五章 蒼空を翔ける

竜の谷

 グランルーザを経って三日が過ぎて、ようやく目的地が見えてきた。
 明らかな不調が見られていた飛竜ベロニカも、セシリアが近づくと目を覚まして皆が背に収まるのを大人しく待った。セシリアにつづいてレオナとアステアが乗り込み、ブレイヴもふたたび飛竜の世話になった。ただやはり無理はさせられずに、日が沈む前には街へと入って一泊した。そこはもう国境を越えた先、エルグランだ。
 イレスダートから来た巡礼者と案内役の竜騎士。敬虔なヴァルハルワ教徒を装うためには、大聖堂で行われる祭儀にも参加しなくてはならない。規則正しく並べられた椅子に腰掛けて、長い祈りの時間を教徒たちとともにする。贖罪。己の胸に問いかけたとき、ブレイヴはどうしようもなく胸が苦しくなった。真っ先に浮かんだ顔がオリシスのアルウェンだったからだ。
 午前の祭儀が終わるとベロニカが待っている竜舎へと向かった。そこからまた空の旅だ。
 山岳地帯が横たわるグラン王国には、モンタネール山脈の他にもさまざまな渓谷が存在する。山を越えて目指す先は竜の谷、その名のとおりに野生の飛竜が多く棲息する地だ。
 初日は順調にブレイヴらを運んでくれたベロニカが急に速度を落とした。
 グランルーザでは一日のほとんどを寝て過ごしたというので、どうやら無理をさせてしまったらしく、この日も人里へと降り立った。
 祭儀の時間には間に合わなかったので、白パンと玉葱のスープだけの夕食を手早く済ませて就寝する。空の上ではずっと元気だった魔道士の少年も疲れたようで、すぐに穏やかな寝息がきこえてきた。
 翌日、眠たい瞼を擦りながらベロニカのところに急いだ。夜明け前にはたどり着かなくてはならない。セシリアの愛竜は起こされても嫌がらずに、ブレイヴたちを乗せてくれた。
 空の上では頑丈な外套だけでは寒さを凌ぎきれずに、皆で身を寄せ合って耐える。東の空が明るくなってきた。夜明けが近い。はたして、間に合うだろうか。ブレイヴが案じるまでもなくベロニカが高度をさげはじめた。
 周りは断崖絶壁、しかし緑の絨毯が広がるそこにブレイヴは朱い色を見た。世界が眠りから覚めるように、その花もまた目覚めのときを迎えたのかもしれない。急く気持ちを抑えて、皆が地上に降りるのを待つ。幼なじみも魔道士の少年も笑顔でいるなか、セシリアだけが浮かない顔でいる。
「アステア。私はベロニカの傍にいますから、あの花を取って来てはくれませんか?」
「わかりました! お任せください」
 やはり相当にベロニカの負担が大きかったようだ。魔道士の少年がふたつ返事をして、幼なじみも朱い花へと近づく。貴重な花だと思っていたのでこれほど群生しているとは思わなかった。これならひとつやふたつ持ち帰っても許されるだろう。ただし、野生の飛竜に見つからなければの話だ。
 まず花の周りを掘ることからはじめる。袖を捲りあげたアステアは気合い十分といったところ、それでも普段から手先の器用な魔道士の少年は花を傷つけないように慎重に作業を進める。幼なじみはうしろでちょっと大人しくしている。しばらくして根の部分が見えてきた。ここでやっと幼なじみの出番だ。
 レオナがゆっくりと花を引き抜いて、アステアは根っこを土を落としてから皮袋へ入れる。あらゆる病に利くという伝承はどこまでが真実か。ともあれこの根の部分が薬となるのだ。
 すこし遠くにいるブレイヴたちにも朱い花の香りが届いていた。見た目は百合の花に似ているが、しかし香りはそこまできつくもなく、どちらかというと香草などのにおいに近い。案外、竜たちには薬よりも花の香りの方が効果がありそうだと、ブレイヴはそう思った。
