二章 アストレアに咲く花

招かれざる客2

 ノエルが騎士団に志願したのは十五の歳だった。
 農家の息子に生まれたノエルが騎士になるには、ふたつの方法しかない。王都マイアの士官学校へと入るか、貴族の子になるかのどちらかだ。士官学校には推薦が要るし領主の息子でもないノエルにはまず無理で、となれば後者しか残されない。少年は一大決心をして、父親へと自分の思いを伝えた。大きな声で笑い飛ばされるか、それとも拳骨でおもいっきり殴られるか。ノエルは黙って父親の声を待っていたが、そのどちらでもなかった。
 少年の父親は明くる日に突然古い友人を連れてきた。
 身なりの良い初老の男は従者を二人も控えさせていて、挙措も明らかに貴人のそれだった。あとでよく考えれば、ただの農家の男に貴人のよしみなどなかったはずだ。けれど、父親ははじめて自分の夢を語った少年の背を押してくれたのだろう。
 ノエルはいきなり背嚢袋だけを持たされて、扉が閉まるのを見ていた。だから母さんにさよならを言えなかったし、弟や妹は昼寝の最中だった。ノエルの新しい父親は、人好きのする笑みをしてノエルの手を握ってくれて、二人の従者は少年を馬に乗せてくれた。貴族の家の生まれではない子どもは、こうして騎士になってゆく。アストレアは貴族よりも農家や商家が多いから、これも特別なことではなかった。
 そうして、三年の月日が流れた。成人すればようやく騎士団へと入団が許される。ノエルはちいさい頃身体の強い子どもではなかったが、少年から青年へと成長するにつれて身体はずいぶんたくましくなったように思う。ちょっとしたことで熱も出さなくなったし、剣を習うのも一人馬に乗るのだって一度も弱音を吐かなかった。けれど、ここからが重要だ。騎士団に入れたからといって、これで終わりじゃない。きっと、ノエルは幸運に恵まれていたのだろう。同時期に入団した新米のなかに、おなじ境遇の者がいた。赤髪の青年――レナードとはすぐに仲良くなって、しかしよき競争相手となった。荒削りだが負けず嫌いなレナードを目に掛けたのはアストレアの黒豹ジークで、レナードは入団してからどんどん剣の腕があがっていった。
 負けず嫌いならばノエルだって一緒だ。けれども、レナードにはどうやっても剣では勝てない。伸び悩んでいたノエルに弓を進めてくれたのはアストレアの公子だ。それが、公子と最初に交わした声だったと、ノエルは覚えている。そう。ノエルは特に目がよかったのだ。弓騎士にとってなによりそれが重要で、赤髪の騎士に負けず劣らずノエルもまた才覚を発揮していったのだった。
 だからこそ、あの日の悔しさは忘れられない。
 公子のガレリア遠征に選ばれたのは、同期のなかでレナードだけだった。新米騎士たちにとってはこれが初陣で、残された仲間たちはほっとしていた奴もいたかもしれない。だけど、ノエルはちがう。レナードは友達だけれど、けっして仲がいいだけの間柄ではないのだ。
 アストレアはイレスダートの他の公国に比べると小国であるから、騎士の数にしてもそれに伴わせる者にしても限られている。留守を預かるのは騎士団長トリスタンで、ノエルも騎士団長の元で日々の鍛錬をつづけていた。しかし、扈従こじゅうや馬丁も皆ガレリアへと連れていったので、武器の手入れも馬の世話もぜんぶ自分たちでやらなければならない。人手不足に困っていたところに手をあげたのがノエルだ。もともと、手先が器用だったノエルは細かい仕事が嫌いではなかったし、動物も好きだった。根っからの貴族たちのなかには汚れるから馬の世話を嫌がる者もいるが、ノエルはそう思わない。ちゃんと自分の馬に向き合えば、馬はノエルの声に応えてくれるからだ。
 そして、こうしたノエルの行いを見てくれていた人がいる。
 馬が好きなのですかという問いに対して、ノエルはうなずくだけで精一杯だった。緊張する騎士にもエレノアはやさしく笑んでくれる。まあ、それはよきことです、と言い残して。
 そのエレノアとの会話は今日が二回目だ。
 公子たちがアストレアに帰ってきてからも、ノエルは馬丁たちと馬の世話をするのが日課となっていた。午後の合同訓練のあとだから身体はくたくたでも構わなかった。
 桶を抱えて水汲み場を往復する。馬の背に刷子を当てて、一頭が終われば次の馬がもうノエルを見ている。いや、視線はノエルよりも、もうすこしうしろだ。振り返ればその人が待っていた。膝を折るノエルを制して、エレノアは厩舎を一通り眺める。公爵夫人の頼みごとはこうだ。すぐに使える馬を何頭か用意してほしい、と。この日、特別な公事などなかったはずだが、ノエルは問いなど声に出さない。ここには、強くてよく走る馬がたくさんいる。しかし、そのなかでも特別な馬を選んでほしいのだと、エレノアは言っているのだ。
 王都マイアからの使者が訪れたことなど、ノエルはまだ知らない。ましてや、アストレアにイレスダートの王女がいることなども。
 一仕事終えたノエルは大きく伸びをした。空はとても晴れていて、雨をもたらす雲などどこにも見えなかった。
 


