六章 あるべき場所へ

南へ

 東の塔から北へと行けば庭園が見えてくる。
 ブレイヴを迎えてくれる彩りは秋に咲く花だろうか。イレスダートもそろそろ夏から秋へと移り変わろうとしている。
 エレノアは一年ものあいだ、ここに閉じ込められていた。
 自由は制限されていても、心安らぐための時間は必要だったのだろう。この庭園を抜けていくとき、エレノアはなにかを懐かしむような、そんな顔をしていた。
 いつもはおしゃべりな母親が静かなので、ブレイヴもずっと黙っている。そうして会話もないままに、母子は落葉樹の森へと入って行く。白樺の広がる地帯をさらに奥へと進めば、そのうちに小屋が見えてくる。墓守の一族の小屋だ。
 ちょうど仕事を終えた老人と子どもが戻ってくるところだった。孫娘だろう。でもちゃんと墓守の仕事を手伝えるようで、両手でしっかりと木桶を抱えていた。
 子どもらしい好奇の視線を送ってくる孫娘とは対照的に、老爺はぶすっとしている。機嫌が悪いわけじゃない。この表情は生まれつきだそうだ。一揖して去って行く二人にブレイヴも会釈した。彼らがここを守ってくれているから、ブレイヴの家族たちも安心して眠ることができる。
 墓地には血の跡も残っていなければ、血のにおいも消えている。先ほどの老爺と孫娘だろうか。いや、ブレイヴたちが来るよりも先に、ここを綺麗にしてくれる者が他にもいる。ジークだ。ブレイヴは口のなかでつぶやく。アストレアの鴉はこの場所を血で穢した。でも、騎士がそうしなかったら、あの男を斬っていたのはブレイヴだった。亡骸は王都マイアに着いた頃か、あの男の声が嘘じゃなかったのなら、きっと今頃ブレイヴはその家族に憎まれているはずだ。
 聖騎士だった父ならば、どうしていただろう。
 ブレイヴは心のなかで呼びかける。兄上でしたら、どうしていましたか?
 二人ともブレイヴとは別の方法を取っていたかもしれないし、おなじ選択を選んでいたかもしれない。 
 伝えたいことは他にもたくさんあったので、どれから言葉にするべきかすこし迷った。小一時間が過ぎてふと隣を見たところ、エレノアの姿はすでになかった。いつのまに帰ったのだろう。長く軟禁されていたエレノアにはたくさん仕事が待っている。声も残さずに言ってしまうのはあの人らしいし、それに――。
 一人になっても、泣いたりなんかしないのに。
 母親から見れば成人後の息子など、いつまで経っても子どものままなのかもしれない。墓守のところへと戻ればやはりエレノアの姿は見えずに、代わりにいたのは幼なじみだった。勝手にここに来てしまったことを悪く思っているのか、視線はすぐに外された。
「レオナが祈ってくれるなら、きっと喜ぶ」
「でも……」
 ここはアストレア公爵家に連なる者だけが許された場所だ。だから、自分にはその資格がないのだと、幼なじみはそう思っているらしい。そんなこと気にする必要なんてない。王の命令に従って、白の王宮の地下深くへとブレイヴは訪れた。歴代の王家の者たちが眠る場所に足を踏み入れたブレイヴが許されたのなら、彼女だっておなじはずだ。
 白樺の森のなかで昔の話をすこしだけした。自分の父親と兄弟の話を幼なじみの前でするのは数えるくらいだった。父親はアストレア人にはめずらしい長身で偉丈夫だったので、幼い王女はアストレア公爵を怖がってカーテンに包まって出てこなかった。これはまいった、嫌われてしまったかな。声音はそれほど落胆したようにはきこえずに、仲良くなりなさいと父親はブレイヴの背を押したのだった。
「さっきの言葉は、嘘じゃないよ」
 幼なじみが瞬く。
「父上はね、レオナのはなしをするといつも嬉しそうに最後まできいてくれた。ロイド兄上が生きていたら、王都に行っていたのは兄上だったと思うし、きっとレオナと仲良くなれた」