「無事に手に入れられてよかった」
「ええ……。そう、ですね」
 疲れているのだろうか。セシリアの声にも覇気がない。大役を果たしたアステアとレオナは次の作業に取り掛かっている。
「でも、きみは心ここにあらずってかんじだ。なにか不安でも?」
 ちらと、セシリアの横顔を伺ったものの、視線は合わせてくれなかった。まあ、無理もない。ここはエルグランの領域であるし、帰りもまたベロニカには無理をさせてしまう。
「きみは、あの花の存在を知っていた。でも、それを言わなかった」
 ひとつ、鎌を掛けてみた。セシリアの顔が強張った。
「疑いたくないからはっきり言う。もし、偽りだったとしたら……、ここまで来た意味が」
「いいえ」
 否定は拒絶とおなじだ。心のなかをのぞかれたくないと、そんな目をしている。
「あの花の伝承は本当です。過去に疫病が蔓延したときに役立ったと、グランルーザに伝えられています」
「では、なぜ?」
 相手は人間ではなく竜。それでもセシリアたち竜騎士にとって、竜はずっとともに育ってきた兄弟のような存在だ。
「母を、救えなかったからです」
 セシリアはブレイヴの目を見ずに、アステアとレオナを見つめている。
「母は私たち兄妹が幼い頃に亡くなりました。宿痾にずっと苦しんでいた母を救おうと、私もレオン兄様も必死でした。あの花を知ったのはそのときです」
「でも、あの朱い花はエルグランに」
「あのときは、まだいまほど両国のあいだが緊張していませんでしたので……。私たちは、彼に頼もうとしていました」
「彼?」
「エルグランの公子、ジェラール」
 レオンハルトとセシリアの兄妹は、かの人物と幼少からの知り合いだという。そう、ブレイヴとレオナ、それにディアスみたいに幼なじみの関係なのだろう。彼を他人みたいな物言いをするのは、彼のもとに兄が囚われているせいだ。
「ジェラールは私たちを助けてくれていたと、そう思います。ですが、母はそれを望みませんでした。母は、ヴァルハルワ教徒でしたから」
 敬虔な教徒は自然な死を望む。宿痾に冒されていても、それが自分の運命だと受け入れる。
「すまない。試したわけではなかったんだ。ただ、」
「いいえ、当然だと思います。そもそもこれは、私たちの問題でしたから」
 無理に笑顔を作るセシリアを見て、悪いことをしてしまったと、そう思った。同時にブレイヴは理解する。口では他人のように称しても、セシリアはジェラールを敵などと認めてはいないのだ。
「あのう、どのくらい持ち帰ればいいですか?」
 アステアに呼ばれて二人とも顔をあげる。もっともな質問だ。少量で事足りるなら三つあれば十分だろう。ただし、相手は人間ではなく竜である。飛竜の巨?に見合った数が必要なのかどうか、先蹤がないため、正しい答えを導き出すのはなかなかむずかしい。
 ブレイヴとセシリアは顔を見合わせる。ただでさえ竜の縄張りを踏み荒らしているところだ。これ以上、竜の怒りを買うのは避けたいし、過剰に持ち帰るのは欲深き人間のやる行為だ。
「そう、ですね……。では、あともうすこしだけ」
 言葉は途中で切れてしまった。セシリアは西の方角を見た。黎明の空の藍色と橙色の光が混じるそこには、雲はなかったはずだ。影が見える。曖昧だった輪郭が次第にはっきりしたそのとき、ブレイヴの目はあれを飛竜だと認めた。
「アステア、レオナ! 早く、こちらへ……!」
 もう目を凝らさずとも見える。数は三、野生の飛竜は集団行動をしない生きもので、だからあれは竜騎士が操っている竜だ。
「逃げ込める場所はないのか?」
「下には洞窟が……、ですがそちらの方が危険です」
