春の訪れにはまだ早い。
 しとしと、と。降り続ける雨は肌寒く身体を冷やすばかり、明け方から昼を過ぎても続き止む気配はなく、徳之輔の予言は見事に当たっていた。
 少女は縁側にちょこんと座って雨を眺めていた。ただの何の変哲もない庭だというのに、そこから動こうとはしないのだ。
 気高く咲き誇る梅の花が雨に打たれて泣いているように見える。しっとりと濡れる薄紅色の椿も、白や黄色の水仙の花も色とりどりでとても綺麗だ。
 庭の手入れをしているのは徳之輔で彼の趣味だった。けして狭くはない庭だから、一人で手入れをするのはさぞかし大変だろう。名前の知らない花が幾つか目に入ったので、今度訊いてみようかと頼次は思った。
 膝を抱えて座って飽きもせず見つめている少女の目にはどう映っているのだろう。声を掛けようかと迷ったけれど、頼次の口からはすんなり出てこなかった。
 むかしから子どもの相手をするのは苦手だった。
 純粋で無垢だからかは知らないが、容赦なく人の心の中に入ってくる。
 知らないこと、分からないこと、訊きたいこと。
 思ったままに口に出されるのも苦手だし、何よりどう接していいのか分からない。大人だったらもっと上手く対応出来るのに、と考えたところで頼次は止めた。けっきょくのところ子どもであろうと、大人であろうと、人というものが苦手なのだ。
 気を遣われるのも気を遣うのもひどく疲れる上に億劫であり、それならばはじめから関わらない方がいいし、面倒事に巻き込まれるのもごめんだ。およそ領主には相応しくない考えだと思う。形だけの領主であることなど頼次本人が一番分かっていた。それでも、今更変えようとも思わない。
 ぐるぐるぐると。色んなことを考えては消していって、また考えて、消して。ぽつりぽつりと。雨の音が支配する時間だけが過ぎていった。










 ゆさゆさと身体を揺す振られて頼次は目を覚ました。
 いつの間にか寝ていたのだろう。上体を起こすとくしゃみが一つ出た。同時に寒気が襲ってきて、腕を擦ってみれば身体がすっかり冷えていることに気が付いた。こめかみの辺りに鋭い痛みがするし、心なしか身体も重い。
「より。ずっと寝てた」
 小さい声が下りた。
「あぁ……。うん、ごめん」
 疲れはそれほど感じてはいなかったはずだ。気疲れ、するほどに気を使っていたのだろうか。だとしても人のせいにするのは間違っている。溜息をつきたいところを顔を持ち上げて、頼次は辺りを見回した。茜色に染まる空は綺麗なもので、どうやら半日が過ぎていたらしい。
「より」
「うん?」
「おなかすいた」
 言うがいなやお腹の虫がぐーっと鳴った。
 恥ずかしがることもなくちょっこりと座ったまま、可愛らしいといえばそうだが、なんとも間の抜けた音に頼次は脱力した。
 仕方がないので立ち上がって台所に向かうことにする。徳之輔は離れにいるようだし、吉乃も昼から出掛けたままで、まだ戻ってはないようだ。
 茶菓子の一つでもないものかと漁ってはみるものの、それらしきものは見当たらない。主といえども何処に何があるのか把握してないから、戸棚を開けたり閉めたりを繰り返して諦めかけた時に、ふと果物を頂いたと吉乃が言っていたのを思い出した。
 台所の隅の方に籠に入った林檎をなんとか見つけて、五つもあるから一つくらい食べてもいいだろうとそれを手に取り、そこで頼次はしまったと思う。林檎をむいたことがないのだ。というよりも料理をする機会そのものがなかったのだから、包丁を持ったことすらない。それでも、物の試しにやってみる価値くらいはあるだろう。
 何本かある包丁の中でも小さめのを手に取って、頼次は林檎と格闘をはじめた。持ち方が合っているかなどこの際どうでもいいし、形が不恰好でも食べられることが出来さえすればいいのだ。
「へたくそ」
後ろからの声に頼次は驚いた。
 いつの間にそこにいたのか。少女は何かを訴えるような視線を送ってくる。面と向かって罵られる覚えもなければ、こういうことを少女が口にするとは思わなかったので、頼次はさぞかし間抜け顔をしていたことだろう。