 そうして、父のように聖騎士になっていたのも自分ではなく兄だった。悲しいのだろうか。幼なじみはうつむいていて、こっちに目を合わせてくれなくなった。
 仮定の話だ。ブレイヴは兄の顔を見たことがない。生まれつき身体の弱かったロイド公子は三歳までしか生きられず、そのほとんどの時間をアストレア城内の東の塔で過ごした。
 けれど、もしもとブレイヴは考えてしまう。
 兄ロイドが病弱ではなかったのなら、六つ歳の離れた弟のブレイヴよりも先に、父親は王都マイアに連れて行った。王家の末姫のレオナとは八つ年の差があるから、ブレイヴやディアスのように幼なじみの関係にならなかったかもしれない。騎士と姫君。それこそ、正しいあり方だ。
「でも、ブレイヴは王都マイアにきたでしょう? そうして、わたしに会いにきてくれた」
「そうかもしれない。自分も王都に行きたかったって、駄々をこねて父上も兄上も困らせていたかも」
 幼なじみがくすくす笑う。
「きっと、エレノアお母さまには叱られてしまうね」
 ブレイヴを見つめる瞳は純粋そのものだった。なぜ、いまになって会えなかった兄の話をしてしまったのだろう。きっと、アストレアに帰ってきたせいだ。
「レナードとノエルが、待っているみたい」
 レオナがここまで捜しに来てくれたもうひとつの理由、二人ともちゃんと仕事を終わらせたみたいだ。
「アステアは戻ってきてくれたけれど、セルジュはまだでしょう? 相談したいこと、あるみたいで。ジークもルテキアもね、みんな待ってる」
「約束の期日は明日だからね」
「うん、そう。でもセルジュはまだ、エーベル家にいるでしょう?」
 ブレイヴはうなずきで返す。冗談ではなく、軍師は本当に間に合わないのかもしれない。白樺の森を抜けて庭園へと戻ってくれば、庭師と助手が忙しそうに薔薇の剪定《せんてい》をはじめていた。彼らの邪魔にならないように気をつけながら、ブレイヴはそこを通って行く。
「クライドのところに、行くのね?」
「ユングナハルは遠いから、次はいつ帰って来られるかわからない」
「うん……」
 約束を取り付けていたのなら、異国の地へと向かう口実ができていただろう。でも、彼はブレイヴを待たずに勝手に帰っていて、けっきょく別れの声もしないままだった。これでは他人みたいだ。クライドらしいといえば、そうなのかもしれないが、これではあまりに味気ない。
「アストレアは、きっとだいじょうぶ。この国にはおかあさまがいるもの。それに、ダミアンも」
 どこかで迷っているように見えたのなら、笑みで返したのは失敗だったと思う。
 アストレアを、イレスダートを追われて他国へと行ったときとは訳がちがう。ようやく戻ってきた公子がまた国を離れるなど、アストレアの民は不安になるだろう。イレスダートの他の国だってまだ不安定な状態だ。内乱が収まったら何もかも終わったわけでもない。そんなことはわかっているし、ブレイヴの王もその先をちゃんと見ている。
「兄上はちゃんと、これからのことも考えてくださるわ。だからあなたに、託したのだと思う」
 ブレイヴはうなずく。イレスダートの内乱に乗じて動いたユングナハルを忘れてはいないからこそ、私情を挟んだ申し出にも応じてくれた。王都は白騎士団ともう一人の聖騎士であるフランツに、アストレアはダミアンに託している。それなのに、なにをこれ以上迷う必要があるのか、きっとレオナもそう言いたいのだろう。 
「杞憂であれば、いいんだけれど……」
 心のなかでつぶやいたつもりが、声にしてしまった。幼なじみが次の言葉を待っている。
「ここに残ってほしいのと、でももう半分は一緒に来てほしいのと。本音は半分ずつ、かな」
「あのね、ここはすぐに退屈するからって。ダミアンが北に来るように言ってるいるの」
「知ってる。本気なのか冗談なのか、わからないけど」
