猛る炎を思わせる赤に、明るい橙の色に黄色へと続き、安らぎを与える緑、青、心を落ち着かせるのは藍の色。最後に魅惑的な紫へと変わる。
 その七色の光は朔耶を誘う。巨大な球体がそこへと浮かび、それが何で出来ているのかなど朔耶には分からなかった。ただ、あれは、危険だということ。それだけは理解出来る。
「方舟……」
 自然と朔耶の口からは零れ落ちていた。
 知らずのうちに呼吸が浅くなり、肌は粟立っている。鈍器で殴られているような頭の痛みがすれば、耳鳴りは止まない。あれが、呼んでいたのだ。すべてが一つに繋がろうとしていた。
 朔耶の前には二人がいる。どちらも見覚えのある顔だった。
 目と目が合えば、身体が熱くなった。これは怒り。ずっと押し隠してきた感情だ。
 男は顔色一つ変えることなく、こちらを見据えている。
 会ったのは一度きり。だから大した印象は残ってはいない。眸の色に覚えがあっただけだ。それだけの関わりしかない人が、自分へと繋がっているなど思ってもいなかった。
 そして、もう一人は。記憶の中にあるその人を思い出そうとしても、結びつかないのは、ここにいるはずのない人だったからだ。
 朔耶は前へと進む。迷っていた言葉は幾つもあるが、その中で最も納得のいかなかったものを選ぶ。
「なんで、こんなことをする? あんた達は、何が目的だ?」
 月読の目的は粛清。全てを無に帰すこと。鍵となるのは方舟。それから、二つの星の子の生き残り。そんな単語を並べられたところで理解など出来ない。
「復讐だ」
 至極当然だと、言い放たれた声は、朔耶の胸を衝いた。
「お前もそうではなかったのか?」
 図星だった。朔耶はこの場にいる半分はそれだから。
 結局、捨て切れなかったのだ。刀に伸ばそうとした手が震える。このまま飛び掛かれば、止めるだろうか? 後ろには望月がいて皐月がいる。
「芳春は邪魔をした。だから死んだ」
 知っている。けれど、知りたいのはそれじゃない。
「私が殺した」
 爽麻の声には何の色もない。
 どれだけ強く睨み付けても蒼の眸は冷たいものを宿したまま、朔耶に向ける視線も、そこに落ちているものを見るようだった。
 これはいわば挑発だ。怒りに任せて爽麻を斬ることなど簡単なことだ。それなのに何故身体は動かないのか。
 見たいのは真実だ。助けたい人がいる。取り戻したいものがある。
 酷い眩暈がして朔耶は吐き気を堪えていた。葛藤を続けていたところで、何一つ答えは出ないだろう。
 狩衣を引く手にそこで気が付いた。皐月だ。振り返らなくても分かるから、朔耶はそれをしない。逃げないでと言っている。いつもみたいに背中を強く叩いてくれればいいのにと、思う。
 知らずのうちに朔耶は笑んでいた。大丈夫だと自身にも言い聞かす。
「嘘だ。あんた、嘘を言っているな」
 はじめて表情が動いた。どうやら外れではなかったようだ。
「何故、そう思う? でなければ、何故お前は一人になった」
 爽麻は意外そうな顔をする。
 確かに、奪われた。同じように奪ってやりたかった。今更それを偽らない。けれど――。
「なにを、言っているの?」
 割り込んだのはもう一人の声だった。
 同時に反応する。しかし、その人の目は朔耶も爽麻も映してはいない。先程まで、あの奇怪な球体に向けて声を発していた。聞き取れないほどの小声で綴っているのは呪文。突然にそれが途切れた。
「あの人は生きているのよ?」
 戸惑いの中には苛立ちが入っている。女人は爽麻に詰め寄るように続けた。
「そう。そうよ。芳春は生きているの。なのにどうして? ここにはいないの?」
「弥生」
「ねぇ、爽麻。答えて? どうして、私を一人にするの? どうして私からあの人を奪うの? 私の子ども達は何処?」
「あれは、もういない。芳春は死んだ」
 そうして、爽麻は同じ言葉を繰り返す。私が殺したのだと言う。
