六章 あるべき場所へ

その頃のふたりは

 清冽な水と緑の濃いにおいがする。
 山毛欅ブナの森を南下しているうちに湖へとたどり着く。夜通し歩いていたレナードは、水面に頭から突っ込んだ。ようやっと落ち着いて顔をあげたレナードは瞬きを二回する。はじめは朝の光に目が眩んでよくわからなかった。
 湖の姫君だ。
 つぶやいたとき、隣のデューイはまだ水をがぶ飲みしていた。二人とも喉が渇いていたし足もくたくただったので、湖は命の水そのものだった。
 レナードはデューイを見る。デューイはきょとんとしている。ほら、お前も見ただろ? そう言うとデューイは怪訝そうな顔をする。
 豊かな森の緑と湖の国アストレア。
 この国には精霊も妖精もひっそりと隠れ住んでいる。最初は母親の膝の上で、母親が忙しいときに子守をしてくれるのは祖母だ。アストレアの子どもたちは何度繰り返されてもこのおとぎ話が大好きで、大人になってもその存在を疑わない。イレスダートを守護する竜よりももっと近しいものだと思っているし、精霊に巡り会えた者は勇者のように扱われる。
 じゃあ、嘘つきはどうなるんだ? 問われてレナードはちょっと間を置く。決まってる。獣に喰われておしまいだよ。女神アストレイアは正しき者を導くけれど、悪人は決して助けない。
 レナードとデューイは山毛欅の森をずっと南へと進んでいる。
 アストレアで生まれ育ったレナードは地図を頭にたたき込まなくとも、この辺りの地理はしっかり覚えている。計算が狂ったとすればレナードがお人好しだったこと、それからこの二人の組み合わせだったこと、本当ならもうとっくにアストレアの城下街に着いていたはずだ。
「それよりさあ、俺は腹一杯パンが食べたいよ」
 またこれだ。レナードは内心でため息を吐く。ふとっちょの料理長の顔が思い浮かんだ。アストレア公爵家だけではなく、騎士団もお世話になっている料理長の作るパンはどれも絶品で、話した途端にデューイは唾を飲み込んだ。
「俺だって、おなじ気持ちだよ」
 きこえないようにちいさい声で言う。また喧嘩をするのはごめんだ。最初の喧嘩の原因はレナードにあったわけで、デューイはまだ根に持っている。
 公子から渡された銀貨は手元に残っておらず、ノエルが用意してくれた馬だってなくなった。あとで説明したら二人とも笑うだろう。でも、軍師はそうもいかないし、そのときデューイはきっと味方してくれないと思う。レナードはもう一度ため息をする。あの夜のことはあまり思い出したくはなかった。
 アストレアに向かうためにはムスタール領へと入る必要があった。
 聖騎士は叛乱軍を率いている大罪人と見做されている。ムスタールの人々にとってまさしく敵で、関係者となればただでは済まない。平服に身を包んだ二人は戦火を逃れてきた兄弟を偽った。髪の色はおなじ赤、顔が似ていないのだっていくらでも理由は思いつく。
「俺は嫌だよ。嘘を吐いたら精霊たちに惑わされるし、女神だってお怒りになる」
 駄々をこねるレナードにデューイはにやっとする。
「いいか、よくきけ。これは嘘でもなんでもない。正しいことをするための必要な手段なんだ。俺が兄ちゃんでお前が弟な」
 思い返せばこれが仇となったのだ。二人はいきなりムスタールで捕まった。戦場からほど近かったために、ヴァルハルワ教会の騎士たちが巡回に来ていたのだろう。宵の闇に紛れた旅人二人だなんていかにも怪しく、二人は集落の教会へと連れて行かれる。老齢の神父の前でデューイはさめざめと泣いた。
「俺たちはムスタールになんて戻りたくない。父さんも母さんも、妹や弟たちだってみんなあそこで死んだんだ。アストレアに行く。南に行けばまだ安全だ」
 口八丁なデューイにまんまと騙された神父は二人を逃してくれると言った。二人は心のなかで拳を突き合わせる。
「お可哀想に。神はすべてを見ておられますよ。この私に任せるのです。ですが、今日のところはひとまずここに留まりなさい。いいですね」
 レナードは言われるがまま席に着いて、神父が用意した葡萄酒ワインとソーセージ、それから白パンを胃の腑に収めた。親切な神父様だ。さすがは神の申し子だ。対照的にデューイはちょっと乾酪チーズを摘まむだけだった。
「あのじいさん、うさんくさいな」
 その時点で疑うのが正しかったのかもしれない。夜のうちに抜け出すと言って、デューイは出て行った。一人になったレナードの元に神父が戻ってくる。
「実は、あなた方とおなじ境遇の子どもがここにはいるのです。助けてはいただけませんか?」