 でも、ブレイヴの従兄弟は気に入ったものを自分の手元に置きたがる性格だ。
「それはちょっと、嫌だなって」
 レオナは望んでアストレアに来た。幼なじみが行きたいと願うところへと連れて行くのが自分の役目、そんなのはきっと建前だ。幼なじみがきょとんとしている。なにをいまさらと、そう思われているのかもしれない。幼なじみが何かを言いかけようとして、向こうから大きな声がきこえてきた。レナードとアステアだ。律儀に東の塔で待っていたらしい。
「やっと戻ってきた!」
「兄上が帰ってきましたよー!」
 そんなに騒がなくともきこえている。苦笑するブレイヴの横を幼なじみがすり抜けて行く。他にもルテキアにシャルロット、デューイと勢揃いしていた。ところが、皆でわいわいやっているところに一人だけ不機嫌なのがいる。セルジュだ。ちゃんと間に合ったものの、ひさしぶりの生家は軍師を疲れさせたようだ。 
「ジークとノエルを呼んでほしい。それから、フレイアとクリスも」
「かしこまりました」
 以上がユングナハルへ行く者たちだ。異存はないと、セルジュがうなずく。しかし、なかなか歩き出さないブレイヴにすぐに怪訝そうな声がした。
「どうしました?」
「いや……、怒らせたのかもって」
「はい?」
 軍師の追及を笑みで誤魔化して、ブレイヴは執務室へと向かう。なにをいまさら。本当にそうだ。レオナを白の王宮から連れ出したのはブレイヴで、その先がアストレアだろうとユングナハルだろうとおなじこと、彼女はもう鳥籠の姫君とはちがう。
 けれども、どうしてだろう。このときブレイヴの足を止めた予感のようなものを、自分の勘というものを信じようとしなかったのは。あのとき、こうしておけばよかっただなんて、あとからならどうとでも言える。 









 横殴りの雨から逃れるようにして、彼は酒場へと入った。
 普段から飲んだくれの男たちの姿もあれば、彼のように突然の雨に見舞われてここに駆け込んだ旅人の姿もそこそこに、さほど広くはない店内で席はほぼ満席となっていた。
 給仕娘が麦酒エールを運び、また別の席からもすぐさま声がかかる。調理場からは香ばしいにおいが漂ってくる。ここの名物は羊肉の炙り焼きのようだ。
 彼は店内をぐるりと見回した。やはり席は埋まっていて、それぞれが麦酒を片手に食事をたのしんでいる。
 さて、どうしたものか。
 彼はびしょ濡れになった外套を脱いでいたし、この雨のなかでもう一度外へと出る勇気もなかった。彼より先に店に入っていた旅人たちは、名物の麦酒と羊肉を断り、白パンと林檎酒シードルで一杯やっている。なるほど。旅人たちはイレスダートの巡礼者らしい。敬虔なヴァルハルワ教徒たちは旅先でも肉は食さず、酒のなかでも許されているのは林檎酒だけだった。
 旅人たちが長い祈りを唱えはじめたのでそれを待っていたら身体は冷えるだけ、では地元の住民に交じってひとつ面白い話でもきかせてやれば麦酒の一杯でもご馳走してくれるだろう。しかし、男たちは自分たちの話で盛りあがっている。家でいつも口喧しくする太った女房の悪口に、南のじいさんが孫ほど歳の離れた娘に懸想してこっぴどく振られただとか、倅が隣町から嫁をもらってきたものの男みたいな大女だったなどなど、僻邑に住まう人々のたのしみといえばこうした下品な話ばかりだ。
 早いところ席に着かなければ給仕娘に追い出されてしまう。そこで彼は一番奥の席を見つけた。円卓にグラスはひとつのみ、他の連れもいないようだ。
「相席しても?」
 こたえが返ってくる前に、彼はもう座っていた。
「麦酒とレンズ豆のスープ。それから、この店のおすすめを一品頂こうかな」
