四章 ラ・ガーディア−四葉の国−

孤独に生きた者の末路

 玉座を守っているのは少年王ミハイルだ。
 頭上に戴くはずの王冠も紅玉石付きの王錫も持っていない少年王。サラザールを腐らせた元凶とも言ってもいい老王が身罷ったあと、喪に服した期間を終えてミハイルは戴冠した。されども王冠も王錫も宝物庫に保管されているのは、少年が真の王だと認められていないからだ。
 はるか西の聖王国イレスダート、ヴァルハルワ教会の本処ムスタール公国より聖なる使者がやってくるのは、戴冠式から半年後である。いったい誰が厄介なしきたりを決めたのか。ミハイルは玉座に腰掛けていても、王冠を戴くことも王錫を手にすることも許されてはいなかった。
 だからこそ、少年は焦っていたのだろう。
 傾き掛けているサラザールはいつ崩壊してもおかしくない国だった。華美を好み放埒な生活をたのしんできた歴代の王と自分はちがう。少年はそう繰り返していた。 しかしミハイルもまた囚われている一人なのだ。ラ・ガーディアの始祖たち、その末弟であるサラザルは他の兄弟たちへの劣等感に苦しんだという。堅牢で美しい王城を造りあげながらも満足することはなかったのかもしれない。そうした気質は子や孫へと受け継がれていき、サラザールを戴く王たちはいつからか諦観の思想を抱く。政治を省みず奢侈を好んできた王たちは現実から逃げてしまったのだ。
 玉座に腰掛ける少年の横顔をイシュタリカは見る。
 理想ばかりを謳う少年王には苛々させられたものの、彼女はミハイルという人間は嫌いではなかった。こうして少年の傍らに立っているのはきっと同情心からだろうと、彼女は思う。サラザールを守ってきた騎士団はリンデルという将軍を失って、著しく士気がさがっていた。王族や諸侯らは真っ先に逃げ出した。残った文官や侍従たちは少年王に脱出を促したが少年は従わず、そうして見捨てられた少年王はただ玉座を守るだけだ。
 なぜ、ここまで少年は玉座にこだわりつづけるのか、イシュタリカには理解できない。少年王の傍らにはイシュタリカと、二人の処刑人が控えている。叛乱軍が王の間へと突入しても戦うつもりはなく、混乱に乗じてサラザールを捨てるつもりだ。この聡い少年はイシュタリカの胸の内など読んでいるはずで、最初から《《その力》》を当てにしていない。見届けさせようとしているのか。憐れな少年に残っているのはまるで意味のない矜持だけだ。
 先ほどまで騒がしかった回廊が静かになった。
 いま一度、イシュタリカは少年王の横顔を見た。怯えているようには見えないし、反対に諦めているようにも見えない。この少年はいったいどうするつもりなのだろう。叛乱軍の指導者はかつて城勤めをしていたガゼルという騎士だ。ガゼルは老王に妻女を奪われた過去を持つ男で、サラザール王家を憎んでいる。ミハイルが命乞いをしようとも許すとは思えないし、それならば最初から反旗を翻したりしないはずだ。少年王と叛乱軍の指導者、敵対する者たちの会話に興味を持ちつつも、この少年と一緒に心中するつもりもないイシュタリカである。
 さて、どんな声をしてここから去るべきか。思案するイシュタリカの青玉石色の眼と、ミハイルの灰青の眼がかち合った。
「お前の目的はなんだ?」
 イシュタリカはまじろぐ。もう他には味方など残っていないミハイルだ。裏切り、逃亡、見捨てられた少年王がいまさら何を知りたがるのか、イシュタリカにはわからない。
「お祖父さまが見初めた愛妾の一人。だが、お前がただ偶然にこのサラザールに流れ着いたとは思えない」
「まあ。そんな推理をなさって、私の何を知りたいのかしら?」
「望みどおりになっただろう? この国はまもなく終わる」
 艶然たる挙措でイシュタリカはいつだってミハイルの声をきいてきた。時として助言を与えて、この孤独な少年を導いてきたつもりだ。それを望みどおりなどと揶揄されるのは面白くはない。ミハイルは知らないはずだ。イシュタリカが《《誰のため》》にここにいるのかも。