「うそ、よ」
 美しい顔が歪んでいく。長い黒髪を振り乱して、泣く。聞き分けのない小童のように。聞き取れない声は悲鳴のようだった。
 朔耶は固まったままだった。壊れてしまっているのだ。月鬼に心を囚われた時のように。否、それよりももっと、邪悪な存在に。それがあの方舟で、そしてその人は自分を見失ってしまっている。
「そうよ。全部、壊せばいいのよ。そのために月読はいる。何も無くなって、みんな死んでしまえばいいのよ!」
 弥生は笑う。半狂乱になって呪いの言葉を吐いた。
 朔耶はただ悲しかった。あぁ、これは自分だと思った。過去に囚われたままの自分だ。
 失ったものを取り戻そうと必死に縋って、追い求めて。そうして今あるものから目を逸らして。大事なものはすぐそこにあったというのに。どうして、こんなにも人は脆いのだろう。こんなにも彷徨ってしまうのだろう。この人は取り残されている。独りで、ずっと闇の中に堕ちたままだ。
「そうしたらきっと、きっとまたあの人に会えるわ。それがあの人の望み――」
「やめろ!」
 耐え切れなくなって朔耶は叫んでいた。
「もうやめろ。こんなことはやめろ」
 朔耶は弥生の肩を掴む。しっかりと目を見て、ここにいるのだと、分からせるために。
「いないんだ、もう。どこにもいない。死んだんだよ。もう帰ってはこない」
 受け止められなかったのは朔耶だ。怒りに変えて自分を保っていた。
 本当はずっと前から分かっていたのに、気が付かない振りをしていた。そこから目を背けて逃げて、逃げてきたんだ。その先にあったものなど、何の意味など持たなかったのに。
 まだ、間に合うというのなら、後悔はしたくなかった。
「だから……、頼むよ、母さん……」  
 朔耶は泣いていた。悲しくて苦しかった。母親はこんなにも孤独だったというのに。復讐に固執するばかりで他を見ようとはしなかった。
 大簇の言った通りだ。もっと、早く気が付けばよかったのだ。悔やんでも悔やみ切れない想いが朔耶の頬を伝っていく。
 母親はどうしたらいいのか分からずに、怪訝そうに見る。そして、
「さく、や?」
 ぽつりと弥生は零した。朔耶は首を縦に振る。
 光を失った母親は確かめるように、朔耶に触れた。髪に、頬に、それから手を重ねた。幼い頃の記憶が蘇る。子守唄を謳う母親の声は今も同じだ。この温かで優しい手も変わらない。
 ところが、その手は離れてしまった。弥生の足が下がっていく。追いかけようとした朔耶に無情なる一言は下りた。
「いいえ、違う。あなたはだあれ?」
 幼子の声だった。拒絶されて、伸ばし掛けた朔耶の手は空を掴み、ゆっくりと下ろされた。
 この人には届かないのだ。母親にはどんな言葉も、きっと。
 弥生はもう朔耶を見ようとはしなかった。おぼつかない足で、たゆとう光の塊へと近づいて行く。
「よせ。それには触れるな」
 すんでのところで爽麻が腕を掴んだが、弥生は激しく喚きながら暴れた。理解出来ない言葉を叫び続ける弥生の背中から黒い影が見える。
 月鬼だ。何て醜悪で、何て悍ましい色をしているのだろう。弥生はもがきながら光り輝くものを掴もうとする。爽麻の静止も耳には届いていない。刹那、彼女の指先がそれに触れた。
 衝撃波とともに弥生の身体は吹き飛ばされる。地へと叩きつけられる寸前で朔耶は母親の身体を受け取った。弥生はぐたりとその身を預けて、朔耶の呼びかけにも応じない。痩せたその手を握りしめても同じだけの力は返ってはこなかった。
「落ち着け。弱いが脈はある。まだ、大丈夫だ」
 絶望するのは早い。望月は言う。
 朔耶は方舟を見る。眩い光を放っていたかと思えば、漆黒の闇の色へと変わり、それは月鬼を作り出す。その前に立っているのは爽麻だ。結界を張り、そこから逃がさぬようにとしていても、とても一人では持たない。今、朔耶の中で勝っているのは恐怖だ。そして、知る。あれが全ての元凶なのだと。
