五章 蒼空を翔ける

蒼空を翔ける

 セシリアはもうずっと長いこと、その前で佇んでいた。
 彼がよく好んでいた青の花を供えて、長いながい祈りを終えても瞠目したまま、そうしてやっと目蓋を開けて、それが現実であると己の瞳に認めさせても、まだどこかで嘘事のように思えた。
 季節はもうすっかり春だというのに、頬に当たる風は冷たい。セシリアはグランの風が好きだったが、この風が彼の命を奪ったのだと思うと、心は苦しくなるばかりだった。
 いや、ちがう。ジェラールを屠ったのは人為的な力によるもの、悪意のある魔の力だ。
 セシリアは両の拳を作る。遺体の損傷は激しく、どうにかかき集めたものの、彼の侍従たちは変わり果てた主の姿に慟哭した。喪が明けてもそのかなしみが癒えることはなかったという。
 招かれざる客であると、分かっていながらもセシリアはジェラールの宅邸を訪れる。非難の声も、責める目もなかったものの、陰鬱な空気が漂い続けるその場所に、セシリアの胸は痛んだ。
 ジェラールの母親はエルグラン王の妹、しかし身分が低い家に生まれたがために王家に関わりを持ったところで城など与えられず、このエルグランの片田舎で生涯を終えた。幼年の頃のジェラールはここで育ち、その才覚を認められるまで外のせかいを知らずに、王位継承者として選ばれた後も、ジェラールはこの場所を好んでいた。母親との思い出を手離したくなかったのかもしれない。それに、ここはセシリアやレオンハルトにとっても、ゆかりのある場所だ。
 よく、この庭で剣や槍の稽古をしたものだと、セシリアは懐かしさに目を細める。ジェラールの守り役の老騎士は、普段は好々爺こうこうやのくせに稽古となれば人が変わるほどに厳しかった。三人そろって泥まみれになったこと、木のぼりをして競い合ったこと、ジェラールはセシリアのために花を植えて、それをレオンハルトはちょっとからかうように笑ったこと、どれも昨日のことのように思い出す。
 古い宅邸であるから、いつもどこかしら修理をする者がいて、つちを打ち付ける音が絶えず聞こえていたのが、今日もまた同じ音が聞こえる。お腹を空かせた子どもたちが盗み食いをしないようにと目を光らせていた侍女頭、こっそり焼き菓子を二つ持たせてくれた調理長、どちらもセシリアを見るなりさびしい笑みをするだけだった。
 セシリアは書庫へとたどり着く。セシリアとレオンハルトがここに遊びに来た時には、いつもジェラールは書庫に籠っていた。本が好きな少年を、レオンハルトは半ば無理やりに明るい外へと引っ張り出す。それが、三人の最初だった。
 ひかりの入らない湿っぽくて埃っぽい場所。ここに来ればもしかしたらまた会えるのではないかと、お気に入りの椅子に腰掛けて微笑みかけるジェラールがそこにいるのではないかと、そのねがいは決して叶わなかった。侍従たちは言う。もう二度と、ここには来てはならないと。恨まれてもいいはずなのにその声はやさしかった。ここは戒めになると、そういう意味で忠告したのだろう。
 そうして、セシリアは彼の眠る場所へと向かった。
 グランルーザとエルグランと。ふたつの国の争いが終わったこと。エルグランの王は自決を選んでしまったこと。グランルーザはエルグランへの支援を惜しまず、エルグラン内に猖獗しょうけつしている病に対しても最善を尽くすと約束をしたこと、すべてを彼の前で報告する。王と、その跡継ぎを失ったエルグランは混乱するかと思われたが、王の歳の離れた異母弟が後を継ぐと申し出たことで事なきを得た。だから安心してほしいのだと、セシリアは言う。言葉だけでは足りないのならば、ぎこちなさを含めた笑みを乗せて。
 きっと、ジェラールならばあらゆる綻びも見逃さず、注視するだろう。セシリアはそう思う。けれど、それは何もジェラール一人が背負うことはなかったのだ。
 主君を失ったエルグランの民は必死だ。そこに甘言する者が現れないとも限らない。エルグランはヴァルハルワ教徒の多い国、ここぞとばかりに教会側が手を差し伸べることも大いに考えられる。その申し出はありがたく受けても心までは動かさないようにと、注意深く見ておかなければならない。若き新王はそれができる人物であると、レオンハルトは称する。あの兄がそこまでいうのだから信頼のおける人だろう。それに、魔の存在はグランから消えてしまった。
 あまりに長々と話し続けたせいか、セシリアは喉の疲れを感じた。もとより、お喋りなたちではない。きっと今頃、ジェラールは苦笑いし、らしくはないと零しているに違いない。たしかにそうだ。でも、これからだと、セシリアは思う。
 愛竜ベロニカの背に跨り、蒼空を翔ける。
 セシリアはグランの空をよく知っていた。風、におい、色。一番好きなのは夜が明ける時の空だ。闇の色が次第に群青へと、それから朱と橙と、せかいがもっともうつくしく輝く、その瞬間が好きだった。
 いつかふたりで同じ空を翔けたことがあった。セシリアの頬を一筋の滴が伝う。これは、忘れるためではなく、前へと踏み出すための勇気であると思えばいい。
 後悔していたことを、セシリアは認める。もしもあの時にジェラールのところへと留まり、それから彼の妻になることを選んだのならば。根気強く訴え続け、その声がジェラールならびに王へと届いていたのならば、未来は変わっていたのかもしれないと、悔恨ばかりがセシリアの心を支配していた。けれど、そうではなかった。セシリアがグランルーザからの物資を届けた時に、痩せた子どもが言ったのだ。「ありがとう」、と。
 グランルーザとエルグランの関係がすぐに修復するとは思えなくとも、傷ついた人たちにとっては救い手となる人間に境はない。それこそ、ジェラールが本当に目指していたものだったのだろう。
「わすれません。私は、あなたを」
 セシリアの唇はいとしい人の名を紡ぐ。グランの空に向けて。今度は、自然に笑えた気がした。