 彼は片手をあげて給仕娘を呼び止めると、次々と注文をする。身体が冷えていたのでまずはスープで温まろうという作戦だ。麦酒とともに羊肉の串焼きもそのうちに運ばれてくるだろう。勝手に相席された相手は迷惑そうな顔でいる。彼はにっこりとした。
「やあ、ユノ。こんなところで会えるとは思わなかった」
 彼は突然の横殴りの雨にうんざりしながらこの店に入った。つまりここに来たのは《《偶然である》》と、そう主張しているのにもかかわらず相手はまるで信用していないらしい。思いがけない再会というのがどこまで本当か。なにしろ彼は嘘をひとつ吐いている。同族のにおいを辿るのは彼にとって造作もないことだ。
「イレスダートで大きな争いが終わったようだね。けどまあ、もう一波乱ありそうだけど」
 彼はスープを啜りながら言う。相手が声を返してくれないので、大きな独り言みたいだ。遅れて運ばれてきた羊肉に齧りついて、麦酒で流し込む。串焼きを相手に差し出すと、また無視された。
「あれっ? ユノは肉を食べないんだっけ?」
 ヴァルハルワ教徒が肉を禁じられていても、相手がそれだったかどうか記憶は曖昧なのは、前に会ってから三十年は過ぎていたからだ。その前がいつだったかも忘れてしまったし、そもそも彼らにとって時間の流れというのはさほど重要なものでもない。いま、彼の目の前にいる相手は三十年前は子どもの姿をしていたものの、また別のときには青年だった。聖職者のごとく白い法衣に身を包んでいるのは、その白肌と白髪を隠すためだろう。彼の知るユノという竜族は面倒に巻き込まれるのをことに嫌う。
「まあ、いいや。でも、君がどうしてこんなところにいるの? 誰かを待っていたのかな? ああ、たしか……君の連れ合いの、」
「五月蠅い」
 声が返ってくるとは思わなかったので、彼はいささか驚いた。彼はいつもみたいにべらべらと喋っていたつもりである。なるほどなるほど。《《彼女》》の話題は禁句のようだ。
「ごめんごめん。ユノ、君を怒らせるつもりはなかったんだ。ただ……」
 彼はじっと相手を見つめる。雪花石膏アラバスターの肌、長い白髪、それから青玉石サファイアの瞳。ユノという青年を作る色はとにかく異質であり、しかし人を誑惑きょうわくするうつくしさを持っているのもまた事実、もっともそれでいうのなら彼の容姿も似たようなものだ。うつくしいものに化けるのには魔力があれば造作もないことで、しかし彼らは意識せずともその姿を保っていられる。彼は麦酒を飲み干すとにっこりとした。
「そうしていると、本当に人間みたいだ」
 店内は酔っぱらいたちがたのしく騒いでいるので、ここでの会話は二人にしか届かない。ここに竜族が二人混じっていても、誰も気がつかない。
「じゃあ、もう行くよ。今度はね、南へ行ってみようと思うんだ」
 彼の旅には目的というものがなく、気の向くままにただ歩いているだけだった。イレスダート、またはその周辺に散らばっている同族を見つけるのも気まぐれで、別に関わろうとも思わない。けれどもどういうわけか、彼はこの白い青年の前ではことさら饒舌になる。
「そうそう。運が良ければ会えると思うんだ。君の兄弟……、そう白の姫君にもね」
 風の吹くままに旅をするのは悪くないし、気が変わって同族に会いに行くのも良いだろう。
「ああ、そんなに心配しなくてもいいよ。ユノ。僕はね、どちらにも味方するつもりなんてないからさ」
 だったら黙って見ていろ。同胞はそれ以上声を発しなかったが、しかしちゃんと目顔をそれを読み取った。
 だから君は人間みたいなんだよ。彼は独りごちて席を立った。せっかくの再会だ。物別れなんて味気ない。次に会ったときにはどんな土産話を持ってこようか。別れの挨拶などせずに、彼は銀貨を二枚置いて行く。酒場を出たとき、雨はもうあがっていた。


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