四章 ラ・ガーディア−四葉の国−

ドレスと剣

 日が西へと傾きはじめてきた。午前中は元気の良かった露天商たちも、そろそろ店仕舞いをはじめる頃で、しかしこのところは彼らの姿を見ていない。それでは夕食の買いものをする女たちも困るだろう。お腹をぺこぺこにさせた子どもたちもじきに帰ってくる。
 カタリナは無意識にため息を吐いていた。
 噴水広場を駆け回る子どもたち、お喋りをたのしむ娘たち、良い陽射しのなかで居眠りする老爺を迎えにくる孫娘も、どの姿もいまは見えなかった。こんなのは、王都じゃない。カタリナは二十年間王都マイアで暮らしてきた。街が死んだようになってしまったのは、前王アズウェルが身罷ったそのときだけだった。それはやがて時が経つとともに元の華やかな王都へと戻ったものの、今回はどうかわからない。皆、得体の知れない事件がつづいていることに怯えているのだ。
 異国の商人たちは姿を消した。巡礼者もほとんど王都には来ていなかったし、旅行者もおなじく、上流階級の貴族たちも商家の人間も他の身分の者たちも、いまはとにかく外出を控えているようだ。夏のあいだに収穫を終えた麦は運び込まれたまま放置されている。請け負った男たちも他の仕事で忙しいのだろうか。それとも、いまはこんな状況だから遅くまで残って仕事をしないし、仕事終わりの一日を仲間たちとたのしんだりしないのかもしれない。
 ずっとこのままでいいはずがない。カタリナは、そう思う。そしてそのために自分がいるのだとも。
「今日のドレスも、母上が着ていたのですか?」
 少年騎士の声に、カタリナは眉をひそめた。無駄話をするなとは言わないが、いまは勤務中である。無言を肯定と受け取ったのか、少年騎士はにこにこしている。
「素敵ですね。一昨日の瑠璃色のドレスも似合っていましたが、若葉の色も綺麗です」
 褒めてくれているのだから一応はありがとうと返すべきか、カタリナはすこし迷ったもののやはりここは無視した。彼の声に悪意はなくとも、にこやかな笑みをするだけで少年騎士が謙虚ではなくなる気がしたからだ。カタリナは嘆息する。
「いいですか。あなたは従者で、私は伯爵令嬢です」
「もちろん、忘れてなんかいません。そのつもりで会話をしています」
 頭を抱えたくなった。こんな明け透けな物言いをする従者がどこにいるのだろう。少なくともローズ家の使用人たちは皆従順で、扈従などカタリナが成人するとともに他の家にやったくらいだ。侍女たちはおろか、執事長だって無駄口をたたかずにしっかりと働く。だからこそ、亡き母のドレスを纏ったカタリナを見て、思わず涙を浮かべた侍女頭や執事長を咎めようとも思わなかった。
「それより、大丈夫ですか? 足」
「問題ありません」
 素足でヒールを長時間履く経験ははじめてだった。上流階級の貴人たちが集まる晩餐会でもカタリナは白騎士団の軍服でいたし、成人する前などは多忙を理由に断っていた。たぶん、これから先は一生ないとカタリナは思う。
「やっぱり、馬車を用意した方が……」
「いけません。それでは馭者ぎょしゃを巻き込んでしまうし、こちらもすぐに動けないでしょう?」
 少年騎士にはカタリナの強がりなど見抜かれている。そんな気遣いができるくらいに聡いのなら、他に生かしてほしいところだ。
 それにこの先から路地裏に入る。大通りの巡回は他の騎士たちに任せてあるので、カタリナたちの担当はここだ。急に馬車が壊れてしまったため、仕方なく徒歩で行くという設定である。伯爵令嬢でしたら次の馬車を待ちますけどね。そう、少年騎士が言う。報告のたびにカタリナの前でおろおろしていた彼も、ずいぶん偉くなったものだ。
「とにかく、もうすぐ大聖堂が見えてきますから。それまで我慢なさってくださいね」
 そういえば、とカタリナは思い出す。この少年騎士は商家の三番目の息子で士官学校を卒業したのちに騎士となった。これが彼なりの従者像なのかもしれない。思わずほころんだカタリナの顔も、しかし次の彼の言葉で引き締まった。
「それから騎士団長に報告に行きましょうね。きっと、お待ちだと思いますよ」
「いいえ。報告は明日にします」
「えっ、でも……」
