手掛かりを求めると言ってもすんなり事が進むはずもなかった。
 彼女のことを知っているのは名前だけで、他の情報は一切ないのだから、困難を極めることくらいある程度は予測していた。
 それでも、頼次は仕事の合間を見計らって迷子の子がいないか、もしくは家出少女の情報は入ってないかを確かめていた。役人達にあまり自分からは話し掛けることがなかったので怪訝な顔をされるのは分かっていたし、あからさまに嫌そうな対応をされるのもまた想定内だ。けれど未だ有力な情報も拾えないまま、焦りは募るばかりだった。
 ゆずりはという名の少女を拾って三日が過ぎていた。
 未だ彼女から糸口となるような言葉は出てこない。それどころか徳之輔も吉乃もすっかり彼女が気に入った様子だ。
 特に吉乃は目に入れても痛くない可愛がりようで、余所からたくさんの着物を譲って貰うほどだ。「着たきりは可哀想ですからね」と日替わりで色鮮やかな着物を与えては楽しんでいる姿は娘というよりも、まるで着せ替え人形のようだ。当の本人はよく分かっていないようにも見えたが、はじめに身に着けていた地味な色味の着物よりも、鮮やかな蒼や碧の色の着物に身を包む姿はやはり可愛らしかった。
 すっかり家族の一員みたいになっている。広い屋敷に三人住まいは確かに変わり映えもしなければ、面白味もない。
 けれど彼女は余所の子どもで、それも迷子なのだ。ここで完全に馴染んでしまう前に早く親元へと返してやるべきだ。それなのに、どこか名残惜しくなっている自分がいて、頼次はますます焦りを感じるのだった。
「おかえりなさいませ」
 しずしずと手をついて出迎えてくれる姿に頼次はぎょっとした。まるで下女のようだ。吉乃に習ったのか、それとも徳之輔になのか。余計な入れ知恵のような気がして、頼次は素直に喜べなかった。
「あ、あぁ。ただいま」
 そのぎこちなさは伝わっていたようだ。
 少女はにこりともせず、それも何か悪いことでもしたのかという風に見つめてくる。途端に後ろめたさがやってきて、頼次は逃げるように自分の部屋へと入った。そこへ呼びに来たのが徳之輔だ。羽織を掛ける間もなく、半ば無理やりに連れて行かれた先にあったのは――。
「見てください。上手なものですよ」
 徳之輔が揚々と見せるのは紙に描かれたたくさんの文字だ。
たしかにそこに描かれているのは綺麗な整った文字ばかり、花の名前に果物の名前、土地の名前もある。その中でも同じ読み方の文字が幾つもあった。
「ゆずりは、の字?」
 楪、杠葉、杠、譲羽……。それは彼女の名前だった。
「わたしは楪」
 指差して自分の名前を強調する。楪、ね。と頼次は口の中で復唱した。
「楪さんは賢いんですわ。教えたことはすぐに吸収するし、数だって数えられるんですよ」
「へえ……」
 先生にでもなったつもりなのか、徳之輔の妙に得意げな顔も物言いも、少しばかり腹立たしい。とはいえ、自分の留守の間に楪の相手をしてくれているのだから、嫌味などは言えない。
「それで歳は十四歳らしいですよ」
「はい? 十四歳?」
 頼次が頓狂な声を上げる。
 どうみても見えない。背も低ければ華奢だし、女性らしい膨らみもないし、なによりも顔が幼いのだ。
 十くらいだとばかりに思っていたから余計に戸惑ってしまう。それどころか舌足らずで意思表示も弱い。譲らないところはあるものの、とても十四くらいの年には見えなかった。だとしても、彼女がまた嘘を付いているようでもないので、頼次は信じるしかない。
 と、同時にこのままではいけないと思った。頼次はまた羽織を肩に掛ける。
「徳、ちょっと出てくるから」
 「どちらへ?」とは彼は聞かないことを頼次は知っていたけれど、一応付け加えておく。
「楪も連れて行くから、夜までには戻るよ」
 









 外に出ると当然のように楪は手を握ってきた。
 人ごみに紛れて迷子が迷子にならないように、頼次はその手をしっかりと繋ぐ。はたから見たら歳の離れた兄妹か何かに見えるだろうか。平凡な顔立ちが幸をそうして頼次は領主であるにもかかわらず顔が知れ渡っていなかった。特徴のない顔というのはこういうところで役に立つのだ。
 逆に言うと、楪の顔は誰が見ても可愛らしいと思うほどに整っている。ぬばたまの黒髪、ほんのりと桜色をした頬も、長い睫毛も黒目の大きさも、薄い唇も、擦れ違う人が思わず振り返るほど、だ。何もしていないのに悪人になった気分だ。頼次は急ぎ足になっていた。
「より。待って、はやい」
