過ごす。
 目に入ったものといえば詰め込まれた本棚くらいで他には見当たらない。けして裕福な暮らしではないことを悟って、頼次は見渡すのを止める。すると計ったように食卓に茶が置かれて、ますます気まずい気持ちになった。
 せっかく出されたものだから手を付けなくてはならない。
 正直熱い飲み物は苦手で、もう少し冷ましてから飲みたいところだが、この空気に負けて頼次は茶を啜った。勢いに任せて口に入れたものだから、それはもう熱かった。なんとか吐き出さずに零さずに堪えるが、舌を火傷したようでひりひりと痛んでくる。
 そんなみっともない頼次に意にも返さずに爽麻は茶を啜っていた。その所作があまりに優雅で、自分が氏族の息子であることを忘れてしまうほどだ。
 楪もそうだったが、元は高貴な生まれの者ではないかと疑ってしまう。黒の羽織も浅葱色の着物も、着ているものはけして豪華なものではないのに、そう思わせるほどに彼には堂々たるものを感じさせる何かがあるのだ。けれど、頼次はそこで詮索を止めた。
 気まずい沈黙が支配していた。
 仕方なく頼次はまた茶を啜って、やはりまだ熱くてそれでも顔には出さないようにと、ゆっくりゆっくり次を飲む。湯呑の中身が半分くらいになっても誰一人口を開かずにいた。頼次も何から話せばいいのか、どう切り出せばいいのか分からなかった。息をするのも気を遣う空気の中で、茶を啜るという動作があるだけまだよかっただろう。それも飲みきってしまうといよいよ苦しくなる。
「楪が世話になった」
 ふいに低い声が下りた。何故だか脈が速くなるのを頼次は感じた。
「え、いや、その……。大したことはしてないですから」
 もっと他の言い方をしようと思ってもとっさには出てこなかった。爽麻は「そうか」と一言呟いただけでその後は続けなかった。
 「どういう関係なんですか?」とか。「あなたは何者なんですか?」とか。「カグヤって誰のことなんですか?」とか。
 訊きたいことはたくさんあっても、好奇心丸出しのようで頼次は訊けずにいた。時間はどのくらいが過ぎているのか。夜までには戻ると行ってきたからには早く帰るべき、そうでないと余計な心配を与えてしまうはずで、楪も一緒だから尚のこと。吉乃からは詰問されてしまうだろう。
「あ、あのっ! そろそろ俺は、帰ります……ね」
 言葉につかえながらも何とか口に出せた。爽麻は別段表情を変えなかった。迷子の子どもを届けた恩人といえば話は大袈裟でも、それにしてもこの反応の薄さはどうか。それよりも、一刻も早くここから出たい気持ちが勝っていた頼次は立ち上がる。
「より」
 それまで黙っていた楪の声だった。
「頼。帰るの?」
「ああ、もう帰らないと」
 そして、ここでお別れだ。背を向けた頼次に楪は付いて来る。見送りというわけではなく、意図を読んだ頼次は拒絶の意味で距離を空けた。
「時間が出来た時は、その、会いにいくから。そうしたら、また」
「またって、いつ?」
「え? いつって」
「いつ、会えるの?」
 見透かされている。うわべだけの言葉などこの少女には届かないのだ。
「ゆず。あのね、いつかは分からないけどきっとまた会えるから、ね?」
 嘘の塊を吐き出す度に心の中が黒く染まっていく。大人は簡単に嘘をついて子どもを騙すことが出来る。
 縋るような楪の手を頼次は振り解けずにいる。名残が惜しいのか、それとも、そうしたふりをしているだけなのか。自分でもよく分からなかった。ただ一つ言えるのは、ここでお別れだということ。楪は首を縦には振らなかった。
「いつかなんて、そんなの嫌。いっしょがいい。いっしょにいたい」
 本当に子どものようだと思った。聞き分けのないところも口調も、とても十四くらいの子には見えない。
 彼女はまだ子どもで、本当の親ではないにしろ、親代わりで育てているこの爽麻という人の元に戻れたのだから良かったじゃないか。それを何故、自分のような他人のところへ身を置きたがるのか。
「頼と、いっしょにいたいの」
「ゆず、でもね」
 お手上げだった。どんな言葉を使っても、説得出来るだけの声を頼次は持たない。
 押し問答が続いていた。楪は手を離そうとはしないし、頼次は力任せにするわけにもいかずに嫌な気持ちになるばかりだった。そして、傍観していただけの爽麻が言った。
「楪は、喋ることが出来なかった」
 なんの脈絡もない台詞に頼次は目を瞬いた。
「もっとも、こちらの言葉が喋れなかったのは私達も同じだった」
 こちらのということはやはり、どこか違う国から来た人なのか。それでも近隣の国では言語は同じはずだから、頼次の知らない遠くの国からなのか。頼次は続きを待つ。
「楪に会った時に苦労したのが言葉だ。通じないのかと思っていたが違った。彼女は喋ることが出来なかった」
「え、でも今……」
「あれといるうちに、少しずつ話すようになってきた」
「あれとは?」
「カグヤだ」
 そこで一度切られた。
「だがカグヤはもういない」
「いないって?」
 爽麻は沈黙する。
 触れるべきではなかったのかもしれない。カグヤという人が楪や爽麻にとってどういう関係であったかなど、頼次には知る由もない。されど、ここにいないというのならば、けして良くはない状態なのだろう。あるいは故人か。二人が直接的に言わないから、それは考えられることで、訊いてしまってはならないことだったのだ。
「あれがいなくなって、楪は口数が減った。私ともあまり喋らない。だがきみとは話している。どういうことなのか分からないが」
 それを問いたいのはこちらの方だ。と、頼次は思わず言いそうになる。表情を悟られないように視線を相手の鼻へと移しても遅かった。
「いや、似ているのかもな、きみは」
 何かに納得した口調で爽麻は続けた。気のせいだろうか。ほんのわずかな笑みのようなものが唇の端には見えた。
「きみに頼みがある」
「頼み、ですか?」
 訊きながらも、もうその答えを頼次は知っている。そして、それを自分が断れないことも知っていた。


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