爽やかで心地の良い陽光もまだどこか頼りない。
 春の訪れまであと二十は夜を越えないとならずに、それは待ち遠しいばかりだ。
 奥まで日が入ってこないこの建物は底冷えがしてとにかく寒い。板張りの床は踏む度に嫌な音を立てて、いくら歴史のある建造物とはいえ、建て替えをしないままにしておくのはいつか床が抜けてしまうだろう。
 官庁勤めはそれこそ一昔前は若者の憧れる仕事であったはず、しかしこの二人の男を見る限りではそれはなく、雑務に追われる日々を過ごすだけである。矜持や畏敬などどこにも見当たらないもので、それは二人の顔にありありと描かれていた。
「早く上がって一杯やりたいなぁ」
「おっ、いいねぇ。こう寒くちゃ仕事にならないよ」
 愚痴のような声は毎度のことであった。寒いなど今にはじまったわけでもないのに、口からは勝手に出てくるのだ。
「あぁ、駄目だ。まだこれが残ってた」
「なに? 厄介な仕事?」
 ぼやきは更に憂鬱なものへと変わる。
「うん。あとはこれに印を貰うだけなんだけど」
 手に持っていた書類を見れば自然に溜息も出てくるのだろう。
 子どもでも出来るような簡単な仕事であり、何をそこまで嫌がる必要があるのか。それには理由があるが、口に出さないのがここでの暗黙の了解だ。しばし目と目だけで会話をする。言いたいことは同じで、故に頭を悩まていた。
「印なんて別に貰わなくてもいいだろ。大して意味のあることじゃないんだし」
「そういうわけにはいかないよ。一応、それがあの人の仕事なんだから」
「それしか役割がないの間違いじゃないのか? 領主サマだってのに何だって、」
 罵詈雑言はぴたりとそこで止む。東頼次あずまよりつぐ。渦中の人がすぐ前にいたからだ。二人は同時に顔が固まっている。まるで石のようだ。
 何故ここに? そしていつの間に? 口の中で繰り返してみたところで、外へ出た言葉は今更引き戻せはしない。
「書類は明日でもいい。けれど私の部屋には必ず持ってくるように」
 領主サマの顔であった。ここは素直に頭を下げておくのが正しいだろう。
「は、はい。申し訳ございません」
「申し訳ございません、でした」
 咄嗟に声を作り変えることも出来ずに、それは形だけの謝罪となる。けれど領主サマはそれ以上咎めることをしなかった。おそらく、面と向かって叱りつけるほどの勇気を持ち合わせてはいないのだ。だからこうして皆に下に見られる。
 眉間に皺を寄せたまま、 彼は二人の間を通り過ぎて行った。結わえた黒髪が揺れる様は顔が別段美形というわけでもなかったので、残念ながらさほど絵にはならなかった。何のことはない。領主サマといっても、そこらにいそうな平凡な顔立ちをした人間だ。
 その姿が完全に見えなくなってから、二人は目だけの会話を再開する。悪口を言うのは、本人がいないことをしっかりと確認してからにしよう、と。暗黙の了解がまた一つ増えたのだった。












「迷子、だって?」
 衣紋掛けに羽織を掛ける途中で手を止めて、頼次は従者へと訊き返した。
「へぇ、どうもそうらしいです」
 主人の声に二度大げさに頷く。男の婉曲な言い回しからそれが人づてによるものだと察した。
 ただでさえ今日は嫌なことがあったというのに。屋敷に帰ってからは余計な考え事をしたくないのが頼次の本音だ。けれど一応は問うてみる。
「それで? どこで見つけた?」
「うちの庭でさぁ」
「庭? 迷い込んで?」
「いや、それがどうも……」
 こうも煮え切らない物言いをされれば、頼次の苛立ちは大きくなるばかりだ。分からないのであれば、素直にそう言えばいいものを、遠回しに言うから余計に話がややこしくなる。
 まのびした言い方といい、従者はいつもこうだ。主に負けず劣らずの平凡な顔立ちに、四十近い齢にしては白髪交じりの髪の毛は薄くどう見ても老けている。彼には徳之輔とくのすけという立派なあるのに、頼次には名前負けしているように思えてならない。
「あの木の下で寝ていたそうですわ。真ん丸にちっこくなって」
 ご丁寧に膝を抱えた動作まで付け加えて、徳之輔は表現をする。
「なんだい、それは」
 頼次は溜息をついた。
「今日は天気が良かったですからねぇ」
 絶好の昼寝日和とでも言いたいらしい。犬や猫じゃあるまいし、他人の家の庭に勝手に入った挙句に地べたで寝転がるだなんて有り得ない話だ。とはいえここで頭を抱えていても何の解決にもならない。頼次は話題の主に目を向けた。
 艶のある美しい黒髪の少女だった。前髪はちょうど眉が隠れるくらいに切り揃えられているが、後ろ髪は肩の辺りに不揃いに切っただけ。綺麗な黒髪なのに頼次は勿体ない気がした。年は十くらいだろうか。小柄で華奢な少女には可愛らしいという言葉が良く似合う。穏やかな寝息が聞こえてくるものの、その呑気な様子に頼次は少しばかり呆れていた。
「それで? 肝心の吉乃きつのはどこに行ったんだい?」
「あぁ、吉乃なら買い物ですわ。今日は秋刀魚が安いとか言っておりましたから」
 なんて能天気なことだろう。
