都大路を左へと曲がり、しばらく真っ直ぐに進んで、それから今度は右へと曲がる。
慣れた道程であるからその足はゆっくりと進む。別段急ぐものでもないし、辺りを見回す余裕は幾らでもある。ただ見たところで変わったところも一つもないのが残念ではあるが。
と、その時見覚えのある後ろ姿が目に入った。朔耶はそこまで追いついてから声を掛ける。
「重そうだな。手伝おうか?」
女童は突然の声に少し驚いた顔を見せたが、こちらを見るなり破顔した。
「朔耶さん! お久しぶりですね」
確かにそうだ。最後に会ったのがいつだったのか思い出せないくらいに久しぶりだった。
同じ笑みを返したというのに女童はじいっと朔耶の顔を見つめていた。朔耶はきょとんとする。
「もしかして、また私の名前を忘れてません?」
「覚えてるよ。
玉輪だろ?」
「当たりです!」
良かったと玉輪は続ける。
顔と名が一致しない者にわざわざ声を掛けるかよ、と言いたいところを、あんまりにも嬉しそうなので朔耶は声を引っ込めた。代わりに別のことを問いかける。
「ところで、何処に向かってるんだ?」
朔耶の視線は玉輪が大事そうに抱えている大きな風呂敷だ。
「差し入れです。みんな頑張っているから。私にも出来ることないかなって」
なるほど。朔耶は納得する。
先程から何やら良いにおいがするのもこの風呂敷からだったのだ。
「なら、俺も手伝うよ」
「いいですよ。お気持ちはありがたいですけど、そんなに重くはありませんから」
善意の申し出をすげなく断られて朔耶は肩を竦める。別に横取りしようとも御裾分けを期待したわけでもなかった。
「それに、また誤解されちゃいますよ?」
ぼそっと玉輪が言うから、朔耶は固まった。それは困る。やましいことでもないのに、妙な誤解をされるのは勘弁だ。
それでなくとも早とちりをするのだ。弁解すればするほどに信憑性がなくなり、そうするうちにいつの間にか周りにも広がっていくのだ。あれは、酷い目にあった。しかも何一つとして悪くはないのに。
「わたしはそれでもいいですけど」
どの口が言うか。思い切り言ってやりたくもなった。
噂話はとうとう玉輪本人にも届いて、しかし玉輪はものの見事に否定したのだ。ただのお友達ですよ、と。
朔耶が反論しないので、玉輪は悪戯っぽく笑っていた。参りましたと早々に白旗を上げるのが正解だろう。
「でも、なんだか変わった気がします」
「変わったって?」
「月の都も、月人も、みんなです」
朔耶と擦れ違っていく月人も、小童達がそこらで遊んでいる姿も、物売り達の元気の良い声も、以前とは変わってはいない。だけど、それぞれに変化は起きている。
玉輪が向かうのは宮殿があった場所だ。今は建物などない。あの日、あの光が全てを飲みこんだときに、朔耶は恐怖したことを今でも覚えている。建物は全て崩壊してしまい、後に残されたのは瓦礫の山だったけれど、何もかもが無くなってしまったわけではなかった。
ただ、どこをどう探しても、彼らを見つけることは出来なかった。
「以前の都が悪かったとは思わないんです。良い暮らしだったし、守られてもいた。でも、それよりも今は……」
「分かるよ。言いたいこと」
この都にもう月の女帝はいない。月影もいなければ、月卿雲客など主だったものもいない。混乱を極めるかと思われたが、残された者たちで助け合っていくうちに、都では新たな道を見出そうとしていた。
一度壊れたものを元通りにするのは容易なことではない。それが本当に良かったものだったのか。それが本当に正しいものだったのか。それが本当に必要だったのか。疑問を投じてみるも答えはおそらく見つからない。つまり、それだけのものだったということだ。
だからきっと、元通りにはならなくても、変えていくことが出来るのなら。
「それならそれでいいさ。きっと上手くいくさ」
ここにはもう身分の差もない。押さえ付けるものもいない。突然の自由に戸惑うもいるのも事実。導いてくれる者はいないから、自分たちで考えるしかない。
「大丈夫ですよ。私、お友達になっちゃいました」
お姫様と友達だなんて肝が据わっているというのが朔耶の正直な感想だ。せめて面には出さないようにする。
それに、彼女はもう姫君ではない。ひとりの月人だ。その人を支えるのは義務とか忠誠心を除いた、ごく当たり前の感情なのだろう。玉輪も触発された一人だった。
道が二手になったところで朔耶は玉輪と別れた。軽快な足取りで行く玉輪を見送って、朔耶は矢張り引き返すことにした。道草を食っているわけではないが、あまりに遅いと後で五月蠅く言われてしまう。
朔耶の住むあばら屋は前と比べたら部屋が二つほど増えている。が、やはり他の者が見れば狭いと言うだろう。