「まったく、見ていられないね」
 静かな声が下りる。真っ先に反応したのは皐月だった。
「十六夜様……?」
 呼びかけに彼はにこりと微笑んだ。そう、いつものような笑みをする。何でもないことのように、そういう表情をしている。
「方舟を制御出来るとしたら、今はもう月読だけだ。でも、こうなってしまったら、どうしようもないね」
 十六夜は皐月を見て望月を見て、朔耶を見て、それからその腕の中にいる弥生を見た。
「その女人は月読ではない。ただの夢見。私達とは違う」
 憐れむようにも聞こえる。実際そうなのだろう。笑みの中に同情めいた色が孕む。
「けれど、彼女には声が聞こえていた。方舟からの声だ。強い呪力を持つ者はそれだけ方舟からの干渉を受ける。だから彼女は壊れてしまった。だから愛する者を失ってしまった」
 朔耶は母親の身体を強く抱いた。ただ眠っているだけのこの人は、あまりに弱く脆い。
「方舟は意志を持つということですか?」
「望月はやはり賢いね。そう、あれは青い星からの贈り物」
「おくりもの?」
 問うた朔耶に、十六夜は今度は物悲しそうに笑んだ。
「あれはね、そのために持ち込まれたんだよ。二つの星の交流が目的ではなかった。彼らは、青い星の者達は、はじめからこの月を自分達のものにしようとしていた。ここへ辿り着くまでに見ただろう? 暗く冷たい闇の中で、彼らは月人達に忌み嫌われ、抑圧されようとも、それでもその日が来るのを願っていた」
 お伽話の内容と異なっているのは当然だ。都合の良い方へとどうにでも変えられる。
「ある者は争いの道具として使われた。ある者はここからどうにかして抜け出した。だから、私達が存在する」
 それは憎しみだろうか、悲しみだろうか。だとすれば、同じ――。
「忘れるというのは簡単なことではない。深く心の中に残り続ける。確かに憎悪が根付いていた。爽麻は……、どうだろうね」
 十六夜は朔耶へと向けていた目を外し、爽麻へと向けた。応える声はなかった。
「今更、綺麗事を述べる気はないよ。私達の手は汚れている。そのために生まれたのだから」
「あんたは……」
 朔耶は抱いていた母親の身体を望月に預けた。方舟へと近づこうとする十六夜を追う。刀を抜いた手が情けなく震える。
 もしもそれが現実となれば全てが消える。そうして何も無くなった頃に、この月は支配されるのだろうか? 彼の言うように。
「あんたは、あんた達はそれが望みで、最初からこうして、」
「意思など要らなくなる。あっても無駄なだけ。どうせ抗えない。だから芳春は犠牲になった。それから、弥生も」
 では、やはりこの人は敵だ。止めるべき敵だ。
 それなのに朔耶を映している蒼の眸は穏やかな色を宿している。朔耶ははっとなった。もう一つの可能性を今になって感じたのだ。彼の声は憎しみに満ちている。
「こんなものがあるから、いつまでも終わらない。いつまでも自由になれない」
 声が終わると同時に大地が揺れた。方舟を取り巻く光が一段と大きくなり、正面にいた爽麻は弾かれる。作っていた結界が消え、そこから一斉に月鬼が飛び出して行くのを、朔耶は見ていることしか出来なかった。
「あれはもう限界だ。長い時を待っていた。誰も応えることが出来なかったから。その前に命を奪われてしまってきたのだから。見切りをつけて勝手に動きはじめている」
 倒れた爽麻を支えながら起こしながら十六夜は朔耶の方を向く。
「朔耶。君達は早くここから出るんだ」
 冷えた空間が嘘だったように炎の熱さが覆う。途端に息苦しくなり、激しい揺れに立っていられなくなる。ここは、もう駄目だ。否、このままではすべてが終わってしまう。それが粛清。それが彼らの積年の願い。それなのに――。