 無言の圧力は続く。少女は両手を頼次の方へと向けている。貸してという意思表示なのだろうか。それを理解するまでに少々の時間を要した。
「え? いや、だめだよ。危ないし」
 その一言が気に障ったのか、少女は頬を膨らました。
 無表情か、困るか、あるいは笑うか。そのくらいしか見たことがなかったので、頼次は戸惑っていた。やはり、子どもの言うことはよく分からない。その言動は理解不能だ。
「だいじょうぶ」
 一体、どこに大丈夫だという保証があるのか。頼次は従わない。すると、しびれを切らしたらしく、少女は更に手を伸ばしてきた。頼次は渡すまいと包丁を握る手に力を入れていたが、ここで抵抗するのはかえって危険かもしれない。そうして、しぶしぶながらも包丁を少女へと手渡した。
 不安だ。不安でしかない。
 頼次は口の中で繰り返した。こうなるともう後は見守るしかない。林檎は残り三個になったので、二つ目を失敗したら吉乃に叱られるだろう。だがそれよりも、今は刃物で怪我をしないかどうかが心配だ。大目玉を食らうどころでは済まされなくなる。
 そんな頼次の心のうちを知ることもなく、少女は慣れた手つきでするすると林檎の皮をむいていく。
 すると、どうだろう。それは杞憂であったようだ。形見た目に綺麗なだけではなく、なんと兎の形までしているのだ。なんとも見事な出来栄えに頼次はただただ関心をする。少女は少しばかり得意そうな表情をし、そのあとににこりと笑った。
 縁側に二人並んで、また外を眺める。雨は小降りになってはいても、止む気配はなかった。
 頼次は林檎を一つ手に取る。最初に食べたのは兎の林檎だ。甘いよりは酸っぱいが強い。
より
 少女の声はとてもちいさい。ぽつりぽつりと落として、じっと耳を澄ませていないと聞き逃してしまうくらいの。
「頼は」
 あぁ、そうか。自分のことを呼んでいるのだと、頼次はここで気が付いた。一度だけ名乗った名前だったから、覚えてもらえてないのは無理はないだろう。
「ゆずりは」
「なに?」
「あのね、俺は頼次っていう名前があるの」
「うん。知ってる」
「頼。じゃない」
「でも、頼はよりなの」
 あっさりと言い切られて、頼次はもう一つ林檎を手に取る。今度は不恰好な形のものをかじれば、やはり酸っぱかった。
「じゃあ俺もきみのこと、ゆずって呼ぶけどそれでもいい?」
「よくない。わたしは、ゆずりは」
「でもきみは俺のことを頼って呼ぶよね?」
「頼はよりなの」
 しゃくりと、林檎をかじる少女はこちらを見ないままだ。
しゃりしゃりと。余程お腹が空いていたのか、もくもくと食べ続けている。頼次もずっと林檎をかじっていた。
 食べ続けていると酸っぱいのにも馴れてきたのか甘いと感じるようになってくる。またひとつと、林檎に手を伸ばして、そうして皿は空になっていた。
「うん、こうしよう。俺は頼でいい。けれどきみのことは、ゆずって呼ぶ」
 頼次が提案をする。まだ口を動かしている彼女からの返事はなく、ごくりと嚥下をして、一息ついたところでようやく声が返ってくる。
「ゆずりはなの」
 予想通り。一歩も譲らないところを頼次は短い間で学習した。だから、次はもう少し引いた言葉で紡ぐ。
「うん、ゆずりはだね。ゆずって呼ぶのはあだ名だよ」
「あだ名?」
「そう、あだ名」
 きょとんとする顔になんだか可笑しくなって頼次は笑った。
「仲良しってこと」
 するりと口から滑り落ちた声に驚いたのは自分だ。
 ただし、偽りではない。その場しのぎの言葉ではないと、頼次は自分の中で言い訳をする。
 深入りはしない方がいいと、誰かの忠告が聞こえたような気がしたが、頼次は無視をした。少女の笑みを見ていると、そこに他意など要らないような気がしてくる。そもそもそんなものに影響されない頼次だ。だから、これはきっと、気紛れのようなもの。
 それでも、こんな風にゆるやかに過ぎていく時も、誰かと過ごす時間も久しぶりで、心を充たしていくのは気のせいではないのだと、頼次は思った。  



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