贅沢な暮らしは別に望まない。三人がここにいればそれでいい。だから、特に文句も出なかった。本当は戸惑っただろうに、朔耶の前ではけして見せないところが憎たらしいのだ。
ただいまと、朔耶は言う。返事は返ってはこなかった。燭台に火を灯して、それから耳を澄ましてみても、穏やかな寝息しか聞こえてはこなかった。どうやら出掛けているようだ。
狩衣を着替えようとして、戸を叩く音が聞こえた。どんと、叩くのは一度だけ。こういう叩き方をするのは一人しかいない。
「具合はどうだ?」
「変わらないよ。目を覚まさないまま」
このやり取りも何度目かだ。
母親はずっと目を覚まさない。本当に眠っているだけだ。呼吸が乱れることも、苦しそうにすることもなく、ただただ眠り続けている。男はしばらく母親の顔を見ていたが、やがて朔耶の隣へと腰を下ろした。
「調べてはみたが、月鬼はもう何処にもいない。それから呪術を使える者もいなくなった。そのもの自体がなくなったのだから、それは想定内ではあったが」
方舟という存在が無くなったことで、それらが消えてしまったのか。答えは明白だ。
「困難となるのはこれからだな。それに頼り切って生きて来たのだから、ツケが回ってくる」
沸いて出る水はいずれ止まり、作物も自然に育たなくなる。
「ああ。やることはたくさんだ」
退屈はしないだろうなと男が笑うから、朔耶もまた笑った。実際、困るのは都の中だけで、元々女帝の加護、即ち方舟の影響下になかった外のせかいでは、それをずっと前からしてきたのだ。
「先頭に立っているのはお姫さんか?」
「先頭というか、まぁ、間違ってはないけど。でも彼女、前とは変わったよ」
「そうか」
率先して瓦礫の片付けをし、それからまだ傷の癒えぬ者には付き添う。身体の傷だけではなく、心にも傷を負ったものはいる。月鬼がいなくなっても方舟がなくなっても、それでもこの先の不安はつきないのだろう。
「生きていれば、どうにでもなる」
慰めにしては下手な言葉だ。それも素直に受け取ることにする。
「ありがとう」
するりと出て来たのも、きっと時が過ぎたからだ。
男は無精髭をしきりに擦っている。そういう癖なのだろう。気が付くといつもこの仕草をしている。
「仲直りはしたみたいだな」
「仲直りって、なんだよ」
「そのままの意味だ」
朔耶はわざと大きめの息を吐く。ここには度々顔を出すものだから、ありとあらゆることを知っているのだろうか。
「弟、だからな。最初から」
観念して朔耶は言った。満足そうに笑うのが面白くはない。なんだか身体が痒くなってくる。朔耶は気まずさから逃げるように頭を掻いた。
「しかし、何かと不便するだろう?」
男は問う。母親のことを言っているのだろう。
「ああ、それは。皐月が来てくれるから」
「へぇ……。皐月がね」
やっぱり面白くはない。
こんな意地の悪い物言いをする人だったかと、朔耶は記憶を探るが、それよりも反撃に出ることにする。
「心配だったらあんたの方だ。あんなに大袈裟に倒れたくせに」
「またそれか。案外根に持つ奴だな。いや、芳春もそういうところはあったな」
上手く話題を逸らすつもりでもそうはいかない。
「そう睨むな。私も駄目かと思った。どうやら私は悪運が強かったらしい」
今、ここで笑っているのが不思議なくらいだ。とても助かるような傷ではなかった。大簇は言った。助けられたのだと。そんな芸当が出来るのは一人しかいない。
「ところで、弟はまたいないのか?」
問われて朔耶の目が泳ぐ。擦れ違いはこれが三度目。
「あ、あぁ。どうも、苦手みたいなんだよ。あんたのこと」
あからさまに不満の顔をされても知ったことではない。当人に言ってほしい。心の中で愚痴ったところで仕方ないのだが。
「全く。お前達は悪いところばかり父親に似る」
大簇の愚痴に朔耶は苦笑いで返した。
慣れ親しんだ声が後ろから聞こえて、朔耶はしばし振り返るのを躊躇った。
「なにも黙って行くことないんじゃない? あんたらしいといえばそうだけど」
どこか恨みがましくも言われてしまうと返すしかなくなる。そこには膨れ面が待っていた。
「いや、別にそんな大袈裟な事じゃない。ちょっと会いに行って来るだけだし」
「だったら、そんなこそこそ出て行く必要ないでしょ」
「こそこそはしてない」
「なによ。あんたいっつも言い訳ばっかり」
こうなるのが分かっていたから敢えて言わなかったというのに。それに告げたとしても、一緒に行くと言いかねないから厄介だ。朔耶は心の中で溜息を落とす。早く話題を逸らした方が良さそうだ。
「お前さ、そっちの方が似合ってるよ」
「なんのはなしよ」
皐月はまだ怒っているので声が刺々しい。朔耶は少し苦笑いする。
「忍び装束よりも、その袿の方が。一応は、そう見えるし」
「どういう意味よ! しかもそれ、褒めてるの? 貶してるの?」