「南のイレスダートと北のルドラス。双方で行われるはずだった和平条約は夢物語で終わった」
 急に話題が逸れたように感じる。イシュタリカは小首を傾げて、そのまま惚けてしまおうかと思った。少年がくつくつと笑っている。
「お前の国だろう? 知らないとは言わせない。いまだに終わらない戦争を収めようとして、ある王女と王子が引き合わされた。王女はまもなく十九歳、王子は十三歳の子ども。敵国の二人は政略の道具として使われ、その婚約は秘匿とされていた」
 イシュタリカの笑みが消える。虚言を吐くならば最後まできいてやってもいいと、そう思ったからだ。
「ところが、どちらも現実とはならなかった。城塞都市ガレリアを越えて北国へと足を踏み入れたイレスダートの要人たち、調印式のために南へとおりていたルドラスの要人たち。嵐に見舞われた両陣営は壊滅、イレスダートの王並びに麾下たちは敵国の大地で命を落とし、王女はそこから消息を絶った。ルドラスもまたおなじく、王女を迎えに来ていた王子をそこで失った」
 よくもまあ、遠く離れた東の聖王国をここまで調べたものだ。イシュタリカは聡明なこの少年王をすこしばかり見直した。ミハイルの声はまだつづく。
「なぜ、そこから両国の戦争へと加速しなかったと思う? 答えは簡単だ。その婚約は極秘だったからだ。消えたイレスダートの王女はまだいい。だが、ルドラスの王子の死は隠さなければならなかったし、そこに王子が来ていたという事実も消さなければいけない」
「……開戦を声高に訴える者たちを退けたのは、イレスダートの王でしょう?」
「それもあるだろうな。かのアナクレオン王は賢王と名高い方だ。それにルドラス側にしても都合が良かった。王子の死は痛手となったが、強攻策を要した者たちの罪も免れる」
「ずいぶんと詳しいこと。イレスダートでさえ一部の人間しか知らないような情報を、どうやって手に入れたのかしら?」
「簡単だ。情報屋は金貨さえ握らせれば、こんな遠い西の果てにも届けてくれるからな」
 そこでようやくイシュタリカは笑みを取り戻した。賢しらな子どもだ。そこまで知っていて、これ以上何を知りたいと言うのだろう。ミハイルの灰青色の瞳がイシュタリカを射貫く。陽光の下では青に見えた瞳が、いまはほの暗い灰色に変わっている。
「わからないのが消えた王女だ。イレスダートにも戻れず、孤独に彷徨う女が何を求めているのか。僕が知りたいのはそこだ。お前は以前、僕に言ったな。あそこにはもう戻れないと。だが、多くを望まなければどこにだって行ける。自由は外の世界にいくらでもあるのだから」
 作っていた笑みが醜く歪んだのが自分でもわかる。ああ、そうか。この少年は生まれながらの王者だ。自分の孤独を理解していて、けれども他者から蔑まれるのを許しはしない。イシュタリカにしても似たようなものだ。同情や憐憫といった他者から向けられた感情には吐き気がする。
「だからこそ、僕にはわからない。イシュタリカ。手に入れたいのなら、サラザールでなくとも、」
 どうやってこのよく回る口を黙らせようか。イシュタリカが思案したその刹那だった。彼らは詠唱もなしに瞬時に魔力を具現化させることができる。空間に作られていた無数の氷の刃が一斉に放たれた。為す術もなくイシュタリカはそれを見ていた。玉座の王へと、氷の刃が突き刺さるそのさまを。
「なにも殺さなくとも……」
 イシュタリカはつぶやく。見開かれた灰青の瞳、ミハイルの眼が最後に映したのは彼女の姿だ。処刑人たちは人ならざる存在であり、二人は人の言葉を皆まで理解してはいなかった。ただ、《《彼》》へと繋がることを恐れたのだろう。取るに足らない人間の子どもの声であっても、彼らにとって《《王》》は絶対だ。