 

 
 



 従者がブレイヴにそれを伝えに来たのは、合同訓練が終わったそのあとだった。
 今日は少年騎士たちもたくさん参加していたために、居残りを希望する者も多い。ブレイヴもそこに残って少年たちに付き合うのだが、この日は別だった。少年騎士たちの指導役であるジークの姿はすでに消えていて、騎士団長トリスタンも不在である。そういう日もあるのだろうと、いつものブレイヴならばそう思う。しかし、従者の顔を見れば、察しの悪いブレイヴでもさすがに妙だと気がつく。従者は客人が来ていることをまず告げたものの、エレノアが呼ぶまで自室で待つようにと言うのだからなおさらだ。
 要件だけ残して去ろうとした従者をブレイヴは逃がさない。
 おそらく、従者はエレノアに口止めされていたのだろう。だが、公子の前で嘘は吐けずにそのままを口にする。元老院。ブレイヴも繰り返す。それ以上はきく必要もなかった。
 ブレイヴは胸元から懐中時計を取り出した。エレノアはブレイヴの母親であるものの、しかし同時にアストレアを預かる公爵の代理だ。命令には、従わなければならない。とはいえ、三時間が経過していれば、それだけため息の数も増える。しばらく報告書の束を眺めていたが、どうにも入ってこないので机上に山ができた。古書のつづきを読んでいても進まずに、さきほどからブレイヴは部屋のなかを行ったり来たりしている。そこにジークでも居たならば、そろそろ叱責されることだろう。
 悪い予感がしてならない。ブレイヴは勘の働く方ではなかったが、それがよくないものならばまた別だ。元老院は何のためにアストレアに来たのか。答えは皆まで言わずとも、ブレイヴはもうたどり着いている。そうだ。幼なじみはここにいる。イレスダートは北のルドラスと長い戦争をつづけていて、いつ情勢が傾くかもわからない。王都マイアの白の王宮は、彼女にとってもっとも安全な場所だと、ブレイヴは信じている。だが、アナクレオンはその先を見ている。だからこそ、妹姫をアストレアへと託した。王は慧眼に優れた人であると、ブレイヴは疑わないが、しかし元老院はもっと抜かりない。もしも、王女が白の王宮にいないことが、すでに知られていたならば――。
 ブレイヴはため息を吐いた。
 いつまで待ってみても呼ばれる気がしなければ、扉の向こうに人の気配も感じなかった。夕方のはじまる時間ならば侍女たちが慌ただしくしているし、ジークが新たな仕事を増やしに来る頃だ。それに、この日はまだレオナに会っていない。ブレイヴとエレノアと、それからレオナと。三人で朝食を取るのはほとんど日課となっていたが、他に用事があった場合にブレイヴ留守にする。早朝に遠出をするのは何も気晴らしなどではなく、城下の人々の声をきくためだ。
 森の近くに住む老夫婦が猪が畑を荒らすので困っていると言った。猪は貴重な食料ではあるものの、こうやってときどき人々を悩ませる。防護柵を置いてみて、それでも被害が出るようならばここに騎士を来させると、ブレイヴは約束する。アストレアの男たちは猪狩りが得意だから、ふたつ返事で請け負ってくれるだろう。老夫婦は歯を見せて喜んだ。
 騎士の合同訓練がはじまっている頃、幼なじみにも仕事がある。エレノアという人はそれが王女であっても容赦がない。働かざる者食うべからずの精神だから、レオナはアストレアの女たちともすっかり仲良くなっていた。けれど、今日はそれが休みの日だったはずだ。そういう日に幼なじみはブレイヴにお茶を用意してくれる。執務室に籠もりきりのブレイヴにはよい息抜きとなるものの、彼女もまだ来てくれない。それならば、やはりブレイヴの推測はただしいのだろう。