「どっちも、かな?」
「余計なお世話よ!」
これはいつものやり取りだ。二人の声が大きいのに、道行く人は別に視線を寄越したりはしない。ただの痴話喧嘩みたいに見えているのだろう。
しかし、半分は本当だ。薄紅色の袿は皐月に良く似合っている。もう少し良い言い方をすれば喜びそうなものを、女性が喜ぶような言葉使いを朔耶は知らない。
歩みを止めない朔耶の後ろを皐月は少し距離を空けてついて来る。本当は、言いたいことは別にあるのだろう。皐月がそれ以上言わないから、朔耶も何も言わなかった。そうして、道なりに進んで橋を渡って。顔を出して行こうかと思ったけれど、今生の別れでもないし、それは止めた。誰かが言った言葉だ。
「よろしく伝えといてよね」
やっと皐月が口を開いた。朔耶は黙って頷く。
時間が必要だと思った。失ったものは大きい。癒えるまで、時が解決してくれるならそれに任せようと。
それは朔耶自身にも言えることだった。だから少しだけ離れてみて、時間を置いて一人で考えてみたいのだ。彼に会いに行くというのは嘘ではないけれど、口実ではあった。
心配性の彼のことだから、事実を有りのままに伝えるのは少し戸惑いもある。悲しむだろうか。悔やむだろうか。責められるだろうか。いや、きっとそれのどれでもないと思う。隠したままにはしたくないから、会いに行く。
「ありがとう」
小さい声だったから届いてないようだ。皐月は目を瞬いている。なんだか気恥ずかしい。こういうことも話してみたら、きっと説教みたいにされるだろうなと思う。
朔耶と皐月の足が同時に止まる。待っていたのは上弦に下弦に。珍しくもない顔ぶれだ。
「朔耶殿。寂しくなります……」
うつむきがちに声を落としたのは上弦。目が潤んでいるように見えたので朔耶はぎょっとする。
「兄上。大袈裟ですよ」
窘めたのは下弦。全くもってその通りだ。
「でも、たしかにそうですわね。なるべく早くに戻って来てくださいね。みんな寂しがってますから」
その隣でくすくすと笑う。蘇芳色の綺麗な袿はそこらの女人が着ているものと変わりない。けれど、言葉使いはどうにもすぐには変わらないらしい。
「そうします。ひめさま、えっと……」
「好きに呼んでくださいな。あなたともお友達になりたいわ」
「は、はい。そうですね」
朔耶は曖昧な返事をする。女童のように笑うところが可愛らしい。
「彼らが見たら驚くかもしれませんね。でも、そのままにありたいのです。いつか、帰ってきた時に、誇れるように。淡い希望だとしても……」
愛した人のことを想っているのか、声が悲しく聞こえる。無理をしているのかもしれない。この人は素直な人だから。
「大丈夫だよ。嘘をつけない人だから」
慰めの言葉ではなかった。自分のためにも言っている。だから朔耶は言葉を継いだ。
「約束、したんだろ? だったら、信じて待てばいい。約束ってのはそういうものだから」
綺麗事を言ったつもりではないのに、じろっと睨まれてしまった。如月がどこか不機嫌なのはそのせいじゃない。憎まれ口を叩いていても結局見送りに来てくれるのだから、可愛いところもあるなと思っていただけに、扱いには困る。
「あんたも、さっさと帰ってこないと許さないから」
風当たりの強いこと。ここは早々に折れた方が良さそうだ。
「分かってる。それまで、母さんのことを頼む」
「あんたに言われるまでもない」
ついには皐月が噴き出した。似た者同士だと揶揄するのに対して、二人同時に否定するものだから、その場はしばらく笑いに包まれた。
なかなかこれには骨が折れるし、もう少し時間も掛かりそうだ。とはいえ、これでも大分近づいた方で、口論の回数が多いほど仲良くなった証。それに気が付いたのは最近ではあるが。
「ところで、望は来てないのか?」
しばしの別れだとはいえ、友が旅立つのに姿を現さないなんて薄情な奴だ。朔耶は思い切り不満を面に出す。その後ろからだった。
「ここにいるが?」
「っと、驚かせるなよ!」
ぬうっと現れたものだから朔耶は思わず下がる。意地悪そうな笑みに少しばかりかちんときた。
「その間抜け面は見ていて飽きないな。お前といると退屈しない」
これで喧嘩を売っているつもりではないところが望月らしい。言い返したところで勝ち目も薄いから朔耶は押し黙るしかなかった。
忍び笑いはすぐに伝染する。二度目の笑い声が聞こえて、朔耶も思わず笑っていた。そして、思う。みんな笑うことが出来るし、ちゃんと自分の足で立って、歩くことが出来るのだ。
そう。だから、心配することはないんだ、と。
朔耶はここにはいない人に向けて呟いた。
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