「今日の会議もまた長引きそうです。騎士団長も疲れているでしょう」
「それはそう、ですけれど」
 彼はまだ若くとも規律に対して忠直ちゅうちょくなたちだった。カタリナが少年騎士を伴って巡回を許されてから七日が過ぎている。しかし、成果らしき成果がなくとも期日までに騎士団長に報告しなければならない。今日がその日だ。
 普段のカタリナならば夜半過ぎてもフランツを待っていただろう。とはいえ、こんなドレス姿で白の王宮を彷徨く気にはどうしてもなれないのだ。他の騎士はともかく、白の王宮にはまだ元老院も残っているから、何を言われるかだいたいは想像が付く。
「フランツ様も喜ぶと思いますよ」
 やっぱり、それか。カタリナはため息をしそうになる。少年騎士はいまのカタリナをどうしてもフランツに会わせたいのだ。ならば尚のこと、今日でなくても構わない。カタリナは少年騎士を置いていく勢いで路地裏を歩いて行く。
 街を染める赤の色がなくなり、空はもう夜の色に変わっている。すこしのんびりし過ぎたようだ。この時間ならばまだ路地裏を利用する者だっていそうなのに、やはり姿は見えない。するとどうしてもカタリナと少年騎士の姿は目立ってしまう。こちらとしては好都合なのだが。
「……現れますかね?」
「そうでなければ困ります」
 カタリナの声は素っ気ない。けれども少年騎士にはまだつづきがあるのだろう。そんな視線を寄越してくる。
「副団長は、この事件の犯人が人間だと思っていますか?」
「どういう意味ですか?」
「こんな話をきいたことがあります。獣は人間の臓器を好む、と」
「ここは王都マイアですよ? 何を言って、」
「だからこそ、です。この聖都で罪を犯すような馬鹿はいません」
 カタリナは無遠慮に嘆息する。いったい、彼は何が言いたいのだろう。
「人ではないというなら、何だと言うのです?」
「わかりません。でも……、魔性の狐は人間の肝を好むと言いますし、他にも」
「それこそ馬鹿な話です。つまりあなたは、抜き取った心臓だけを獣が食べたと、そう言いたいのでしょう?」
 カタリナが皆まで言ってしまうと、少年騎士はきまりが悪そうにうつむいた。たしかにこの事件には不可解なことが多すぎるものの、話が広がりすぎている。それに彼がここまで勤勉だとも知らなかった。
「話はここまでです」
「でも、カタリナ様」
 彼は何かに気づいたようだ。カタリナも声を潜める。いきなり襲ってきても少年騎士には剣があるし、カタリナも太腿のあたりに短刀を忍び込ませている。こんな姿では動きにくくても二人ならば戦えるはずだ。
 カタリナは少年騎士に目顔で合図する。この先は大聖堂だ。彼の言うとおり、神聖なる場所で騒ぎを起こす馬鹿はいないだろう。動き出すとしたら、いま。
 ところがカタリナたちを付けている者たちはいつまで経っても襲っては来なかった。尾行されているというのも、語弊があるのかもしれない。相手の動きは素人そのものだったし、むしろこちらに知られるのを前提で動いている節がある。どういうつもりだろう。苛立つ自身を抑えようと、カタリナは呼吸を深くする。少年騎士が目で促している。わかっている。大聖堂はもう目の前だ。
 カタリナは振り返った。すこし離れて相手はいたものの、やはり尾行するような間合いではなかった。なによりもこちらの顔を見た向こうの方が驚いている。
「まさか、副団長殿だったとは……」
 男は二人連れだった。壮年の貴人と騎士と。この顔は見たことがある。元老院だ。しかし、こんな時間にこんな場所にいるのはおかしい。会議はもう終わったのか、それにしては早すぎるし、貴人たちは帰路を急いでいるようにも見えない。
「これは驚いた。聖騎士殿が女の格好をしているとは」
「おっしゃるとおりでございます。しかしながら、好都合ではありませんか? 白騎士団なら我々を守ってもらえます」
「そうだな……。カタリナ・ローズならば、腕はたしかだ」
 少年騎士が舌打ちする。なるほど、彼らは遅れてきたらしい。この壮年の貴人はヴァルハルワ教徒だったことも思い出す。つまり、祭儀のあとで白の王宮に赴くらしい。馬車を使っていないのは、こちらは本当に馬車が壊れてしまったのかもしれない。だが、彼らは急いでいるから徒歩を選ぶ。殺人犯と出会ってしまっても先に狙われるのはカタリナたちだ。
