ふと、誰かに呼ばれたような気がして、彼は顔を上げた。
階下からは女達の
姦しい声と、化粧や香のにおいがする。そろそろ店に客が入る頃で、女達はその身支度に忙しくしているのだろう。
彼の
処にも、もう小一時間もせぬうちにその中の一人が戸を叩き、彼の方も気が向けば相手をしてやる、それが日常であった。適当にあしらわれたところで女達は不満を漏らさず、むしろ彼に気に入られようと必死である。ここでは女達が買われる身であるというのに、あろうことかその女達がこぞって彼を買おうとする始末だ。
何しろ、彼の
造作は
殊に美しい。男であると判別が出来るのは
射干玉の黒髪が短く刈られているために。その黒髪も火事で焼けたと言えば女達は「勿体ない」と口を揃えて言うのだ。最も、彼にはそれ以前の記憶というものがないので、微笑するしかないのだけれど。
彼には記憶の他にもないものがたくさんあった。
その一つは親であり兄弟であり、または生まれ故郷や身分といったものもなければ、名すら持たなかった。それは失ったのかもしれないし、或いは捨てたといった方が正しいのかもしれない。然れども、彼は悲観することをしなかった。彼には"もう一人"がいたからだ。
彼がその者を同じであると認めたのは眸の色がよく似ているためだろう。その蒼の眸は、このあたりの人間には見られない色だった。それから、また一人が――。
あぁ、そろそろ来る頃だろう。
ひたひたと、裸足で遠慮なしに歩くものだから、戸を叩かずとももうそこにいることが分かった。
「おいで」と、彼が声を落とせば、ふた呼吸の後に入ってきたのは年端もいかない少女だった。およそ、このような処に似つかわしくないような。
おずおずと彼の側まで寄ってきた少女は、しかし視線を彼のすぐ隣へと移した。
「また、おつきさま、描いていたの?」
少女はそのうちの一つを手に取った。彼が描くのはいずれもまあるい月ばかりで同じに見えるものの、彼に言わせれば、その一枚一枚が違うらしい。それから、そこここに散らばっている中には女達の
素描が少しだけ、彼が女達にせがまれて気紛れに描いたものの一つだった。
「そうだよ。今宵は満月だから」
この部屋からはちょうどよく見える。すると、少女が彼の名を呼んだ。それは彼にとって馴染みのないもので、然れどもうそれが彼の名であった。
その出会いは偶然に、しかし少女は彼を拾った。否、彼が少女を拾ったのか。いずれにしても、彼が本当の意味でひとりになることはなかった。
少女は彼の手を自分の元へと引き寄せる。彼よりもずっとちいさな手はあたたかく、それから一度抱きついてしまえば気が済むまで離れない。さながら猫のように、それも別段嫌な気はしないので、彼はいつも少女が望むままにしている。彼と違って、この少女は孤独というものを酷く怖れていた。
「ねえ、おはなしを、きかせて?」
そうして、ちいさな少女はいつものように彼におねだりをするのだ。
「あぁ、いいよ。今日はどこからを話そうか」
天には雲はなく、月を邪魔するものは何もない。それも束の間の、
一時であろう。明日になれば、またあの月も姿を変えるのだ。
彼は、月明かりの下でひとつの物語を紡ぐ。それが彼の過去であり、失ってしまった記憶であることを知らずに。
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月に叢雲、花に風
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