二章 アストレアに咲く花

落日

 机上ではアストレアの地図が散らばっている。
 そこに記されているのは主要な砦や近隣の住民の数に、それを守るための兵力が足りないと訴える者の声が悲痛に響く。それを宥める者の声もまた震えているのは、動揺しているからだ。彼らよりももうすこし年長の騎士が叱咤する。しかし、入り交じる怒号にかき消されてしまった。
 ブレイヴの視線の先には騎士団長トリスタンがいる。その隣にはジークが、そして母の姿がある。隠居したはずの老夫婦の挙止はまさに騎士のそれで、公爵夫人に助言を与えていた。まるで、戦いの前のようだと、ブレイヴは思う。
 扉を押し開けたときに、彼らの目はたしかに光を宿していた。
 公子を認めてもそれは一瞬で、騎士たちは目前と迫る脅威に向き合っている。あれはもう客人などではなく、アストレアにとって敵なのだ。ブレイヴは混乱のなかを押し分ける。エレノアとは目が合っていたはずだ。それなのに、母はまだ息子に声をかけようともしない。
「母上!」
「静かになさい。まったく、あなたはいつもそうです」
 ああ、そうだ。このひとは、こんな状況に置いても変わらないのだ。ブレイヴは失笑しそうになる。
「なにが、起きているのです?」
「皆まで言わねばなりませんか?」
 落胆を隠さない声だった。当然だ。エレノアは母としてではなく、公爵の代理としてここにいる。呼吸が乱れる。頭痛がして眩暈を感じる。この苛立ちは誰に対してだろう。
「……すでに森を抜けたと報告が入っております。城下に着くまでに小一時間もないかと」
 耳元で囁いたのはトリスタンだ。ブレイヴは拳を作る。覚悟はしていた。そのはずだ。けれども、ブレイヴはたしかめる必要があった。この目でみて、この耳できく。それが、無意味なことだったとしても。
「あなたはここで何をしているのです? わかっているのなら、早く行きなさい」
 どこへ、と。ブレイヴの声は唇から出てこなかった。皆はまだ議論をつづけていて、騎士たちは倉皇そうこうとしている。長老たちはエレノアを待っているのだろう。だが、ブレイヴを映してなどない。公子はここにはいない。そんな目をする。
 そういうことか。ブレイヴはやっと理解した。最初からアストレアにブレイヴはいなかった。王命によりガレリアから帰還した聖騎士はまだ戻っていない。いや、それ自体が密命のようなものだ。
「なら、私を差し出せばいい」
「公子……!」
 語毛を強めた騎士団長をエレノアは制する。冷えた眼差しで、ブレイヴを見つめるその人は、失望のため息を吐いた。
「あなたは何もわかっていない」
 ちがう、と。ブレイヴは口のなかで否定する。
「頭を冷やしなさい。……その時間は与えたはずですよ」
 そうだ。母親は時間稼ぎをしていた。皆はとっくに動き出していたし、公子や王女を閉じ込めていた理由もわかる。ブレイヴはかぶりを振った。それなら、なおのこと矛盾している。白の王宮の要人は、元老院の目的は最初からブレイヴだ。
「ジーク。あなたに、すべてを任せます」
「仰せのままに」
 黒髪の騎士はエレノアに一揖し、ブレイヴを残して退出した。必ず来るという意思の表れだった。
「待ってください、母上」
「あなたも騎士ならききわけなさい。時は限られています。それなのに、あなたは」
「母上は、私を、信じてはくださらないのですか?」
「冷静になれと、そう言っているのですよ。わたくしは」
 冷静だ。だから、言ってはならない声を躊躇わずに、母を悲しませる言葉を吐く。
「……信じていないのは、あなたですよ。ブレイヴ」
 信じている。いや、信じようとしているだけだ。ブレイヴは歯噛みする。己の未熟さに憤り、無力さを呪ったところで何になるのだろう。アストレアは疑われているのだ。たとえ、虚偽だったとしても。白の王宮はそれを叛逆と見做す。
