五章 蒼空を翔ける

ほどけてゆくあいを

 次の日も、その次の日になってもブレイヴはセルジュと今後を話し合っていた。
 グランルーザからイレスダートへと向かうには、やはりあのモンタネール山脈をこえることとなり、あたたかい季節になったとはいえそれなりの苦労はつきものだ。覚悟の上であっても、それではとてもルダの危機には間に合わない。そこでレオンハルトは竜騎士を何人か同行させると申し出た。そもそも援助を求められているのはレオンハルトであり、どうにかして義理妹に応えたいところだったのだろう。竜を駆れば三日ほどでイレスダート北西のルダには着くはず、道中の心配は要らなくなっても、問題はここからだ。
 ブレイヴの胸中は落ち着かないままだ。
 祖国アストレアを、イレスダートを追われて西のラ・ガーディアに身を寄せ、そうしてこのグラン王国に来た。ブレイヴは西の王国を味方に付け、それはイレスダートへの帰還の大きな力となったはず、その悲願がようやく叶うというのに心は曇ったままなのは、ブレイヴがまだ葛藤を続けているからだ。
「私はまだ賛成したわけではありませんが、こうなった以上は致し方ありませんね」
 軍師の重い嘆息は何度目だろうか。もう数える気にもならない。
 ブレイヴは相槌を打ちつつも、そちらには目を向けずにひたすらに書面に目を走らせる。ここまでの道中を共にしてきた仲間は合わせても十人足らず、グランルーザの竜騎士を足しても二十に届かぬ数で駆けつけたところで多勢に無勢であることなど言うまでもない。だが、これはブレイヴがイレスダートに戻るための好機となる。セルジュは時期早々だと訴えるが、逼迫した状況がそれを許しはしなかった。
 向かいの軍師は、先ほどからよく聞き取れないほどのちいさな声で、つぶやきを漏らしている。悪い癖の一つが出てきたようだ。ブレイヴは眉間を揉みほぐす。セルジュの心労も愚痴も、気持ちは分からなくはなかった。
 軍師の仕事はあくまで皆を死なせないようにすること、戦うからには必ず勝たなくてはならない。他国へと助力してきたこれまでとはわけが違う。逆にいえば、彼らの力をあてにすることとなり、されどそれにはどうやっても時間が足りないのだ。
 ブレイヴはセルジュをこれ以上刺激しないようにと、心中だけで息を吐く。何も危惧しているのはルダばかりではなかった。
 王都マイアのアナクレオン陛下、ならびにその周囲の情報にしてみても、どこまでが真実であるのか。反逆の罪に問われたムスタールの公爵ヘルムートはその後、赦免されたというが、あの義に熱い騎士が王家に刃を向けたなどブレイヴはまだ信じられずにいた。国王陛下は重傷を負ったものの、その後は公務に勤しんでいるのも何か違和が残る。
 一体、イレスダートで何が起きているのか。明確な仔細を知りえないブレイヴは、ただただもどかしさが募るばかりだ。その焦りを軍師は見逃さない。だからこそ、早過ぎるのだと、忠告しているのだろう。
 以前、レオンハルトにも同じことを言われた。どれだけ焦慮したところで、マイアに賊人とみなされているブレイヴには王都に戻る手立てがない。これからやろうとしていることこそ、逆心である。それは正義とはほど遠い行為、では正しさとは誰が決めるのか。
 王であると、ブレイヴは疑わない。
 さすれば、次にはオリシスのアルウェンの声が蘇る。王とてただの人間である。過ちを犯した時に正すとすれば、それが臣下の役目ではないのか、と。
 ブレイヴは顔を上げる。目が合った。軍師は物言いたげな視線をするものの、この時ばかりは声を落とさなかった。およそ、ブレイヴの心中などお見通しなのだ。つまりそれだけ思考に掛ける時間が長過ぎたようだ。
 ブレイヴは再び書面に集中する。レオンハルトはブレイヴに物資の支援をしてくれるがそれも最低限であり、かといって友を恨む気にはなれなかった。そう、まずはもっと先の明日よりも、目先のことだけを考えるべきだ。
 そうするうちに蝋燭も三本目を替える。これをまた明日も続けるのかと思えば疲労は増すばかりだが、持ち越さぬためにももう少しだけ進めておくべきか。ところが、セルジュは席を立った。
「私は先に休ませて頂きます」