 迷い子を拾った当人はそれをほったらかしで、今晩のおかずの魚に夢中ときた。女中としては当然の仕事といえばそうかもしれないが、家長に一言もなしに出て行くとは如何なものか。頼次は口には出さずに頭の中で愚痴を繰り返した。
 徳之輔も吉乃も幼い頃から頼次に仕えてくれている信頼のおける従者だ。都から遠く離れたこの琉翠りゅうすいの国に嫌な顔一つせず共に来てくれたことも、今日まで変わらずに世話をしてくれることも、頼次は二人に感謝という言葉以外が見つからない。
 領地としてこの国を与えられたのは頼次が十四の時であった。
 東の国を治める一族の名を知らぬ者はいないだろう。この琉翠の国でもそれは例外ではなかった。
 氏族の息子として育ち、いわば温室育ちであったために、右も左も分からずにその当初は苦労をしたものだった。だから琉翠の人々は、彼が領主であったとしても、誰にでも出来るような簡単な仕事だけを任せているのだ。即ちそれは、形だけの領主であり、言ってしまえば頼次は身内から厄介ばらいをされたのである。
 頼次にこの琉翠の国を与えたのは(正確にいえば追いやったのだが)母が違うとはいえ、血の繋がった実の兄だ。
 優秀で人望のある兄と、いわばぼんくらである弟と、そのどちらが跡目に相応しいかなど比べるまでもないが、だがしかし、よかぬ者がよからぬ考えを必ずしも持たないとは言い切れない。理知的である兄は、頼次を都から遠ざけることで争いの種を未然に防いだのだ。
 存在を邪険にされたところで頼次は兄を恨むといった感情を一切持たなかった。それよりも、穏やかに、ただ静かに暮らしていけるならば、それで十分だった。
 たとえ琉翠の人々から冷たい扱いをされようとも、頼次一人がそれを我慢しさえすれば事は何も起こらないだろう。だから頼次はこの琉翠の国に領主として、ここにいるのだ。
「それにしてもあの木の下で眠るなんて、不思議な子ですねぇ」
 不思議というよりもはっきりいって変わっている。頼次は二度目の溜息をついた。
 徳之輔の目は庭を向いている。ちょうど日が落ちる頃で、朱と橙が入り混じった陽光が目に眩しい。
「あのユズリハの木には何かあるんですかねぇ?」
「あれには関係ないだろう。ただのユズリハの」
「ゆずりは!」
 後ろからの思わぬ声に、頼次も徳之輔も振り返った。
 少女はごしごしと目を擦り、次には口を大きく開けた。うつりそうな大あくびでも、可愛らしく見えるのは、彼女がそれほど魅力的であるからだろう。少女は頼次と徳之輔を交互に見て、それからきょとんとした。
「あ、あぁ、起きたのか。よかった。私は頼次という。隣にいるのは徳之輔だ。きみの名前は? きみはどこから来たんだい?」
 いくらか間抜けな顔をしてしまったが、頼次はすぐに持ち直して少女に問うた。しかし、無垢な眸は頼次を捉えたままで、唇は動かない。
「頼次様。一度に質問し過ぎでございますよ」
 横槍を入れてきた従者を一瞥してから頼次は咳払いをする。
「すまない。きみは何ていう名前かな?」
 もう少しゆっくりとした口調で、それでいてやわらかい声を心掛けてはみたが、やはり視線が交わっただけで、事は進みそうにもなかった。
「ええと、お名前は?」
 少女はだんまりを決め込んだらしい。質問はことごとく無視をされ、しかしこれに段々苛々してきた頼次とは対照的に、徳之輔はしきりに首を捻っていた。
「なんでさっきは反応したんですかねぇ?」
 じいっと中年の男に見つめられても少女は動じる素振りも見せない。
「あ、ひょっとして」
 大袈裟に徳之輔は手を叩く。
「ゆずりは」
「はい!」
 呼びかけには元気な声が返ってきて、ご丁寧に片手までぴんと上がっている。
「あぁ! やっぱりそうでさぁ! この子はゆずりはって名前なんですわ」 
 ご名答と言わんばかりに徳之輔は白い歯を見せた。
 名を呼ばれたことが嬉しかったのか、少女の無の色も少しばかり明るいものへと変わっている。頼次はというと、喋れるくせになんで嘘をつくのかなと、口の中が苦くなっていた。それでも受け答えは出来るようだからこの機会は逃さない。
「で、ゆずりはちゃんはどこから来たのかな?」
「ゆずりは」
「ゆずりはちゃんは」
「ゆずりは」
 間を入れずに入ってくる。頼次は心の中で顔をしかめつつ、話の通じない人だと思った。
 いや、待った。これは彼女なりに何かの主張があるのかもしれない。少し巡らせた後に頼次はもう一度呼びかけることにする。これは賭けだった。
「ゆずりは、はどこから来たんだい?」
「えっと……?」
 どうやらこの「ちゃん」付けが気に入らなかったようだ。訂正してやっと話す気になった少女を、頼次は安心して待つことにする。何ともいえない空気の中で、ついに少女の薄い唇が動いた。
「どこから来たのか分かりません!」
 えらく自信のある声はまるで他人事だった。
 考えた末の言葉がそれなのかと、頼次はがくりと肩を落とす。横にいた徳之輔は堪え切れずに噴き出していた。



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