目を閉じても眠気はやってこなかった。
 この時間帯に床に就くなどなかなかない上に、すぐ隣に人が眠るというのが頼次はどうも落ち着かないのだ。
 一体、どうしてこのようなことになったのか。意図せずとも溜息ばかり出てくるのも仕方のないことで、それでも眠るしか選択肢はない。居心地の悪さを誤魔化すように頼次は呼吸を深くする。
 隣からの寝息はまだ聞こえてこなかった。即時に眠れるほど子どもではないということか。いや、子どもであろうと、見ず知らずの他人の家で寝られるほど無神経さはさすがにないのか。いや、そもそも余所の庭で無防備に眠っていたくらいだ。自分の置かれた状況が分かっていないような子どもなのだろう。いやいや、それもどうか。無垢を装って、本当は……。
 頼次は頭だけを動かして隣を見た。もちろん、これは頼次の心の声だ。届くはずはない。されど、こんな風に次から次へと考えていては目は覚めるばかりだ。
 瞼を開けてみて、閉じて、また開けて。
 繰り返してみても眠りはやってはこずに、頼次は天井を見つめることにした。次第に闇にも目が慣れてくる。
 幼い頃に父と母と川の字になって、就寝を共にしていたのをふと思い出した。もう随分と昔の話で忘れていた過去の話だ。
 父親には妻が二人いた。頼次の母親は側室にあたり、正室はまた別の女性でいることを、 幼い頼次には理解が出来なかった。
 どうして父上は週に二度しか自分のところに来ないのか、と。子どもならではの問いかけが、母親を酷く傷つけていたことなど少年は知らない。けれど、大人になると色々と見えてくるのだ。
 幸せだった記憶だとしても、思い出だったとしても、今となっては寂しい過去でしかない。感傷的になるのは人と就寝を共にするのが久しぶりだからだ。
 隣から寝返りを打つような音が聞こえた。やはり、まだ子どもだとはいってもそれなりに緊張はするのだろう。
 とはいっても、頼次にはどうしてやることも出来ない。せめて、音を立てないようにするだけだ。
 少しして、またもぞもぞと動くような音が聞こえた。寝苦しいのかもしれない。こんなことなら、少女の懇願を無視して吉乃に任せるべきだった……と、煩わしさを覚えたところで、頼次の手に何やらひんやりとしたものが触れた。
 驚いた。けれども声はなんとか出さずに、身体は固まったままでも、なんとか思考だけを動かしてみる。小さいけれどこれは手だ。人の手だ。つまりは隣の少女に手を握られているということで。
 認識はしていても見るまでは分からない。おそるおそる頼次は顔を横にずらしてみれば、自分よりも小さい頭はすぐ傍にあった。石鹸の香りがする。同じものを使っているはずなのに、他人だとどうしてこうも心地よいのだろう。いや、それよりも……、
「ちょっ、風邪ひくって!」
 頼次は飛び起きた。
 よくよく見てみると彼女の身体はほとんど布団からはみ出していた。お尻から下が布団に隠れていても何の意味もないだろう。季節は春を迎える頃だといっても夜は冷える。風邪でもひかれたものなら、面倒が増えるばかりだ。
「あっ! だめ!」
 少女の声に頼次はたじろいだ。別に乱暴しようとかそういうのではないのに、吉乃に教えられた拒絶の言葉を使われると、その手は自然に止まる。
「ご、ごめん。でも」
「はなしちゃ、だめなの」
「な、なに? 駄目って?」
「て、握ってくれてたの」
「手?」
 ああ、お母さんかお父さんか。きっと眠る時に握っていてくれていたんだろうと、頼次は思った。それでも一応は問うてみる。
「えっと、誰が握ってくれたの?」
「カグヤ」
「カグヤ?」
 見当外れだったようだ。それとも、家族でもそんな他人みたいな呼び方をする習慣があるのだろうか。
「カグヤって、誰のことかな?」
 これは好奇心ではなく、手掛かりを捜すためだ。けれど頼次の期待に反して少女はしばしの間を空ける。
「カグヤはカグヤなの」
 困った上での返答だった。小さい声に戸惑いが隠れているのが分かる。頼次はもう少しだけゆっくりと、それでいてやわらかい声を心掛けた。
「男の人? 女の人?」
「ええっと……」
 また困ったような声だ。まさか男と女の区別がつかないなんて、そんな話では困ると内心で頼次は焦っていた。
「ええと、俺といっしょかな?」
 我ながらおかしな訊き方だと分かってはいても、もう口が喋っていた。
「たぶん、違う」
 今度は即答だった。
 じゃあ女の人か。近しい者の名前なのかもしれない。吉乃の言うとおり、育ちのよい生まれにある者ならば、それもあるだろう。
「たぶん、おとこの人」 
 明りがないので少女には見えていないとはいえ、この時の頼次は心底嫌そうな表情をしていた。相手はまだ子どもだ。分かってはいても、話が通じないにも程がある。
「あのね、カグヤはとってもきれいなの」
「綺麗?」
「うん。きれい」
 あぁ、なるほど。綺麗な、つまりは美男子ってことね。頼次は納得した。と同時に少し悲しくなった。つまり頼次は綺麗じゃないと言ってるようなものだ。所詮、子どもの言うことだ。気にすることはなくても、面と向かって言われてしまえばそれなりに傷付く。それも相手が子どもだといえ、可愛らしい容姿をしているから尚更だ。
 けれど、ここで終わってしまうのも後味が悪いし、何より話が通じるうちに訊いておきたいこともある。頼次は続けた。
「カグヤはどんなかんじの人かな? 髪は短い? 長い?」
「髪はみじかい」
「どのくらい? 俺より長い?」
「短い、と思う」
「髪の色は?」
「黒い」
「そう。目はどんなかんじ?」
「目はあおい」
「あおい?」
「蒼い眼の色してた」
 頼次の瞬きの回数が増えた。
「じゃあ、カグヤは異邦人ってこと?」
「イホウジンってなに?」
「ええと、遠くて違う国から来た人ってこと」
 もっと別の言い方をすればよかったと後悔しても遅かった。
 子ども相手となれば、使う言葉もより選ぶべきでも、都合良く語彙が増えるわけでもない。少女はしばらく頼次の声を待っていたようだが続きが出ないと判断したのか、先と変わらぬ声音で言った。
「カグヤは月からきたの」
 予想外。だとしても、嘘みたいに聞こえないから本気で言っているのだろう。頼次は口の中で声を探す。けれど、結局出てきたのはそのままだった。
「ええと、あのね。どういうことかな?」
 これのやり取りをして果たして意味があるのだろうかと、頼次はだんだん不安になってきた。
「でもね、いなくなっちゃったの」
 それは応えのようでいて答えではない。それでも応じてくれているのだから頼次はまた訊き返す。
「カグヤが?」
「うん。だからわたしは捜すの」
「あぁ、それで迷子になっちゃったんだね」
「違う。迷子になったのはカグヤ」
 どうしても自分が迷子なのだと認めたくはないらしい。こうなると一歩も譲らないのは勉強済み、だから頼次は少しだけ引き下がることにする。 
「あぁ、うん。そうだね」
 ここで頼次はやっと気が付いた。言葉を交わしている。つまり、会話をしているということに。
 しばしば噛み合わないところはあるものの、「わからない」と「しらない」よりは幾分かは楽だ。この調子ならいけるかもしれない。もう少しだけ頑張って、もう少しだけ噛み砕いて、分かりやすくすれば手掛かりには繋がるかもしれない。
「カグヤは月にかえったの」
 と思った頼次の心は最後に見事に打ち砕かれた。



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