 彼の言うとおりにしておくべきだったのかもしれない。イシュタリカはかわいそうな子どもを見て、やはりこの胸に宿る感情は同情だと思った。ミハイルは彼女のことを何もわかってはいなかった。そう、彼女にとって目的などただの手段でしかないのだ。彼が彼女に与えてくれる唯一、だからイシュタリカはサラザールもルドラスも、イレスダートでさえもどうだっていい。




 
 




 下手をこいちまったなあ。デューイはひとりごちる。
 サラザールの城内は王国軍と叛乱軍、改め解放軍が入り乱れて戦っている。解放軍の指導者であるガゼルは地下水脈を通って城内へと侵入した。解放軍古参のガゼルの麾下二人と、イレスダートの聖騎士が一緒だから何の問題もなければ心配も要らないだろう。
 第一部隊は城門前で派手に暴れている。こちらはガゼルみたいな元騎士だったり王宮仕えの従僕だったり、いわゆる訳ありの連中だ。第二部隊を構成するのはほぼ民間人である。悪政に耐えつつ密かにガゼルに力を貸していた者も、解放軍の蜂起に乗じて立ちあがった者もいる。老爺から子どもまでと年齢もそれぞれ、剣や弓を使ったこともない者たちばかりだ。
 デューイはこの部隊に混じっていた。掏摸や借金の踏み倒しなら得意としてきたデューイだが、こと戦闘となると真っ先に逃げ出すくらい戦えない側の人間だ。ガゼルも最初から戦力として期待なんてしていなかったし、怪我をする前に適当に逃げろと言ったくらいだった。
 だから、しくじったのは誰のせいでもない自分の失態だ。
 内側から城門が開かれたとき、第三部隊の到着を待たずに第二部隊は突入した。ほどよいところで逃げよう。そう考えていたデューイはそのまま城内へと押し流されていしまったが、あの子を探しに行くならそれもちょうどいいなとすぐに思考を切り替えた。とはいえ、この部隊の主力はあくまで民間人である。城内には当然正規の王国軍が待ち構えていた。
 こうなると、城門を開けさせたのは罠だったのではないかと疑うのが普通でも、先に侵入していた第三部隊にはウルーグの鷹がいる。レナードやノエルといったデューイもよく知る面子がそろっていて、最初はそこに誘われたものの、戦えないデューイにとっては利点がないので断った次第だ。
 けどまあ、あいつらと一緒だった方が、危なくなかったかもなあ。デューイは天を見あげながらごちる。
 リンデル将軍という指揮官を欠いた王国軍だが、すこしは持ち直したのかもしれない。そもそも数では圧倒的に有利だった王国軍だ。相手が子どもや老人ばかりであれば形勢が傾くのは当然だろう。内側から第三部隊と外側から第一、第二部隊と挟み撃ちにするのが本来の作戦だったのに、いざ戦いがはじまれば誤算はいくらでも出てくるものだ。皆がどんどんやられていくのを見て、それでもデューイは逃げようと考えていた。だいたい、勝手に動いたやつらが悪いし、こういうのは自業自得ってやつだ。とっととずらかろう。そしてあの子を探しに行こう。
 できなかったのは、どうしてだろう。
 デューイは自分の運のなさを嘆いたことはなかった。母親は老王の手籠めにされて望まない子を身籠もったあと、サラザールから消えた。父親は口封じのために殺された。よく面倒を見てくれたじいさんも冬の寒さに耐えきれずに死んで、そうして天涯孤独となったデューイは野良猫さながらに厨芥を漁っていた。 でも、それは自分の不運のせいじゃない。そもそも運が悪かったならガゼルに拾われてなんかいなかったはずだ。
 そうだ、俺はきっと神様ってやつに好かれているんだ。
 敬虔な教徒でもないくせに、そんなことを言うからには理由がある。勝手にサラザールを飛び出してラ・ガーディアを南下したのち、カナーン地方とたどり着いた。ちょっと立ち寄っただけの孤児院で、まさかあの子に出会うとは思わなかった。蜂蜜色の髪、人見知りするたちなのか一点に留まらない藍色の眼、はじめて会うはずなのにデューイはその子を知っていると、そう思ったのだ。