 ブレイヴがレオンハルトに呼び出されたのは、夜の遅い時間だった。
 にもかかわらず、要人たちはすでにそろい、ブレイヴが最後の到着となる。硬い表情で腕組みをしていたレオンハルトが、視線だけをこちらに寄越した。
「ルダからの要請がきた」
 声音も同じように固い。レオンハルトに促されて、ブレイヴは机上へと目を移す。何枚にも重ねられた書状の筆跡は女性のものであり、ブレイヴが差出人を推測する前に答えが聞こえてくる。
「アイリスだ。内面はほとんど脅迫のようなものだがな」
 レオンハルトは苦笑する。その横のアイリオーネはどうにか溜息を抑えているようだった。その他の各々おのおのの表情にも陰りがある。事態が深刻なのは言うまでもなく、だがどちらにも縁がない者にとってはこれを把握できていないのだろう。クライドは渋面を浮かべている。
「ルダには義理姉上あねうえが、それに……」
「ああ。王子は生まれて半年というところか。それを引き渡せとは、どういう了見であるか理解がし難いな」
 レオナが零し、レオンハルトがその後をつぐ。ブレイヴは以前レオナが言っていたことを思い出す。その当時のマリアベル王妃殿下は身重の身であった。しかし、どういうわけか辺境の地であるルダへと送られた。それは他ならぬ国王陛下の意思であったというのに、なぜそのルダがマイアから圧力を掛けられているのか。
 つまり、ルダはブレイヴの祖国アストレアと同じように猜疑を掛けられているのだ。だが、問題はそこだけではなかった。
「中を読んでみろ」
 言われてブレイヴは目を走らせる。ルダの公女アイリスのことはよく知っていた。アイリオーネの妹であるがその性格は対照的で、物言いにしてもきつい印象が残っている。文面にも見事にそれが現れていた。レオンハルトが脅しと称しただけはある。されど、ブレイヴは目を瞬く。それが真実であるとは思えなかったからだ。
「アナクレオン陛下が下した勅命であるというのか……?」
 マイア王家を影から操ろうとする元老院の策略であるならば、これはいわれなき疑惑であると主張できる。だが、そうではない。
「兄上がそんなことをなさるはずがありません」
「まあ、落ち着け。ここで論議していたところで真偽は問えない。だが、ルダが危機的状態にあることだけは事実だ」
 気色ばんだレオナを落ち着かせる声でレオンハルトは言う。それは同時にブレイヴにも言い聞かせているかのようだった。ルダはすでにマイアからの攻撃を受けている。イレスダートの公国の一つとして、それなりの軍事力は持っているとはいえ、大軍で攻められれば抗う術はないだろう。ルダには生まれつき強い魔力を持つ者が多く、魔道士の国とも呼ばれているものの、人口は王都マイアの三分の一ほどしかない国だ。
 アイリスはレオンハルトに援軍を詰め寄っている。公女アイリオーネがグランへと嫁いだことから、グランルーザとルダとの繋がりは深く、断る道理はなかった。
「賛成しかねますね。イレスダートの、特に王都の情勢が明らかでない以上、迂闊な動きは避けるべきです」
 極めて冷静な言い方だった。全員の視線が一斉に向かったところで、セルジュは相好を崩さない。
「そこの軍師の言うことは一理あるな」
 レオンハルトは笑う。アイリオーネとセシリアの、両側からきつい眼差しを向けられてもお構いなしだ。ブレイヴはレオンハルトの心中を察する。ルダに援軍を送りたくともできないのだ。ただでさえ、グランルーザはエルグランとの戦争で疲弊しきっている。兵力の衰えは当然、それに他国へと兵を使うより前に、エルグランへの援助をしたいのが本音だ。
「でしたら、ルダへは私が参りましょう」
「あ、姉上……!」
 ぎょっとしたのは何もセシリアだけではなかった。レオンハルトはそのままの顔であったが、内面ではさぞかし驚いていたに違いない。アイリオーネは思慮深い人であり、こうした発言をするのは稀だ。
「ルダは、私の国です。何よりも妹たちを見捨ててはおけないわ」
 そうした声も想定外だったのだろうか。レオンハルトは妻の横顔を熟視する。アイリオーネはにっこりとした。
「それとも、片時も私と離れたくないというのでしたら、考えを改めましょう」
 思わず失笑するところをブレイヴは留める。冗談を言っているようには思えない。レオンハルトは長い嘆息をする。葛藤の証だ。やがて、友はブレイヴを見た。
「お前に頼みがある」
 面と向かって言われなくとも、ブレイヴはそのつもりだった。しかし、それが本当に意味するものを、ブレイヴはまだ見ないふりを続けている。
 

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