「お断りします」
 壮年の貴人が次の言葉を発する前にカタリナは言った。騎士の使命はたしかに民を守ることでも、騎士は便利屋ではない。
「な、なんたる無礼を……!」
 気色ばむ従者を壮年の貴人は制する。笑みを作っているつもりでも唇の端が震えている。
「よろしいのかな? 貴公のその態度は、お父上を窮地に陥れることになるぞ」
「……なんですって?」
 カタリナの目が鋭くなった。ローズ伯はたしかに元老院だが、いまカタリナと何の関係があるというのだろう。
「このところのローズ伯は議会でも反感を買っている。苛烈かれつ過ぎるのだよ、発言が。これでは内に敵を作りかねない」
「それはあなた方のなさりように、目を瞑っているのが限界だからでしょう? 父は国王陛下に仇なす者をけっして許しません」
 今度は壮年の貴人が怒りを露わにした。従者は主人を宥めるのに必死になる。どうやら痛いところを突かれたらしい。国王派と元老院派。白の王宮ではいまだに派閥争いがつづいている。
 そんなことは、どうだっていい。カタリナは貴人たちをここから追い払うための言葉を口のなかで考える。しかし、何かが妙だ。先ほどまで感じていた視線は、はたしてこの者たちだったのか。
「カタリナ様……!」
 少年騎士の声にはっとする。
 風を感じたかと思えば、目の前に闇が生まれた。空間が割れてそこから這うようにして出てくるそれは、影だった。
 カタリナは瞬きを繰り返す。闇から這い出てきたのは老婆だった。老女であるという判別が正しいのかどうか、わからない。だが、老婆が纏った長衣からのぞく腕はひどく痩せていて、落ち窪んだ目の色はぞっとするほどに暗かった。 
 浮浪者か、物乞いか。カタリナはその可能性を消す。ここは王都マイアである。
 それに、と。カタリナは口のなかでつぶやく。あれは、闇だ。そうだ、カタリナは闇を見たのだ。老婆はやおら立ちあがると、両の手で何かを抱えていた。目を凝らさなくともわかる。あれは、人間の臓器。奪われた心臓はまだ鼓動をつづけている。
 カタリナはずっとそこで棒立ちになっていた。老婆が口を開けて《《それ》》を咀嚼する。すさまじい異臭がして、気分が悪くなった。これは、現実なのだろうかと自分へと問いかける。しかし、答えは返ってこない。おそらく、他の者たちもそうだろう。
 心臓を食べ尽くした老婆の姿が変貌する。窪んだ眼窩から見えたのは漆黒ではなく青玉石サファイアの色になった。顔全体の皺が消えて若者の容貌へと変わっていく。蓬髪に若さが蘇り、そうして海を思わせる青の色へと変化してするさまをカタリナは見る。誰かに似ている。そう、思った。そして、その答えにたどり着いてはいけないと感じたとき、カタリナは叫んでいた。
「逃げなさい! 早く!」
 先に反応したのは少年騎士だ。彼が壮年の貴人を連れて行くのが見えた。それでいい。カタリナの教えを彼はちゃんと守っている。残ったもう一人、貴人の従者は腰が抜けている。カタリナはドレスの下に隠しておいた短刀を取り出すと、男の顔を斬った。男は主人とは反対の方へと逃げていったが、カタリナはその背中を最後まで見届けずに老婆へと向き直る。
 人間では、ない。
 カタリナの唇が音を紡ぐ。あるいはかの人の名を、つぶやいていたのかもしれない。老婆はもう老人の姿をしていなかったし、獣ではなく人間の姿をしていた。でも、これは人ではない。
 後退るカタリナは何かを踏んづけた。少年騎士が置いていった剣だった。カタリナは素早く鞘から抜き取り、異形のものへと向ける。震えが止まらないのは残虐な行為を見たからだ。脂汗が噴き出ているのは異臭のせいだ。頭痛と吐き気がするのは恐怖からではない。カタリナは己を叱咤する。勝てる、だろうか? カタリナの逡巡もすぐに意味がなくなる。彼女もまた闇に囚われてしまった一人であり、これ以降カタリナ・ローズの消息を知る者もいなかった。

 

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