五章 蒼空を翔ける

変調

「私は医者ではないのですが」
 低血圧のせいか朝は大体機嫌が悪い軍師である。顔を洗って食事を取ってようやく目が覚めてきた頃に大勢で押しかけられた。となればセルジュの不機嫌は極まりなく、一国の王女が相手でもまるで容赦のない一声だった。
「それも人ならばまだしも、《《これ》》ですか?」
 そして、矛先はブレイヴへと向く。軍師を起こしに行ったのは魔道士の少年で、大騒ぎしたのもアステアだ。兄とちがって弟は朝からたいへん元気がよろしく、セルジュの目覚めは最悪だったのだろう。そんな恨みがましい目で見られても。ブレイヴは口のなかで言う。ブレイヴも仔細を知ったのは今朝の話だ。
 飛竜たちの様子がおかしい。
 竜舎は東西南北にそれぞれ置かれて、そこにはおよそ百匹の竜がいる。これは卵から孵ったばかりの幼竜を合わせた数だ。ともあれこれだけの竜が棲んでいるとなれば圧巻そのもの、魔道士の少年はレオナと一緒によく竜舎を訪れているらしい。そこで会ったのがグランルーザの王女セシリアだ。朝と晩の二回竜舎を見回るのがセシリアの日課のようで、しかしここしばらくは竜騎士団の仕事に追われて来られなかった。セシリアの兄レオンハルトが不在のために、セシリアは兄の代役を務めたりと忙しくしている。
 そこへイレスダート人の客人と相まっては疲労も重なる一方で、沈んだ顔を見せたセシリアを呼び止めたというところだろうか。アステアがセルジュを起こしに行って、ブレイヴのもとにはレオナが来た。彼女たちに連れられて竜舎に来てみればセシリアが申し訳なさそうに頭をさげた。その横にはもう一人がいる。クライドだ。おそらく、朝の散歩にでも出掛けて巻き込まれたのだろう。
 ブレイヴの前に銀朱色の竜がいる。セシリアの愛竜で名はベロニカだ。野生の飛竜は夜行性だというが、人間によって育てられた飛竜たちは人間とおなじ生活習慣を持つ。とっくに活動開始の時間にもかかわらずベロニカは眸を閉じているし、他の飛竜たちもそうだ。
 ブレイヴは順番に視線を上にあげていく。
 その鋭い爪が迫ったきた瞬間を思い出して、背中がぞくりとした。人間など一呑みするくらいに大きな口のなかには牙が収まっている。躯を覆う鱗にしても、鞭のようにしなる尾にしても、鉄や鋼で作った武器よりも強靱でまともに相手をすればこっちの剣が先に駄目になってしまう。いまは閉じてある翼は風を巻き起こして対峙した者の動きを止める。これも竜にとっては強力な武器のひとつだ。
 そして、ブレイヴは最後に眸を見た。
 あまりに騒ぎすぎたのかベロニカは気怠そうに瞼を開けた。琥珀色の眸は宝玉のように美しく、しかしまたすぐに閉じてしまった。
「そもそも竜医はいないのですか?」
「竜は長寿の生きものです。私たち人間のように弱い身体をしていません。怪我などすぐに治ってしまいますし、不治の病に罹ることもない。ですから……」
 竜を世話する者はいても医者のような存在はいないというわけだ。セシリアには山越えでの借りがあるし、やはり気落ちしているように見えて気の毒だった。ブレイヴはセルジュとクライドを促す。男三人掛かりでやっと口を押し開けた。人間ならば不調は舌に現れるが果たして竜はどうか。
「お手上げですね、これは」
 ふたたび悪態を吐く軍師をブレイヴは肘で小突く。舌の色は変わっていない。眸も濁っていない。血液を採取しようと試みたらさすがに不快だったようで、ベロニカが吼えた。もう十分です。セシリアがそう言ってくれなかったら三人とも飛竜に喰われていたかもしれない。
「いつから、こうなってしまったの?」