 イレスダートの聖騎士と王女、訳ありの要人たちと知り合えたのも、彼らをサラザールに関わらせたのも、偶然などではないとデューイは考える。強運の持ち主だたからこそ、ここまでやってこられたのだ。
 じゃあ、とうとう運が尽きちまったわけか。呼吸が苦しくなってきた。頭がくらくらするのも耳鳴りが止まないのも、血をたくさん流してしまったせいだ。
 デューイは左足を引き摺りながらなおも進もうとする。さっき派手に転んだせいで左足を捻挫してしまったかもしれない。けれども、デューイが痛みに喘いでいるのはそこじゃない。騎士と対峙したときに構えた剣はあっさり弾かれてしまったし、避けきることもできずに脇腹を貫かれた。
 大げさなくらいに声をあげてぶっ倒れてしまえば、騎士はデューイに構わず他の仲間を攻撃しに行った。デューイの視線の先には年端もいかない少年がいて、少年は庇われたのにもかかわらず、怯えてそのままどこかへ行ってしまった。
 血が止まらないのでこのまま死ぬのだろうと、デューイはそう思った。
 サラザールにいれば嫌でも汚いものばかりを見た。暴力とか裏切りとかが常に日常にあるそんな人生だった。ガゼルに保護されても何度なく反発して、そのたびに孤独を味わった。どこかで道を踏み外しているのなら、それがいつからなんてわからない。そんな酷い人間なのに良心というものがデューイにもすこしは残っていたらしい。
「うまく、にげて、いればいいな」
 べつにさっきの子どもを恨んでいるわけじゃない。あの子どもはデューイなのだ。誰かを恨んだり呪ったり、とっくに止めていたデューイはそれでも自分の運のなさを罵りたくなった。それも今日で終わりだ。きっと、明日からはサラザールにも光が訪れる。曇り空ばかりで暗く閉ざされていたこの国がようやく生まれ変わるときがきたのだ。だからもう、これ以上を望むものなんてなにも――。 
「ある、よな。だって……、死にたく、ないよ。俺は、まだ」
 やっと、見つけた。孤独に生きてきたデューイが《《彼女》》の存在を知ったのはいつだっただろう。希望、あるいはひかり。勝手な願望でも、あの子はデューイにとって唯一の存在だったのだ。
 上から冷たい雫が降ってきた。晴れどころか曇りでもなければ、まったくこの国は最後まで甘えさせてはくれないらしい。もう瞼も開かないのでたしかめようもなかったけれど、こんなときくらいお天道さまを拝みたかった。雫はぽたりぽたりとと、つづけてデューイの頬へと降ってくる。本降りになるのか、または雪に変わるのか、それは誰かが泣いているようだった。
「死なないで」
 そのやわらかな声は、たしかにあの子の声だった。
 ああ、そうか。この国はちっともデューイにはやさしくなかったけれど、神さまはほんのすこしだけデューイに愛情を与えてくれているのかもしれない。起きあがることもできずに、それでも前に進もうとデューイは地面を這いつくばっていた。とうとう力尽きたそのときに、最後に会いたかった人に会わせてくれるのだから、次に生まれ変わったら敬虔なる教徒でいよう。それが夢や幻であったとしても。
「おねがいだから。ひとりに、しないで」
 祈るような少女の声がする。泣くのを必死に堪えながら訴えかける声が段々と遠くなっていくのをデューイは感じていた。もう、泣かなくてもいいよ。声にしたつもりでも、きっとあの子には届いていないだろう。
 そのやわらかな緑の光はデューイを包み込んでいた。泣くな、と。誰かが少女を叱っている。この声はたしか、イレスダートの赤い悪魔だ。妙な組み合わせだなあ。二人の呼びかけに応じようとして、しかしデューイの意識はそこでぷつりと途切れてしまった。


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