 これにはレナードも警戒した。老齢の神父は子どもを一緒に連れて行けとは言っていない。寄付をせがんでいるのだ。扉の向こうから見つめている子どもと目が合った。レナードの妹よりもちいさい子どもだった。夕食を食べていないのだろうか。たらふく食ったレナードは罪悪感に負けて、神父の手に銀貨を一枚乗せた。それからデューイが慌てて戻ってきたときには馬が消えていた。教会のなかをくまなく探し回っても神父もあの子どもの姿も見えずに、二人は嘆声を漏らした。
 翌朝、ムスタールへと連行される前にもう一枚の銀貨で騎士を買収して、どうにか二人は逃げ出した。そこから先は散々だった。
「ああ、ったく。腹が減ったなあ」
 デューイはずっと根に持っている。あのあと派手に喧嘩をして、あわや殴り合いになるところで行き会った老夫婦に止められた。
「おやまあ、喧嘩をするのはお腹が空いているからですよ。うちにいらっしゃい」
 良い人に会うのはこれが二度目、さすがにレナードも騙されない。おなじアストレア人だとしてもだ。けれども老夫婦はこの似ていない兄弟に熱々の玉葱のスープをご馳走してくれたし、泊まっていきなさいと言う。先を急ぐからと断ったものの、やっぱり善意に甘えておくべきだったと、そうして二人はまた喧嘩した。
 そんなわけで、道中は苦労の連続だったのだ。とにかく二人には金もなければ移動手段もない。森のなかでは馬は進みにくいので後者はまだ良いとしても、食わず飲まずの旅は進みも遅れる一方だった。アストレア人は皆あったかいけれど、働かざる食うべからずの精神の者ばかり、二食一泊の恩を返すためには畑仕事を手伝うしかなかった。
 そうするうちに半月が過ぎていた。レナードとデューイはようやくアストレアの城下街へと到着した。
 こうして見ると、城なんて王都マイアの白の王宮よりもずっとちいさい。それでもレナードは、この見慣れた情景を目にすると泣きそうになった。
「知り合いに見つかると面倒だろ? お前はちゃんと顔を隠しておけよ」
 レナードはうなずく。普段のレナードなら偉そうにと食ってかかるところ、しかし年長者の声は素直にきいておくべきだと、そう思ったのだ。時刻は夕方がはじまるよりすこし前だった。空はまだ明るい。レナードは自分がほっとしていることに気がついた。あの日、アストレアを追われるようにして旅だったとき、空は燃えるような赤だった。
「騎士や兵士の姿が見えないな。いつもこんなものなのか?」
 問われてレナードはまたうなずく。城勤めする騎士たちは訓練の最中で、昼間の明るい時間ならば巡回をする騎士だってほとんどいない。でも、と。レナードはフードの下から目を凝らす。占領されている国には見えない。たぶん、デューイもおなじことを思っている。
 大工仕事を終えた男たちが大衆食堂へと向かっている。子どもたちもそろそろ帰る頃で、夕食がはじまる前に席についていないと母親に尻をたたかれてしまう。世間話をたのしむ老爺を迎えに来た娘は、根菜をたっぷり詰め込んだ籠を抱えている。ここだけ見れば普段どおりの城下街に見える。
 あの男は本当にこのアストレアにいるのだろうか。
 レナードは固く閉ざされている城門を見つめる。ここを出る前はまだ騎士団に入ったばかりの見習いだったとはいえ、レナードの顔を認めるなり騎士はすんなり通してくれた。いまは、どうか。近づこうとしてやめた。
 アストレアの人々は普段どおりの生活をしているようにも見える。抑圧されているのなら何かに怯えているだろうし、若者たちはまず反発する。一年が過ぎたことでそれが普通になってしまったのだろうか。いや、エレノアという人がいる限り、アストレアはそんなことにはならない。
 だからこそ、皆が彼女の身を案じている。エレノアはずっと東の塔に閉じ込められたままだ。
 レナードたちが城下街に着いたのは、公子が率いる叛乱軍が南下して王都軍とぶつかるより十日前だ。戦況がどうなったか、その結末だって知らずにいる。レナードは拳を作る。焦るな、ここまで来たんだ。ともかく、いまはエレノアに会わなければならない。
 かの人をそこから連れ出すことが不可能だとしても、接触さえできればそれでいいのだ。すでにブレイヴやレオナがイレスダートに戻っていることは伝わっているだろう。エレノアを盾にして、あの男は蒼天騎士団に叛乱軍と戦うように迫る。騎士団長トリスタンはどう動くか。きっと拒めないと、レナードはそう思う。トリスタンはエレノアの騎士だからだ。
 でも、そんなことをしなくてもいいんだ。公子は必ずこの国に戻ってくる。だから、あともうすこしの辛抱だ。それさえ伝えられたらそれでいい。
 デューイがぽんと肩をたたく。焦るなって。いつもみたいににやにやしている。
「ともかくさ、まずは腹ごしらえといこうぜ。すべてはそれからだ」
 レナードも笑う。その意見には賛成だ。二人はとにかく腹ぺこだったのだ。
 
 

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