二、父親

 
 少年には幼い頃の記憶がほとんど残っていない。
 母親がいても父親はなく、そこだけ除けば普通の小童こどもであった。
 その集落で暮らす者たちは家族同然であり、皆が寄り添いながら生きていく、そこではけして裕福な暮らしではなかったけれど、不自由はなかったと少年は記憶している。
 気のいい老爺ろうやがいて、働き者の男人と夫を支える女人はもっと逞しく、小童たちはいつだって伸びやかに、少年はその中の一人であり、ただそれだけだった。
 しかし、それはある日に全部無くなってしまった。失ったという方が正しいのかもしれない。
 そうして、少年は一人になった。
 彼にはどうして自分一人が残ったのかが分からない。ただ、一つだけだけはっきりしていたのは、身寄りもなく他に頼るところを知らない少年には何もないということ。だからそのうちに力尽き、その短い生涯を終える。その筈だったのだ。
 少年に手を差し伸べたのは、彼が見たこともないような綺麗で清潔な衣服を着た男だった。
 こんな小さな集落だけが世界の全てであった少年でも、ずっと遠くにある都のことくらいは知っていた。そこには、この月を治める女帝がいて、彼女を補佐する者達や、或いは護る者達がたくさんいるのだろうと。つまり、男はそこから来たのだ。
 男が少年を見て驚いた顔をしたのは、彼があまりに小汚く、貧しい村の子だったからに違いない。もしくはこんな年端もいかない少年だけが残っていたのを哀れだとも思ったのか。どちらにしても、男が少年を拾ったのはただの気紛れだろう。
 都に連れ行く際に、男は少年に一つだけ約束を課した。忘れなさいと。ただそれを一言だけ放った男に、彼は頷く。ここで否定めいた声をすれば捨てられる、この時から少年は聡明なだったようだ。素直で従順な少年を演じることを覚えて、けれども本来の性格もあって彼は本当にこれまでのことを忘れてしまった。
 そして、少年はこの家の子となり、男は少年の父親となった。
「お呼びでしょうか? 父上」
 声は出来るだけ明るく、そして涼しいものを心掛けた。
「入りなさい」
 御簾みすの向こうからすぐに返ってくる。
 十六夜が足を踏み入れたところで、父親は書物を綴っていた手を止め、顔を上げた。親子は向かい合って座ってはみるものの、艶のある黒髪こそ同じでも顔は似てはいないのは当然だ。けれども邸の者達、舎人とねりや女人などもこの親子に気を遣ってか、本当の親子でなくともそれらしく彼らを扱い、また彼らのことを噂立てるようなこともしない。
 温和な人柄や武芸に優れたところ、または所作が似ているなどと何も知らない者こそは、彼らをそのように称えるのだが、それは所詮他人の言葉だ。
「鍛錬は欠かさず行っているのか?」
「はい。一日でも怠ると、腕が鈍るような気がして」
「そうか。それは精が出るな」
 満足そうに微笑む。父親にとって十六夜は自慢の息子だった。
 勉学にしても、武術にしても、教えられたものをすぐに吸収して自分のものにする。そこで満足する訳でもなく、さらなる高みを目指そうとするのだから、文月フミツキは目に入れても痛くないほど、十六夜のことを可愛がっていた。
 十六夜もまた父親を強く慕っていた。期待に応えることは自身の喜びにも繋がるし、学ぶということも鍛えるということも嫌いではなかった。
 もっとも、文月はそれが不得意であっても叱責したりなどはしない人である。二番目の兄が実にそうだ。何をさせてもこれといった得意なこともなく、出来の方も中よりは下の方。そんな兄でも、父親にとっては我が子には変わりなく、兄弟を差別することをせずに同じように育ててきた。
 十六夜は三人兄弟の末子だ。彼らに母はいなくても、父親の愛情を差別なく受けて育ってきた。その中でも特に、父親は十六夜に対してどこか甘いところがあるように思う。いつからだろうか。それが少し窮屈に感じるようになったのは。
 それきり口を動かさない文月に声を掛けるべきか、十六夜は迷っていた。要件があるから、こうして呼び出したというのにそれを切り出してはこない。それもわざわざ兄の卯月を使って、だ。
 気持ちが外へと出ていたのだろう。父親の視線に気が付き、十六夜は慌てて表情をそれらしく作り変えた。
「お前は成人になった。だから掟には従わなければならない」
 どう返事をしていいのか分からずに、十六夜は二度瞬きをした。
