三、姫君

「はじめまして。志月シヅキと申します」
 男は恭しく頭を下げた。声音こそは穏やかに聞こえるものの、目は笑ってはいない。作り笑顔であると、十六夜はすぐに悟った。
 待ち望んでいたその日の最初はそこからだった。
 いわば温室育ちであるために世間知らず、何か障りがあっては困るだろうと、過保護な父親の姿が目に浮かぶ。果たしてそれだけの理由なのかと、考えたところで止めた。妙に勘ぐるのは十六夜の悪い癖の一つであった。
 しかし、ただでさえ十六夜は目立っている。いくら家柄が良くともいきなり月華門ゲッカモンの職に就いたものだから、周囲の者はそれは面白くないだろう。その上、付き人までとなれば妬心としんや反感を買うのは目に見えているというのに、あの慎重な父親が情だけでそうしたとは思えず、十六夜はもうそれだけで憂鬱になった。
 信用。否、信頼というべきか。
 それが過度な期待となって、十六夜の肩に重く伸し掛かっている。こんなにも窮屈な思いをはじめからするとは思わなかった。十六夜は自嘲にも似た笑みをする。
 とはいえ、せっかくの好意を無下にするのは父親の顔を潰すことになるし、世に不慣れであることは事実でもある。頼れる者が出来たと前向きに捉えるべきだと、十六夜は抱いた疑心をすぐに消した。
 そして、十六夜の宮仕えが始まった。
 宮殿内は想像以上に広く、そこに仕える月人の数も異常なほどに多い。舎人とねりや女房だけに留まらず、下級兵士の月草にその上役である月琴など、皆が十六夜の前で膝を折るものだから、十六夜はどう反応すればいいのか分からなかった。
 ただひたすらに堂々としているだけでいいと、志月は言う。
 けれども十六夜にはそれが難しい。彼らの目には何れも興味と関心、或いは嫉みにも似た色が見えるのだ。それは月華門にしても同じく、慇懃無礼いんぎんぶれいな物言いは却って気持ちが悪いもので、十六夜は彼らとの距離をはかりかねていた。
 志月は助言こそはしてくれるものの、表立っての手助けはしてくれない。だから十六夜が慣れてゆくしかないし、己で切り開いていくしかないのだ。
 宮廷内につきものである新参者をいびるという行為などは幸いされなかったのだが(正確にいえば月華門はそこまでの暇はない)、十六夜はまず自分に関わる者達の名を覚えることから、そして次には彼らの性格を把握するのに努めた。
 過度な追従ついしょうは逆効果となれば、そもそもがそういったことを苦手とする十六夜は己の心を殺す。そうして少しずつ彼らの中に入り込むしかなかった。あまり褒められたやり方ではなかったが、ここはそういう場所であると割り切る他はなく、またこういうことに関しては志月はなかなかに上手かった。
「もう少し、世渡りが上手な方が長生きは出来ますよ」
 つまりは、もっと汚れてしまえと言いたいのだろう。
 それが出来れば苦労はしない。言い返してやりたいところを十六夜はぐっと堪える。
 そうした苦難の日々もまたけして無駄ではなかった。月華門としての役目は多い。月琴や月草などの指導はもとより、彼らの見本となって行動しなければならないため何かと気を遣うが、さりとて十六夜は武芸にも勉学にも秀でている。もともとが貪欲であり怠惰を知らない性格が故に、これまで繰り返してきた鍛錬はこういう時にこそ役に立つ。
 良家の坊ちゃんだと侮っていた者達は次々に十六夜に薙ぎ倒され、ある者は負けじと向かって来たり、またある者はそこから十六夜には畏敬の意を示すようになる。十六夜がこれまでに培ってきた知識にしても、彼らの指導には役に立つもので、それは彼らの反発心を敬意へと変えていくには然程さほどの時間は掛からなかった。
 こうなると、他の月華門も十六夜を認めざるを得なくなる。否、そこまで底意地の悪い者こそ僅かなもので、十六夜は自らの才能、または努力と実力で自身の居場所を見事に作ったのだった。
 だが、これで終わりというわけではない。
「剣舞の会さえ終われば、事はすんなり進みますよ。もう少しの辛抱です」
 十六夜の気鬱を見抜いたかのように志月は言う。
 そう、まだ剣舞の会が残っているのだ。そこではじめて十六夜は本当の意味で月華門として認められることになる。
 書物庫で調べ物をしていた十六夜は肩で息を吐いた。このところは文机ふづくえに向き合う時間が多かったので鍛錬もおざなりになってしまっている。まさか腕が鈍ることはないかもしれないが、貴人たちが集まる会にて無様な姿を見せるわけにはいかない。何しろ、そこには当然父親も来るのだ。