 めずらしいこともあると、ブレイヴは面に驚きを描いてしまった。軍師の性格ならば日付を跨いでも続けるところ、実際に二人とも前日はほとんど睡眠を取っていなかった。休めと言っているのかもしれない。ブレイヴは微笑する。
「わかった。私も、これを終えたらここまでにする」
 セルジュは主に向けて一揖する。ブレイヴはその背をしばらく見送って、しかし次には目を瞬いた。なるほど。そういうことか、と。ブレイヴはやっと気がついた。セルジュとは入れ違いに幼なじみが部屋に入ってきたのだ。
「ごめんなさい。こんな遅い時間に……」
「いいよ。でも、どうしたの?」
 ブレイヴはレオナを迎え入れる。もう少し笑みをやわらげたのは、幼なじみがあまりにも不安そうな目をしていたからだ。
「グランをたつ前に、どうしてもはなしておきたいことが、あって……」
 最後に幼なじみとふたりだけで会話をしたのはいつだっただろう。たしか、ブレイヴがエルグランへと進撃する前だ。こうして無事に戻って来たとはいっても、ふたりだけの時間を取れるはずもなく、ブレイヴもその時がほしかった。彼女の姿を見たとしても、心から安堵できなかったのは、ほんとうの声を聞いていなかったからだ。
「わたし、あの人と……ユノ・ジュールと、たたかったの」
「……うん」
 幼なじみがカミロ王とアイリオーネを命がけで守ったことは聞いている。そうするために己の魔力を限界まで使ったことも。
「あのひと、以前の時のように子どもの姿ではなかった。もっと、大人の成長した姿で……」
 それもブレイヴの耳には入っていた。エルグランに遣わされたヴァルハルワ教の司祭の息子は白の御子と崇められ、ユノ・ジュールと名乗っていた。見目麗しい白皙の青年であったのだと、エルグランの者は口々に言う。そして、その素性を密かに調べていたジェラールはある事実を突き止めていた。だが、今は幼なじみの声を聞いてからだ。ブレイヴは彼女の言葉を待つ。
「ごめんなさい。わたし、あなたとのやくそく、守れないところだった」
 声音が弱く、震えているのは、涙を落とさないためだろう。
「きみが、無事で、本当によかった」
 ブレイヴはレオナの肩を抱く。ほんとうは、戦ってほしくなどなかった。けれど、あの竜の青年はレオナの前に姿を現す。少年が急速に成長したところで驚くことはない。ドラグナーという存在はそういった特異な力を持つのだ。
「わたしは、だいじょうぶよ。でも……」
 ぎこちなく笑んだ唇の形も、彼女のほんとうの笑みとはほど遠い。
「あれは、姉さまだった」
 つたなく、もろく。それでも、幼なじみが姉と呼ぶ人は一人しかいない。ブレイヴは動揺してしまわないように気をつける。幼なじみの姉ソニアはもうずっと前から行方が分からない人だ。それも、消息を絶ったのはイレスダートと敵対関係にある北のルドラスにて。
「きいて、ブレイヴ。あれはたしかに、ソニア姉さまだったの。ねぇ、ブレイヴ。わたしは、どうしたらいい? だって、ねえさまは、あの人といっしょに」
「レオナ」
「わたしではなく、ユノ・ジュールを庇った。どうして? ねえさまは、どうしてあの人のことを、」
「レオナ、落ち着いて」
 幼なじみの頬を、涙が伝う。唇は笑みの形をしているのに泣き笑いに近いのは、彼女がそれを信じていないからだ。
「わたし、見たのよ。ねえさまの姿はまるで魔女のようだった。あれは、サラザールで王の傍にいた王妃、なのでしょう? どうして、そんな。ねえさまは、そんな人なんかじゃない」
 悲痛な叫びにブレイヴは息を呑む。理解が追いつかないのは、ブレイヴがその人のことをよく知っていたために。幼なじみの姉は、ソニアはやさしく、強く、聡明であり、たしかに絶世の美女と謳われるほどうつくしい人だった。だとしても、それは魔性のものとはとても異なる。
「何かの間違いなのよ。だって、ソニア姉さまは。わたしのねえさまは、いつだって、」
「レオナ。だいじょうぶだから」
 嗚咽交じりに言うレオナを、ブレイヴは抱きしめることしかできずにいる。あぁ、まただ。いつだって自分はこんな風に、気休めにもならない声しか彼女に伝えられない。それでも、幼なじみはブレイヴの胸の中で泣いた。