 耐えかねたのか声が下りた。付いていくのがやっとだったようで、楪の息が切れている。
「ご、ごめん……」
 謝罪とともに頼次は足を止める。
 逸る気持ちに反省をしつつ、辺りを見回してみる。何処から来たのか、その場所に見覚えはないのか。楪に訊くために出てきたというのに、これでは手掛かりを捜す意味はないだろう。
 徳之輔がいつも通う居酒屋も、風邪をひいた時に通う医者の所も、いつの間にか通り過ぎていたようだ。右に行くと宿が並ぶ左に行けば役所に辿り着くし、このまま真っ直ぐ行けば市場が並ぶ。どうしたものかと悩むところだがここで頼次は確認してみることにした。
「ねぇ、ゆず? この景色に見覚えはないかな?」
 期待は半分くらいだ。また分からないと返ってくるかもしれない。
「ええと……」
 楪はそのまま考え込んだ。彼女の唇が動くまで頼次も動かないことにする。
「人がいっぱいいたところは通ったような気がする」
 確証はないけれど答えとしては十分だ。頼次はそのまま正面へと歩き出す。
 その後をちょこちょこと付いていくのを確かめてから、今度はもう少しゆっくり歩みを進めた。
 繋いだ手は汗ばんでいた。完全な春の訪れには今一つ、それも夕方となれば寒いくらいなのに、楪からは熱っぽさが伝わってくる。
 早く親元に帰してあげたいと思うのはきっと建前で、本当は他人に関わりたくないからだ。度量の低さに嫌になってくる。
 その手を離して見捨ててしまえばいいと、誰かの声が聞こえてきた。鬱々とした時に決まって聞こえてくる声だ。誰か、ではなく、それが己自身の声だと気がついていても、頼次は知らないふりをする。
 お前はまた見捨てるんだ。頭の中で同じ声が聞こえる。違う。見捨てたりはしない。反論を繰り返す。
 見捨てるにちがいない。お前はそういう人間だ。二度も三度も。頭の中で言い返すもそれ続く。ちがう。ちがわない。見捨てたりしない。お前は見捨てる。関わりたくないのが本音だ。
 いよいよ返す言葉も見つからくなって頼次は反撃するのを止めた。意識を逸らそうと市場の店に目を向ける。
 吉乃の御用達の魚屋の主人が元気の良い声で客引きをしている。今日は鯵が安いらしい。その二件先には果物屋がある。林檎を勝手にむいて食べたことは咎められたりはしなかったのを思い出す。その隣は八百屋だ。胡瓜に季節外れの茄子に南瓜も並ぶ。どれも新鮮で美味しそうだ。
 今日の夕餉は何だろうなと想像する。それでも、お前はお前は……、という声が付いてくる。あぁ、五月蠅いな。鬱陶しいな。次第に苛々に変わり出したその時、楪の声が聞こえた。
「そーま」
 何を言っているのか聞き取れず、頼次は楪を見る。
「そーまだ!」
 二回目はもう少し大きい声だ。それでも頼次は分からない。
「え? うま?」
「ちがう。そうま!」
 うまと言っているようにしか聞こえなかったがそれは即座に否定された。
 身を屈めて彼女の目線に合わせてみる。すると楪から手を引いてこっちだと誘導してきた。何かを見つけたのだろう。
 小太りの男とすれ違って、初老の身なりの良い男ともすれ違って、ふわりと良い香りの漂う綺麗な女性ともすれ違ってもまだ彼女は進む。店にも屋台にも目もくれずにただ歩みを進めるのみ。最初に声を上げてから数分がたつくらいで、ようやくその足が止まり、そこにいたのは長身の男だった。
「そうま!」
 もう一度その名を呼ぶ。呼ばれた相手はすぐにこちらに気が付いて、
「楪、か?」
 彼女の名を確かめるように言った。
 男は手に持っていた書籍を置いてゆっくりと楪に近づいてくる。すらりと伸びた長身も整った鼻梁も、男の頼次でも美しいと思うほどに魅惑的な男だった。
 惹かれたのは外見だけではない。吸い寄せられたのはその蒼い眸だ。
 頼次の手を握ったまま楪は男の袖を掴む。男は楪の頭を軽く撫でると少し口元を綻ばせていた。二人を交互に見ていた頼次はここでようやく結びつける。期待に胸を膨らませて、けれど顔には出ないようにと心掛けて、
「もしかして、あなたがカグヤ?」
 問い掛ければ男の目が動いた。射るような強さ、頼次は少したじろいだ。男の目は頼次を詮索するようなことをせず、そして低い声を落とした。
「違う。あれは月に還った」
 否定とともに付け加えられた言葉はあまりにも非現実的で。話の通じない人だと頼次は思った。
 


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