「私は、行けません」
 行けるはずがない。逃げることなど、できない。母が何を考えているのか、ブレイヴにはわからない。まもなく、マイアの騎士団がここへと着くだろう。王の直属とは別の、元老院に従う者たちだ。威嚇のための兵力ならば戦える。だが、元老院が本気でアストレアを落とすつもりだとすれば、とても持たない。アストレアは小国だ。だからこそ、ブレイヴは行けない。己の潔白を訴えれば、と。ちいさな希望に縋る自分が滑稽だった。
「そう。あなたは、見捨てるのね。ブレイヴ」
 エレノアは憐憫の目で見る。
「アストレアを、皆を、民を、わたくしを。それから、彼女を」
 ブレイヴは振り返った。そこには、幼なじみがいた。
「レオナ……」
 彼女はルテキアに支えられるようにして、やっとそこに立っていた。胸に押し寄せるこの感情は何だろう。後悔ではないことはたしかでも、ブレイヴは己の愚かさをそこで認める。王女の傍付きは言った。これは、王命ではないのだと。アナクレオン個人の願いなのだと、ブレイヴもそう受け取った。だとしたら、選択肢はもうどこにもない。ブレイヴもレオナも。このアストレアにいてはならない存在なのだ。
「城を、アストレアを捨てろと。そうおっしゃるのは、城主の代理としてですか?」
「いいえ。……母としてです」
 わたくしも、駄目な城主ですね、と。エレノアは笑む。胸が苦しい。息がうまくできない。ブレイヴを呼ぶ声がする。それなのに、幼なじみにこたえる声を持たない。
「いきなさい」
 エレノアは二人に向けて言う。城主としてではなく、本当に母としての声だった。
「だめ。そんなの、だめです。おかあさま……、だって、わたし……」
「あなたのことは、本当の娘だと思っていますよ。だから、母の声はちゃんとききなさい」
 嗚咽する幼なじみの頬をエレノアは撫でる。
「そんな顔をするものではありませんよ。強くなりなさい、レオナ。これは、母との約束です」
「……いや。いやです。そんなこと、できない。わたし、わたしがいるから、」
「レオナ」
 ブレイヴは幼なじみの手を取る。それ以上は、言わせてはならない。彼女はもう一度ブレイヴを呼ぶ。そうして、きっとブレイヴが選んだおなじことをしようとする。そんなことをさせてはならないし。ブレイヴは望まない。
「行こう。……行かなければ、ならない」
 幼なじみを引き寄せたとき、彼女は震えていた。この手は、レオナを守るためにあるのに、こんなにも不安にさせてしまった。本当に、愚かだ。ぜんぶ捨ててしまうところだった。長老たちは孫を見る目で見守っている。騎士団長はずっと黙していて、表情を隠すようにうつむいている。ジークは先に行った。レオナを引き留められなかったルテキアは自責の念を覚えているのかもしれない。傍付きもまた、唇を開かずにいる。ブレイヴは意識して呼吸をした。いつだって正しい道だけを選んできた。そう、思っていた。けれど、どこまでただしかったのだろう。
「しっかりなさいな、二人とも」
 母は、笑っていた。どうしてこんな顔ができるのだろうと、ブレイヴは思う。きっと、信じているからだ。これは、終わりなどではない。
 扉を開けて、回廊をすこし進めばジークが待っていた。黒髪の騎士はブレイヴの前で膝を折る。
「レナードとノエルが先行しています。じきに日が落ちる……それまでに、できる限りアストレアを」
「わかった」
 ブレイヴはそこから立ち止まらずに、そして一度も振り返ることをしなかった。アストレアよりさらに南へと、森の奥へと入った青髪の公子につづく騎士の数はわずか数名だけ。それは、彼らの長い旅のはじまりだった。
 
