拒絶をするのに、これほど便利な言葉は他にはないだろう。何を訊いてもこの繰り返しに先に根を上げてしまったのは
とはいえ本当に何処から来たのかも分からなければ、本当に自分の家が何処なのか分からないのかもしれない。彼女が嘘をついているようには、頼次には見えなかったのだ。
拒否したくてしているわけではないにしても、迷子だということには違いないのに、彼女はそれすら認めようとしない。拾えた情報といえば相当な頑固者だということ、それは何の役にも立たない。
「あらあら、まぁまぁ。目が覚めたようですねぇ」
歳は
「あのまま目覚めないのではと、心配していたのですよ。本当によかった」
それを吉乃は何度も繰り返していた。別によいことなんて一つもない。頼次は心の中でまた顔をしかめた。
空はすっかり藍の色に染まっている。
さすがに、追い出す訳にはいかない。そんなことをしてみれば、徳之輔と吉乃に袋叩きにされてしまうだろう。頼次は少女を視界の端に入れる。いたいけな子どもだ。ちょこんと、畳の端に座って、これらのやり取りを見ているだけ。当事者なのにまるで他人事みたいに顔色を変えず、それも飽きたのか、少女は外を見ていた。
今宵は満月だ。雲もなく、風もなく、ぽっかりと浮かんだ月は黄金の色をしている。
まさか、月から来たお姫さま、とか? そういうお伽の話を聞いたことがあるような、それともそれはお姫様ではなく、別の――。
頼次の思考を遮ったのは吉乃の声だ。
「さぁ、まずはお食事に致しましょうね」
妙に張り切っているのは気のせいではないだろう。
吉乃は夫に先立たれて子どももいない独り身だ。未亡人にしておくには勿体ないと、都にいる時から縁談の話は相次いでいたらしいが、吉乃はそれに取り合わない。同じく四十過ぎても
「それからお湯処に。あぁ、お布団は新しいのがあったかしら? お客様だなんてはじめてですから、しばらく干してはいないけれど、この際よいかしらねぇ」
最後の方はもはや独り言だった。「あぁ、忙しい」としきりにぼやいてはいても吉乃の声には嫌味はない。いつもこうならば、と頼次は思う。
「そいじゃ、私はここで失礼致しやすよ」
よっこらせ、と。掛け声付きで腰を上げた徳之輔に頼次は慌てた
「や、夕飯くらい一緒に」
「どうしたんですかい? 珍しい。こりゃあ明日は雨ですわ」
頼次の縋るような目は徳之輔の笑い声の前では何の効果もないらしい。
「今日のところは約束があるんですわ」
約束という名の口実。なんとか一人でも仲間を増やそうとした頼次の作戦は失敗に終わった。
三日に一度、徳之輔は居酒屋に出掛けては明け方頃に戻ってくる。仮にも領主の付き人が夜に主から離れるなど普通では考えられない話だろう。だけど、ここは琉翠国。温厚でのんびりといえば聞こえがいいが、臆病で人の目を気にする弱腰揃いの国なのだ。
こそこそと陰口を叩いたり、罵ったり、余所余所しい態度を取ってはみても、直接危害を加えたりはしないのが現状、それは東の姓を持つ者に対する恐れの現れの他ならない。だからこそ頼次には二人しか従者はいなかった。つまりはそれで十分ということだ。
話の噛み合わないこの少女と一緒なのは正直にしんどい。頭を抱える頼次とは裏腹に彼女はきょとんとしたまま。一体、何を思っているのか。何を考えているのか。頼次には全く持って分からなかった。
「まぁぁ、育ちの良いお嬢様ですこと!」
破顔する吉乃に頼次は思いっきり頬を引き攣らせた。
夕餉の秋刀魚は骨だけを残して綺麗に食べられているし、茶碗には米粒一つ付いていない。また箸の持ち方も正しく、茶をすする時も音を立てることなく気品のある所作だ。どこかのお嬢様の可能性は無きにしも非ずというところか。だとしても、なんとなく頼次は居心地が悪かった。