「何言って、あんたは、」
「言っただろう? 君には感謝しているんだ。本当に」
 ああ、そうだ。この人はそういう人だ。
 その余裕の顔が気に入らない。何もかもを見透かすような目も、そんな口調も、その優しさも、全部に腹が立って仕方がない。最初からそのつもりだったのだ。この人は。わざとそういう言い方をして、そういう風に導いて、偽ってきた。
 笑いが込み上げてきた。朔耶は自嘲を唇の端に作る。
「あれを、壊すのか。あんたは。はじめからそのつもりで、」
「僕は君が羨ましかった。いや、妬ましかったのかな。君はいつでも前を見る。馬鹿正直に前へと進む。そういうところ、嫌いじゃなかったよ」
 ここへ来て下手な芝居をする。本当は嫌いだったくせに。
「十六夜様、やめてください」
 飛び出してきた皐月を朔耶は止めた。これ以上はとても近寄れない。巻き添えを食うのがオチだ。左右の壁が崩れていく、白煙が舞い上がる。十六夜も爽麻もあれのすぐ近くにいた。このままでは、命そのものが危うい。
「十六夜様、お願いです。私は……!」
 悲痛な声にも十六夜は応えることをしない。ただ穏やかに微笑むだけで。こんな風に泣く皐月をはじめて見た。だから、傍に来て抱きしめてやればいいのにと、思った。
 朔耶は皐月の背を押す。これでは、いつもと逆だ。でもそれでいいのかもしれない。
「出来るだけ遠くに逃げるんだよ」
 こんな時だというのに、朔耶ははじめて会った時のことを思い出していた。
 ただの童のように見えた。すぐに苦手だと思った。いや、そうじゃない。もっとそれよりも前に会ったことがあって、それなのに朔耶が忘れてしまっていたのだ。
 いつも後悔ばかりをしてきた。だから、今度は、今度こそは間違えたくはない。
 朔耶は望月から母親の身体を受け取った。まだあたたかい。大丈夫だ。皐月が行って、望月が行ったのを見送って、朔耶は視線に気が付いた。愛する人を抱える朔耶を爽麻が見つめていた。確かに、笑んでいた。
 掛ける言葉など見つからなかった。もう、二人の姿は見えなかった。朔耶は深く頭を下げる。
「今度はもう、手離してはいけない」
 それが、最後に聞いた声だった。










「君も嘘をつくのが下手だ」
 止まない揺れの中で聞こえた。敢えてそれを無視する。 
「本気で望むなら待つ必要なんてなかった。君は救いたかっただけだ、彼女を」
 何か見当違いなことを言っていると爽麻は思った。
 愚かで、哀れで、檻の中に閉じ込められていた可哀想な女は独りだった。自分と似ていた。ただそれだけだった。 
「お前ほどの役者はいない」
 皮肉にも十六夜はにこりと笑う。お得意の愛想笑いではない。まだ彼が童だった頃に見せた顔と同じ。
 あれから長い時が過ぎた。二人は違う道を歩み、けれど求めたものは同じだった。
「上手くいけば、これを止められるだけではなく願いが叶う」
 願い。それは自分の中の誰かが、ずっとずっと願っていた。遠い昔から願い続けられてきた。
 帰りたい、と。望んでやまなかったこと。
 あるいは、それは自分自身であったとかと、爽麻は問うてみるが、明確な声は返っては来ないだろう。いずれにしても、ここにいるのは爽麻の意思だ。
 憎しみを持ったこともある。悲しみ嘆いたこともある。情愛の念を抱いたことも、憐れに思ったこともある。
「行こう、爽麻」
 十六夜は言った。
 同じ眼を持つ者。同じ力を持つ者。一人きりでよかった。それを為すだけの覚悟はあった。されど、そうはさせないらしい。
 したたかな面を持つ。大した演者だ。こんな時でも笑みを崩したりはしないのだから。
「ともに帰ろう。僕達の星へ……」
 差しのべられた手を爽麻は受け取った。


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