 皆まで言わずとも意図が読めた。野生の飛竜は夜行性だ。眠りを妨げたとなればその怒りは凄まじいだろう。
「では、どうする? ……戦うのか?」
 一対三では分が悪すぎる。ブレイヴとセシリアで、幼なじみと魔道士の少年を守り切れるかどうか。
「いいえ、逃げます」
 セシリアの判断は速かった。レオナとアステアが戻ってきた。二人をベロニカの背に乗せているうちに、飛竜の一匹が間近に迫っていた。
 間に合わない。ブレイヴは剣を抜いて応戦しようとする。ベロニカの咆哮がきこえる。威嚇に動じるような相手ならば、こんなところで戦闘など考えない。
「ブレイヴ!」
 幼なじみが呼んでいる。竜騎士が繰り出す槍の攻撃を防いだところだった。早くブレイヴ自身もベロニカの背に乗らなければならない。しかし、このまま飛び立てるだろうか。残りの二匹も迫っている。ブレイヴがしんがりを努めて幼なじみたちを逃がす。そうすれば確実に自分は死ぬだろう。冥界にたどり着いたとき、アルウェンは苦笑するし、ジークはきっと怒る。それを選んだところで皆が逃げられる保証はない。
 アステアもセシリアも呼んでいる。迷っているような時間が残されているだろうか。ブレイヴは覚悟を決める。その刹那だった。
「……風?」
 飛竜が起こした風だと、そう思った。けれども、そうじゃない。悪意と殺意がはっきりと感じられた《《その力》》には覚えがあった。黒い竜巻が見える。まず空で待機していた二匹の竜が呑み込まれた。
「ブレイヴ! 早く……!」
 セシリアの叫びでブレイヴは我に返った。なんておそろしい力だろう。アステアが色を失っている。風を扱う魔道士の少年でもこんなに大きな魔力は操れない。凶悪な風の力は上空の竜騎士たちをばらばらに刻み、もはや竜とも人間ともつかぬ肉の塊へと変えただけに飽き足らず、その力は弱まるどころか今度はこちらへと向かってくる。あれほど澄んだ空の色が灰色に濁っていた。
 最初に襲ってきた飛竜も竜騎士ごと吹き飛ばされた。風が、近づいてくる。セシリアがおりるように叫ぶ。ベロニカの懐に飛び込むと、竜は翼を閉じて全員を躯で守ってくれた。たしかに竜は魔法にも強い。鉄や鋼を通さない鱗は風にも耐えられるだろう。悪意と殺意を孕んだ黒い竜巻が逃してくれたならば――。
「だめよっ! このままじゃ、ベロニカが……!」
 幼なじみの腕を掴もうとして一歩遅かった。ブレイヴの手は空を掴み、そしてレオナは外へと飛び出していた。ベロニカの前でレオナは跪き、祈りの格好をする。白き光がベロニカごと包んで、ブレイヴたちをやさしく守る。円弧状に広がった魔法壁、《《おなじ力》》ならば彼女が勝つ。
 ブレイヴの声は風に邪魔されて幼なじみには届かなかった。身体がいうことを利かなくなっているのは、相対する魔力のせいだ。
 ブレイヴは、ただひたすらに彼女の名を呼びつづけた。なぜ、守るべき人の姿はこの腕のなかにいないのか。己の無力さを嘆くのはもうたくさんだ。やがてふたつの魔力がぶつかった。どちらの力が勝っていたのか。その答えは、ブレイヴ自身の目で見るしかなかった。
「レオ……、ナ? レオナ!」
 吹き飛ばされた幼なじみの身体が断崖の下へと落ちていく。手を伸ばしたところで届かない。走ったところで間に合わない。
「いけませんっ!」
 セシリアとアステアの両方だった。飛び込もうとしたブレイヴは二人掛かりで止められる。そうして、ブレイヴは見た。幼なじみがおちていく、そのさまを――。
 


 






 おちる。落ちる。墜ちる。堕ちる。
 地へ。底へ。深くて遠い闇のそこへ。