 月人は長寿だがいずれ成人をする。三百歳をこえれば成人とみなされ、若人であろうとも何らかの職に就くのが自然だ。それが掟であれば従わないという選択肢などなく、もちろん十六夜もそのつもりでいたし、その日が来るのを何よりも望んでいた。文月に拾われなければ、十六夜は今ここにはいなかった身である。恩を返すにはこれ以上とない機会だ。
 十六夜はもう少しだけ背筋を伸ばして、父の声を待った。
「選ぶことは出来る。お前がそれを望まなければ、他の道もある」
 どこか様子が変だと思ったのは最初からだった。眉根に張られた皺も、口元の陰りも不自然だと十六夜は感じていた。文月は、その言葉ひとつひとつにしても慎重に探しながら声にしている。
「卯月兄様も、睦月兄様も、お二人は女帝に仕えています。それが身分ある家の子でしたら普通のことでしょう? 私もそうあるべきだと思っています」
 問いかけは確認するように、それが当然だというように。
 けれど、父親の表情にそうした色はない。まるで、この日が来るのを避けていたかのような、そんな目をしている。
 本当の子ではないからだ。
 十六夜は無意識に唇を噛んでいた。感情が外へと伝い漏れていても、抑えきれないのは、悲しさよりも悔しさの方が強い。
 蝋燭の火が燃え尽きる。音と同時に暗闇が訪れ、文月はすぐさま新しい蝋燭に火を灯した。次第に部屋が明るくなるのを見て、十六夜は心の中で零した。何故、自分の力を必要としないのかと。
 この家で呪術じゅじゅつを使えるのは十六夜と兄の卯月だけだ。父にその力はなかったが、呪術を使用すれば様々なことが可能になる。例えば、こうした火を灯せるだけでなく他者へと力を流せば治癒することも出来るし、その他にも暮らしには欠かせないものだ。この力があるからこそ、月の都が成り立っているといってもいいほどである。故に、力のある者は女帝に近しい者として、存在を認められている。これは別段稀有なことではない。
 しかし、父親はそういったものをどこか遠ざけている傾向があった。好まないのだろう。自分が嫌悪にされている訳でなくても、その力を持つ者にしてみれば寂しいと十六夜はそう思う。
「そうか。それならば、私はもう何もいうまい」
 文月は言った。父の前で難しい顔をしているのが嫌だったので十六夜は笑って見せた。それに安心したのか、文月の表情が少しだけ緩む。
「あるべき地位を授けたいと思うのは、少しばかり親馬鹿が過ぎたかもしれないな。だが、月華門ゲッカモンに推薦をしておいた」
「月華門に? しかし、それでは」
 言い掛けて十六夜は止めた。
 絶対的な力を用いて月の都を支配している女帝の次には長老役の月影、政治を仕切る月卿雲客ゲッケイウンカク。その次には指導役として月華門、隊長の月琴ツキコト、一般兵士の月草ツキクサ。この六つの位によって月の都の安定は保たれているのだ。
 父の子になってから十六夜は不自由な生活をしたことはない。身分ある家の子はそれ相応の役職を授けられるが、それはいずれはという話。長男である卯月と同じ月華門にというのは、あまりに話が突飛過ぎる。しかも、次兄である睦月はまだ月草だというのに。
 親馬鹿が過ぎるにしても、本人を目の前にしていうことでもない。他の兄弟にも角が立つだろう。兄に遠慮する訳ではなかったが、急に居心地が悪くなって十六夜は無意識に息を止めていた。
「それが、お前には相応しいと思ったからだ」
 躊躇いもなければ否定もさせないような声だった。
 期待をされ過ぎているというのは、ある意味苦痛でもある。その気持ちには応えたいし、裏切りたくはない。だから悟られてはいけない。十六夜は父親の目を真っ直ぐに見ていた。
「だがな、それには実力を示さなければならない。だから次の剣舞の会に出てもらう」 
 十六夜は性格上嫌とは言えなかった。気乗りはしない単語が出てきたものの、ひとまずは忘れることする。何よりもこれ以上父の意に背くことはしたくなかったのだ。
「分かりました」
 色気のない返答にも文月は笑んでいた。隠していたつもりでも、十六夜が内心ほっとしていたことはお見通しだったようだ。父の部屋を後にして、歩きながら胃の辺りが重く感じた。上手く説明の出来ない気持ちを晴らすためにまた弓を鳴らしに行くべきか。
 逃げているみたいだと、十六夜は苦笑する。
 行く場所なんて他にはない。けっきょく、与えられた場所だけで生きるしかないのだ。
 

                              

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