 男たちの奮闘をちょっと離れて見ていた幼なじみが言った。不調といっても色々ある。戦闘訓練後もなかなか落ち着かずに興奮したままだったり、鶏や豚の肉を木桶に五杯は食べていたのが急に食べなくなったり、あるいはベロニカのように日中も眠ってばかりの竜もいる。そう、セシリアは他の竜舎からも報告を受けたそうだ。
「ふた月、いえ……もうすこし前でしょうか。ベロニカは普段からよく眠る子だったのですが、ここ数日はこのように眠ってばかりなのです」
「それでも、わたしたちをここまで連れてきてくれたのね」
 ありがとう、と。言って幼なじみはベロニカを撫でる。そうだ。迎えに来てくれたのはセシリアだが、ブレイヴたちを背に乗せて運んでくれたのは飛竜たちだ。その時点で無理をさせてしまったなら申し訳なく思う。
 目が合ってセシリアがぎこちなく微笑んだ。気にするなと、そう言いたいらしい。
「毒か何かを仕込まれたんじゃないのか?」
 皆が一斉にクライドを見た。傍観を決め込むつもりが騒動に巻き込まれて迷惑していると、いかにもそんな表情だ。
「毒、だなんて。そんな……」
「可能性のひとつとして拾っておきなさいと、そういうことです」
 うつむくセシリアに追い打ちを掛けるようにセルジュが言う。竜舎に忍び込んで飛竜たちに毒を盛る。竜騎士や竜の世話役たちがたくさんいるなかで容易に可能だとは思えなくとも、いまグランルーザは揺れている時期だ。
「不可侵条約はすでに反故にされているのです。敵が入っていてもおかしくないのでは?」
「セルジュ」
 そこまでだ。さすがにブレイヴも止めに入る。クライドも同意見のようで、彼はむっつりと渋面を作っている。旧友に会いに行ったまま戻らない王子レオンハルト、それから飛竜たちの不調、無関係だと決めつけるのは早いとブレイヴも思う。飛竜たちは重要な戦力のひとつで、その飛竜たちが無力化したならば無駄に血を流さずとも勝敗は決する。
「ジェラールはそこまで……。いえ、なんでもありません」
 そこまで言って、ふたたびセシリアの唇が引き結ばれた。精悍な顔をした竜騎士たちは声を揃えて言う。旧友とはいえ相手はエルグランの公子だ。まあ、待て。昔話に花を咲かせることもあるだろう。王子はそういうお方だ。しかし長すぎる。騙し討ちにでもあったのではないか。まさか! レオンハルト様がそんなものに屈するはずがないだろう。血気に逸る竜騎士たちをセシリアはなだめる。
 グランルーザの妹姫はまだエルグランが明確な敵だと認めていないのだろう。ジェラールはセシリアの婚約者。それを教えてくれたのはセシリアの義理姉アイリオーネだ。
「竜にも効くような、なにか薬のようなものがあれば……」
 皆の視線が一斉にブレイヴに集まった。万病に効くような薬は存在しないが、竜が人間よりも強い生命力を持っているのはたしかだ。毒の可能性は捨てきれないし、解毒剤にあたる薬でもあればと、ブレイヴは思考をつづける。
「公子はそれを作れとおっしゃるので?」
「あ、いや……。そうではなくて」
 前置きしているとおり、セルジュの生家であるエーベル家は軍師の家系だ。医学をすこしかじっているのも知識を広げるためで、弟のアステアも薬草には明るい。ただし、相手が人間に限っての話だ。
「ブレイヴ? どうしたの?」
 幼なじみに顔をのぞき込まれて、ブレイヴは微笑む。レオナを見て思い出した。祖国アストレアに咲くリアの花。ブレイヴはエーベル兄弟を見て、その隣で怪訝そうな表情のクライドを見て、最後にセシリアを見た。
「グランには竜胆は咲かないのか? あの、青紫色の花は」
「リンドウ、ですか……?」