 重力には逆らえず、また逆らったところで人間は翼を持たない生きものだ。意識は途中で手離してしまった。だとしたら、待つのは死のみだろう。それなのにふしぎと怖れはなかった。これが最期ではないことを、レオナは知っていたからだ。
 まだ、死ねない。死ぬことは、赦されない。ちがう。わたしに死は訪れない。そういう役目にあるのだから。
 誰かに呼ばれているような気がした。なつかしい母の声でもなければ、幼なじみの声でもなかった。もっと、レオナの近くにある存在のように思えても、それが何であるのかがわからずに、レオナは瞬きを繰り返した。
「洞窟……?」
 光が届かない場所なのに、暗闇に閉ざされていないのはどうしてだろう。
 まず、身体を起こしてみる。思った以上に自由に動けることにほっとした。たしかに落ちたはずだ。人間の身体などばらばらに壊れてしまってもおかしくないのに、レオナは傷みも苦しみも感じてはいなかった。
 レオナは思わず自身を抱きしめた。寒さとおそろしさと、両方がいっぺんにやってきた。死ななかったことがおそろしかったのか、それともこんな地の底に一人きりだったからか。答えを口にするより早く、レオナは足を前へと動かしてみた。
 だいじょうぶ、歩ける。口のなかで繰り返してレオナは自身を励ました。きっと、ここは地底の洞窟なのだろう。どうしてそこに倒れていたのか、あれこれと考えるよりも、前に進まなくてはならない。
 レオナは左手を添わせてゆく。冷たく無機質な石の壁、いったいどこまでつづいて行くのだろう。それに、他の生きものを感じないのも不自然だ。
「だいじょうぶ。わたし、そこに行かなくてはいけないの」
 今度は声に出した。そう、先ほどからずっと誰かがレオナを呼んでいる。導いてくれているのがわかる。その存在が何であるのかを、レオナは無意識に感じ取っていたのかもしれない。だから、もう、おそれることなんてないのだ。
 やがて、レオナはそこへとたどり着いた。
 導きのひかりが徐々に広がったと思えば、あまりの目映さに目が眩んだ。レオナはおそるおそる瞼を開ける。狭くて暗い洞窟をひたすらに進んでいたはずなのに、そこには緑があり、水があり、そして陽光が届いていた。
「きれい……」
 うつくしいものならば、これまでだって何度も目にしたことはある。
 たとえば祖国イレスダート。森と湖に守られた幼なじみの故郷アストレア、最南のオリシス。西のラ・ガーディア。ウルーグの草原を馬で駆けたときには、人々がこの国を愛する理由がわかったような気がした。それにグランの空。どこまでも広がる蒼を飛竜たちの背に乗って翔ける。そこにある色、風、におい。どれもが素晴らしかった。
《やっと来たね、レオナ》
 どうしてすぐに気づかなかったのだろう。しばらく呼吸を忘れて魅入っていたレオナは、声の主を探すと同時に驚いた。
 かろうじて悲鳴はこらえた。腰が砕けて座り込みそうになったのもどうにか耐えた。そうか。ここは、神が《《彼ら》》に与えた場所だったのだ。
 レオナの目が映しているのは一匹の竜だった。グラン王国でこれまで見たどの竜よりも大きい。鈍色に包まれた飛竜などとは比較にならない体?、レオナの目線よりもずっと上にある眸は子を見つめる母さながらにやさしく、慈愛に満ちていた。
 最初の涙が一粒落ちた。
 待っていたのだと、言う。そのただ一言が、孤独と不安に戦っていたレオナの心にじんと染み渡った。心臓の音が耳の奥できこえる。乾いた唇から声が上手くでてこない。この形容のできない感情を持て余すかのように、レオナは涙を零しつづけた。


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