 
 
 
 




 城門を開けよと、言う声がする。
 固く閉ざされた城門のその向こうには、王都マイアの騎士がいる。数は知れない。報告よりも多いのか、少ないのか。どちらであっても無意味だろう。こちらは、たった二人だけだ。
 アストレア公爵は北のルドラスとガレリアの国境付近にて戦死した。もう五年も前の話だ。爵位を継ぐべく公子は成人し、それからすぐあとにアナクレオン陛下より聖騎士の称号を下賜かしされたものの、しかしまだ若い身である。公爵の代理、つまりは城主の代理を務めるのは亡き公爵の妻のエレノアだ。
 騎士団長トリスタンはエレノアの騎士だった。
 エレノアはアストレアの貴族の娘で、トリスタンはその傍系の血筋にあたる。だから、アストレア公爵家に嫁ぐ前のエレノアを知っているし、エレノアにとってトリスタンは年の離れた弟のような存在なのかもしれない。少年の時分からよく叱られたのも、いい思い出と言えばそうなのだろう。エレノアというひとは、自分にも他人にも厳しいひとだと、トリスタンはそう思う。そういう性分なのですよ、と。エレノアは笑って肯定するにちがいないが。
 ふたたび、騎士の声が響いた。エレノアは控えていた従者に目顔で合図する。ほどなくして、開かれた城門の先には王都マイアの騎士がいる。敵であると、トリスタンはまだ口のなかでつぶやかずにいる。だが、あれは味方とは言えないだろう。
「アストレアの聖騎士は、どこにいる?」
 指揮官らしき壮年の男は、トリスタンとさして歳の変わらぬ容貌をしている。公爵夫人の前でも下乗せずに、そのまま見おろす。よほど自尊心の強い人間なのだろう。
 トリスタンは歯噛みする。主を愚弄されて怒りを感じるのは当然だった。エレノアは視線だけを寄越す。ああ。これではまた、叱られてしまう。
「今日は客人が多いですこと。白の王宮の客人は、とうにお帰りになりましたよ」
「我々は王命でここに来た。偽りを口にすれば、それはアナクレオン陛下の前で嘘を吐くと同様と見做される」
「では、いま一度申しましょう。わたくしの子は、ガレリアにて戦死しました」
 マイアの騎士たちは騒ぎ出していた。エレノアはさめざめと泣いているわけではなかったが、しかしその声は息子を亡くした母親のそれだった。気丈な人だと、エレノアをずっと傍で見てきたトリスタンはそう思う。演者となるには完璧な振る舞いだ。騎士団長でさえも騙されるくらいに。
 空が、青の色から変わってゆく。アストレアの城下では家路につく男たちや夕食の準備に追われる母親たち、子どもたちは駆け足で老人たちはゆっくりと坂道をくだってゆく。それが、アストレアの日常だ。しかし、城下町は閑散としていて、代わりに道を埋め尽くすのはこの招かれざる客たちだけだ。数は、三十を超えている。元老院の姿はない。そういえば、あの老者は公爵夫人に献上品ひとつ用意しなかったことを詫びていた。何が手ぶらなものか。とんだ置き土産を残してくれた。
 冷静であれと。トリスタンは自身に言いきかせる。私の名は、アストレアが騎士団長トリスタン。口のなかでつぶやく。そして、視線の先にはマイアの騎士がいる。彼らは白の軍服を纏ってはいなかった。臙脂の色はどこの騎士団であったのか。トリスタンは知らない。とはいえ、話の通じる相手とは言えないだろう。
「戦死、だと……? そのような報告はきいていない!」
「ですから、わたくしは問うているのですよ? マイアは、白の王宮はわたくしの子を返してくださらない。これほどまでに隠すというのでしたら、子は亡き者と……そう受け取るしかありません」
「嘘事を申すな! この期に及んでマイアに逆らうつもりか!」
「逆らう、ですって? 何をおっしゃるのでしょう? アストレアが一度でもマイアに、アナクレオン陛下に反したことがありますか? 忠義を疑うというのなら、ご自身の目でたしかめればいい」
 エレノア様、と。トリスタンが呼ぶ前に、主はこちらを見ていた。大丈夫です。なにも案じることはないのですよ。そうして、いつものように。姉が弟を諭すみたいに、そういう笑みをエレノアはする。
 混乱がはじまっていた。いや、マイアの騎士たちは動揺しているのだろう。本気で武力を持ってアストレアを落とすつもりならば、とうに動いているはずだ。これは、脅しに過ぎない。しかし、エレノアというひとは、アストレアはそんなものにはけっして屈したりはしない。壮年の騎士は片手をあげて部下を静めさせる。
「いいだろう。だが、偽りは許さぬ。これより、アストレアは我が軍の管轄に置く。抗うなどと考えないことだ。これは、元老院の拝命であるのだからな」
「従いましょう。ですが、わたくしからもひとつ忠告しましょう。剣には剣を持ってこたえます。……いいですね?」
 戦えない数ではなかった。けれども、ここから先は威迫だけでは済まない。アストレアは他の公国と比べてもちいさな国だ。北のルドラスとの戦争がつづく以上は、マイアに守ってもらう他はない。そのマイアに逆らえばアストレアは簡単に潰される。いきるためだと、エレノアは言う。それならば、耐えるしかないのだ。
 エレノアは道を空け、マイアの騎士たちは城内へと入った。これは、時間稼ぎだ。おそらく長いたたかいになるだろう。エレノアは公子の痕跡も証左をすべて消している。どれだけ捜そうとも何も残らない、そのはずだ。王家の姫君となれば、なおのこと。最初からいなかった者など捜しようもなければ、誰一人として口を割らない。そうだ。アストレアは小国なれど、強き国だ。
 トリスタンはエレノアを見る。主はもうトリスタンに視線を合わせなかった。だから、トリスタンはエレノアを疑わない。このひとは、アストレアの希望だ。失ってはならない光だ。どんな屈辱も困難にも、耐えなければこの国が失われてしまうだろう。いつか、戻ってくるその光が、必ずエレノアとアストレアを救ってくれる。トリスタンはそう願う。
 赤の色が城下を染めている。それは、落日だった。まるで炎のようだと、トリスタンは思った。しかし、エレノアというひとはそれを選ばずに、けれどももっとも困難な道を取った。本物の炎にアストレアが包まれる。それだけは、してはならないのだと、わかっている。
 本当に強い人だ。それでも、ずっとエレノアの傍にいたトリスタンだからこそ、知っていた。何の不安も恐れも感じていないなど、嘘だということを。
 ご安心ください。あなたが戻るその日まで、この方と、アストレアは私が守ります。彼らは森に入った頃だろうか。私の名はアストレア騎士団長トリスタン。私の使命はアストレアを守ること。トリスタンは口のなかで繰り返した。


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