 突然過ぎたのか、セシリアの瞬きの回数が多くなった。皆がふしぎそうにブレイヴを見つめている。見当外れなことを言ったような気がしてきた。沈黙がちょっとこわい。
「いえ、すみません。グランではきかない花でしたので」
「そうなのか? いや、こちらこそ悪かった。ちいさい頃に熱を出したとき、母上が飲ませてくれたのが、その名前だったような気がして」
「それなら、僕も覚えがあります。寝込んでしまったとき、兄上に苦くて訳のわからないものを飲まされました!」 
 子どもの舌には苦くて不味い薬としか記憶されていなかったが、効用はたしかだった。昔の話を持ち出されたくないのか、セルジュは知らんぷりを決め込んでいる。
「でも、どうしてリンドウを?」
「竜の肝っていうくらいだから、竜にも効くかなって」
 幼なじみの問いにブレイヴは苦笑して返す。我ながら単純過ぎたらしい。それもグランに咲かない花ならば探しようもない。
「ひとつ、心当たりがあります」
 ところが、まったくの当て外れというわけではなかったらしい。セシリアはつづける。
「リンドウではありませんが、あらゆる病に効く花をきいたことがあります。竜にも、すこしだけでも効果があれば、良いのですが……」
「すごい! グランにはそんな花があるのですね! いったい、どちらに?」
「あ、それは……」
 身を乗り出す魔道士の少年にやや押されたのか、セシリアがまたうつむいた。しばらく待ってみても返事がきこえそうになかったので、ブレイヴは問う。
「なにか問題でも?」
「おそらく、入手自体は簡単です。他の野花とそう見分けがつかない花ですが、朝方に花開くと言われています。そのときを待てばいいだけ……、でも」
「グランルーザではなく、エルグランの領域に入ると?」
 セシリアがうなずく。
「はい。それにあそこは、竜の谷と呼ばれる野生の飛竜たちの棲息地です」
 竜の谷。ブレイヴもつぶやく。モンタネール山脈で襲ってきた飛竜は人間に慣らされた竜だった。それが野生となれば見境なく襲ってくるだろう。森に生息する獣だって縄張りを荒らされたら怒り狂う。
 さっきまであんなに元気だった魔道士の少年は静かになってしまったし、幼なじみは泣きそうな顔をしている。軍師は目顔でやめろと訴えてくる。クライドはほとんど我関せずといった表情だ。
「巡礼者を装ってエルグランに入る。そこから竜の谷には夜明けを待たずに出発しよう」
「公子!」
「でも、俺たちには翼がない。飛竜を借りることになるし、案内役も必要だ」
「それなら私が」
 セシリアならそう言ってくれると思った。レオンハルトは情に厚い男で妹のセシリアもよく似ている。決まりだ。ブレイヴは軍師が止めるのを無視してつづける。
「待って、わたしも。わたしも……、いっしょに行きたい」
「はい! 僕もです!」
 同時に名乗り出たレオナとアステアを見て、ブレイヴはにっこりする。軍師の舌打ち、これも無視だ。クライドと目が合ったものの、自分は行かないとすぐに視線を逸らされてしまった。それも正しいのかもしれない。向かう先は危険だらけだ。
「あの……、ありがとう。ブレイヴ」
 袖を掴みながら幼なじみが囁く。反対されるとでも思ったのだろう。連れて行くべきではない、本当はそう思う。それでも、レオナの目を見ていたら拒絶の言葉なんて吐けなかった。幼なじみは飛竜たちを自分の兄妹みたいに案じている。それこそ、竜たちと幼い時分からともにいたセシリアのように。
「ついでと言えば言葉は悪いが、エルグランも見てくる」
「……私は止めましたからね」
 軍師の機嫌は夜になっても一向に直らなかった。
 

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