 ブレイヴは扉に手をかけた。
 見張り役がいなかったのは、ブレイヴがそこから出ないと信じているからか。それとも、それ以上に逼迫しているためか。後者だと、ブレイヴは思う。意識せずに早足となっていたブレイヴは回廊を進んで階下へとくだって行く。けれども、人っ子一人と見えずに、まるで無人の館のようだった。ブレイヴは浅くなっていた呼吸を深くする。居館から庭園へと出てみてもそれはおなじで、母の姿もなければ庭師も見当たらなかった。趣味の土いじりに夢中になっていて、だから忘れていたのだと。きっと、ブレイヴの母親ならそう言ってくれる。それは、幻想だったのかもしれない。薔薇園で立ち尽くすブレイヴを呼ぶ声がしたのは、そのときだ。
「ブレイヴ……? おかあさまと、いっしょではなかったのね?」
 戸惑いと不安と。幼なじみはそういう目でブレイヴを見つめる。彼女はどこまで知っているのか。いや、何も知らされていないからこの場にいるのだ。傍付きの姿もないのなら、目を盗んで抜け出してきたのだろう。
「レオナは、いままでどこに?」
「わたしは……、いつもみたいに長老のところにいたの。お茶をたのしんで、でも……、ふたりとも急に用事ができたからって。それきりで。だから……」
 長老というのは、かつてアストレアの騎士だった老夫婦のことだ。彼らはエレノアのよき相談相手として、いまも城内に残ってくれている。その呼び方は渾名だった。だが、彼らもいないとなれば、何かが起きているという紛れもない証だ。
「ごめんなさい。わたし、ルテキアに嘘を吐いたの。たくさんお喋りをしたから、喉が渇いたって。でも、そうじゃない。ほんとうは、自分でたしかめたくて、」
「そういうことでしたら、無用の心配でございます。姫様も、公子も。どうぞ戻りくださいませ」
 無感情な騎士の声がおりた。
「ルテキア。わたし、」
「それは誰の命令だ? 母上か? それとも、別の?」
「エレノア様、です」
 問う声は詰問に近かったのだろう。騎士はブレイヴから目を逸らそうとするが、逃がすわけにはいかない。
「そうか。それなら、ちょうどいい。待つようにと言われていたが、これ以上は意味がない。皆は、どこにいる?」
「それは……、」
「きみは、私にも隠すつもりか?」
 ひどいやり方だと思う。これではほとんど脅迫だ。それでも、時間が差し迫っているというのなら、ここでこうしているのが惜しい。ブレイヴだけではないのだ。彼女《レオナ》も、もうわかっている。
「皆は軍議室にいる。そうだな?」
「公子は、エレノア様をお信じにならないのですか?」
 祈りや希望のようだ。ルテキアの声は震えていた。
「自分の母親を疑う子はいないよ。それでも、いまは自分で知る必要がある」
 そうだ。たしかめなければならない。軍議室の扉の向こうからはアストレアの要人たちの声がきこえてくる。騎士団長トリスタンも、ジークも。それからエレノアも。ブレイヴが扉を押し開ければ視線が一斉に向いた。誰一人として、絶望などしていない目だった。しかし、その運命のときが刻々と迫ってきている。夕暮れの城下街はいつもと変わらぬ平和な時間が流れていたことだろう。アストレア湖を迂回し、森を抜けて、この城下へと招かれざる客はふたたび訪れる。


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