 必要なだけの巻物はしたためたものの、もとが探究心が強い十六夜であるから、あまりは好きに書物を読む時間として使っていた。志月にしても騒がしい場所よりもこうした静かなところを好むらしく、彼は彼で自分の時間として使っていたようだが、流石に釘を刺されてしまった。
 忠告は素直に受け取り、十六夜は邸へと戻ることにする。
 剣舞の会は二日後だ。このために雑務は全て終えてきたし、その間を鍛錬に使うつもりだ。
 この日の十六夜は珍しく考えことをしながら歩を進めていた。そのために志月の声も耳には届かず、また周りを見る余裕もなかったのか、それには全く気が付いていなかった。
「お待ちください、姫様!」
 甲高い娘の声が響いた。ほぼ同時に足音も一緒に。
 小童こどもの足でもなかなかにすばしっこく、だから十六夜はその姿を捉えてもとっさに受け身を取ることが出来なかった。
 派手な音を立てて、小童は尻餅をつく。
 しかし、痛みよりも驚きの方が優っていたのか、小童は十六夜を見るなり 二度瞬きをした。
「ひめさまっ! 大事ありませんか?」
 女人は慌てて小童の身体を抱き起こし、何でもないように小童はそれに頷いてみせた。そこではじめて十六夜はそれが誰であるのかを理解する。
「こ、これは失礼致しました。無礼をお赦しください」
 志月共々頭を板床に擦り付ける勢いで十六夜は謝罪する。
「いいえ、顔を上げてください。十六夜殿」
 女人は苦笑交じりに言い、その腕の中で姫君はもがくようにして十六夜を見つめていた。たしかによく見てみれば、そこらの貴人よりももっと上質な召し物に身を包んではいるが、顔はまだ本当に小童そのものだ。
「いざよい?」
 姫君の問いに十六夜は薄く笑む。
「はい。私は月華門として宮仕えしております十六夜と申します。夕映ユエ姫様。どうぞ、お見知りおきを……」
 言い終わらないうちに姫君は女人の腕から飛び出していた。そして、十六夜の眸をまじまじと見る。
 この青の眸は珍しいのかもしれない。十六夜は姫君に微笑みかけながらもそう思った。月の都では黒髪が一番多く十六夜や志月もそれであり、この姫君もまた同じく、向かいにいる女人の髪は赤毛ではあるものそれほど稀有なものではない。ただ、十六夜の持つ青の眸はここで一人だけ。他にはいなかった。
 けれど、それでいえば姫君の黄金きんの眸もそうだろう。この色を持つのは女帝の一族のみである。
「それで……、十六夜殿はここへどのようなご用件でしょう?」
 女人は言う。十六夜が足を踏み入れていたのは西殿と北殿との間で、西殿には立ち入ることは許されてはいても後者はそうではなかった。咎められても言い訳は出来ない。女人の表情にいささか不審な色があるのはそのためだ。
「申し訳ございません。下弦殿。我が主はまだ宮殿に慣れてはおらず、加えて疲労が重なったがために誤ってこちらに来てしまったのです」
 助け舟を出してくれたのは志月だ。そこに嘘偽りはないために、声もより涼しげに聞こえる。
 下弦という名の女人はただの女房ではなく、姫君の近習きんじゅうである。どういうことか十六夜のことを知っていたようだが、しかしそれであっても不審な動きをする者を見過ごせなかったのかもしれない。
 やがて無聊ぶりょうした夕映姫が一人でに歩き始めた。目が離せないとばかりに下弦は挨拶もそこそこに後を追って行き、十六夜は暫く消えた二人の背を見つめていた。
「あれが次の女帝ですか。心許ないですね」
 溜息交じりに落とされた志月の言葉に、十六夜は肩の力をやっと抜く。
「まだ小童だよ。あのくらいの無邪気な方が自然だと思うけど」
「そうですか。呑気なことですね」
 貴人が去ってしまえばそれまでの立ち居振る舞いが嘘のようになる。もとがこちらの性質たちであるのはこの短い期間で見てきたが、ここまであからさまだと苦笑するしかなくなる。そんな十六夜に志月は更なる声を紡ぐ。
「まぁ、所詮はお飾りの存在です。どうあろうと関係なく」
「……ここは北殿に近い。月卿雲客ゲッケイウンカク殿の耳に入れば厄介なことになるよ」
「あぁ、すみません。口が過ぎましたね。忘れてください」
 これではいつもと逆だ。妙に調子が狂うと十六夜は感じつつも、それ以上は諌めなかった。
 それに志月の揶揄はそれ以上の他意はない筈だ。月の都を治める女帝は絶対的な権力者であり、なくてはならない存在だ。
 それを否定するというのならば、そこに仕える自身らも皆を否定すると同じ、いま守られている安寧秩序が乱れることなど十六夜は願っていない。

                              

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