 レオナがここまで混乱するのも当然だ。生きているはずだと、信じて疑っていなかったとはいえ、しかしまさか西やこのグランにて姿を現すなどと誰が思うだろうか。それも、かの白の少年と、ユノ・ジュールという危険な存在と行動を共にしているなど、幼なじみには到底認められるはずのない事実だ。
「もしも、本当に、その人がソニアであったとしても」
 言い聞かせるように、ブレイヴはひとつひとつを紡ぐ。彼女の涙を拭って、それから頬へと手を添える。
「生きているのだから。きっと、また会える」
 これを、希望というのならば。なんて残酷なひかりなのだろう。けれど、幼なじみはブレイヴを見上げて、濡れた瞳のままにうなずいた。レオナに希望と勇気を与えることが正しいのかどうか。ブレイヴは分からない。その場限りの慰めをしても、次に待つ現実はもっと辛いものとなるというのに、幼なじみは無理に笑みを作ろうとする。
「しんじることって、ほんとうにむずかしいね。でも、イレスダートに帰れば、きっと……」
 レオナを不安にさせているのは何もそれだけではない。
 幼なじみが王都を離れたのはもう一年以上も前、だから兄妹も同じだけの時間を離れたままでいる。その間にイレスダートの情勢は様変わりし、だがマイアの混乱はどこまでが真実であるか、ブレイヴもレオナもたしかめられないままだ。
「きっと、だいじょうぶ。兄上も……」
 祈りのように声を落として、レオナはブレイヴの手を包み込むようにする。
「そう、ね。こんな弱気だと、兄上に叱られてしまうわ。わたしは、もっとつよくありたい」
「強くなんて、」
 ブレイヴはもう一度幼なじみを抱きしめる。今度は、もっと強く、感情のままに。
「……ブレイヴ?」
 力任せに幼なじみを閉じ込めているから、苦しいのかもしれない。それでも、この腕を解きたくはなかった。
「かなしいの……?」
 彼女の背へと回していたブレイヴの手が反応する。伝わるのは熱だけではなかった。いつから、ふたりはおなじところにいるのだろう。
「かなしいよ」
 つぶやきは、長い吐息のように。
 ブレイヴの腕の中でレオナはじっと声を待っている。きっと、もうずっと前から、この声も、心も、届いていたのかもしれない。
「悲しいよ。でも、かなしいよりも今は、いとおしいかな。心の中にある言葉」
 ふたりの鼓動が重なっている。こえも、ぬくもりも、あいも。手離したくはないと、ほとんど衝動的に抱いた彼女の身体をほんの少しだけ解放する。目と目が合って、それからブレイヴは彼女の耳元で愛を囁いた。幼なじみは瞬きを繰り返し、けれどそのうちにやさしい笑みへと変わる。ブレイヴの一番すきな顔で、彼女は言った。
「もう一度、言って……?」
 ブレイヴは彼女の涙を拭ってから、ゆっくりと唇を重ねる。はじめは触れるだけ、そうして角度を変えて、たしかめ合う。息をする間が惜しい。何度も、何度も口付けて、そのやわらかな感触だけでは足りなくなる。
「レオナを、あいしている」
 返事を待たなかったのは、これ以上の言葉は要らないと思ったからだ。
 細く、たおやかな彼女の身体を持ち上げて、寝台へと押し倒す。かろうじて残っていた理性もいつの間にか消えてしまったようで、ブレイヴは幼なじみの衣服を順番に脱がしていく。恥じらう声も、あまく落ちる声も、自分を呼ぶ声も、どれもが新鮮で、どうしようもなくいとおしかった。
 唇の次は首筋に、鎖骨へと。順番に口付けを落としていくのはまるで誓いのように。熱に浮かされた声でレオナはたどたどしくも、けれども何度もブレイヴを呼び、そのたびにブレイヴは口付けで返してゆく。舌が絡まり、指が絡まり、そうするうちに未熟なふたりでもその先に何があるのか分かっていた。そこにほんの少しの不安と緊張が混ざって、あとで思い返せば笑ってしまうほどにぎこちなく未熟なふたりにも、やがてやさしい時間が訪れた。
 ブレイヴが目蓋を開けた時にまだ空は重たい色をしていた。どうやらいつの間にか微睡んでいたようだ。隣には静かに眠るいとしいひとの姿があり、起こさないようにそっと彼女の髪に触れる。その一房を取って唇へと運びながら、ブレイヴは幼なじみが目覚めた時の言葉の二番目を考えた。イレスダートはもう、遠くはない。
 

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