吉乃は頼次の教育係の一人だった。それも都にいた頃の随分と前の話だ。
氏族の息子としての教養を身に着けて、人前で恥ずかしくないように振る舞えるのは吉乃のおかげだろう。それは否定はしないものの、とにかく吉乃は厳しかったのだ。泣きべそをかいたのは一度や二度ならず、そんな吉乃からこんな声が出てくれば、それはなんだか面白くはない。
とはいうもの、彼女の湯あみを手伝い、また着替えや髪の手入れまでしてくれた吉乃には、やはり感謝せざるを得ない。頼次一人であったなら途方に暮れていただろう。
食事の後に瞼を擦る仕草をした少女に、吉乃はいそいそと床の準備をする。あいにく、部屋の数ならばいくらでも空いているのでそこは問題なく、しかし案内されるなり、少女は急に不安そうな顔をした。
「ひとり?」
畳と布団があるだけの、殺風景な部屋だ。子どもが一人で寝るにしては広いくらいの。
「えぇ、そうですよ。ゆっくり休んでくださいましね」
安心させる声音だというのに、少女は表情は固い。
「ひとりは嫌なの」
「え? どうしました?」
「ひとりはこわい」
聞き落しそうなくらいの声に、頼次と吉乃は顔を見合わせた。しばしの沈黙が下りる。
「困りましたねぇ」
「うん。でも、まぁ……その、こわいっていうなら吉乃と」
言い切らぬうちに袖を引っ張られていることに頼次は気が付いた。物言いたげに寄越した視線が刺さる。痛い……、けれども逃げ場はない。
「え? 俺、と? いや、それもちょっと」
「いっしょが、いい」
どういうわけか、懐かれてしまったようだ。
言い聞かせようにも子どもを説得させるような弁を頼次は持たず、また捨て犬みたいな眼をされてしまえば、拾うしかなくなる。頼次は助けを求めるべく吉乃を見たが、従者は唸るばかり。少女は頼次と吉乃を交互に見て、意思表示をする。頼次は困ってしまった。
十くらいの子どもだといっても、頼次は成人した男だ。とはいっても、大人が傍にいた方が安心するならその方がいいとして、幼い妹が兄を慕うような、いやそれよりは、生まれたばかりの雛鳥がはじめて見た者を親と思う心情に近いのか。
結局、少女の分の布団を運んで頼次の部屋で一緒に寝ることにした。二つの布団が仲良く並んでいる。まるで夫婦の寝所のようだ。
「頼次さま」
「うん?」
呼び止めた声は、心なしか重く届いた。
「まさか頼次さまに限っては大丈夫かと思いますけれども、それでも万が一がございます。いいですかくれぐれも、」
「ございません」
きっぱりと言った頼次に吉乃の眉が吊り上がる。
「ええ、ええ。そうでしょうともそうでしょうとも、けれども男女のソレというのはいつ何があるか」
「ありません」
畳語は吉乃の癖の一つだった。否定されても、なおも念を押す声は聞こえる。
「いいですか? 頼次さま。こちらはよそのお嬢様でございます。ですからくれぐれも、どうかどうか早まりませぬようお願い致します」
「早まりません」
ここまで来ると素直に聞き入れておいた方が早く終わるので実際は楽だ。けれど人を獣か何かの扱いにされて「はい。分かりました」と素直に返すのも癪だった。
強情なのは吉乃も頼次も一緒であり、割って入るのが徳之輔の役割だというのに今ここにいないのだから、止める者はいない。されど、根負けしたのは吉乃の方で、忠告をする相手を変えたらしい。吉乃は少女に向かって殊更真顔になる。
「もし嫌なことをされたら大声を上げるか、もしくは思いっきりお顔を引っ叩いてやりなさいね。それで大抵はどうにかなりますから」
「うん。わかった」
いいや、何もわかっちゃいない。頼次の心の声は吉乃にも聞こえているはずだ。吉乃の眉間の皺がそれを語っている。
当の本人は露知らずで、頬の右にも左にも小さなくぼみが出来ていた。笑うとえくぼが出来るんだと、頼次はそこではじめて彼女の笑う顔を見た気がした。