混乱の声は絶えることなく、そしてここにもしっかりと届いている。
両開きになった扉を閉めて、
閂を掛ければ防げるというわけではない。目に見えない力、呪力がなければ、完全には塞ぎきれないのだ。そこから這い出てくるのは月鬼。今や実態を現し、容赦なく月人へと襲い掛かってくる。
いつまで続くかもしれない恐怖に、不安に。戦い続けること。その中で集中を切らさず、呪力を使い続けるのは極めて困難であった。
守りきれるだろうか? 一度、落とした疑問は消えやしない。迷いは焦りへと変わり、それだけで心を乱すことになるのだ。
無事に帰ってくるだろうか? 守るべく人はここにはいない。この扉の向こうにいる。けして、弱くはない人だ。だからこそその身を案じてしまう。時に強さというのは人を脆くする。道を違えてしまえば、簡単に壊れてしまうだろう。
「もう少し、休んでいなさい。顔色が良くない」
心地の良い低音が響く。それに下弦は首を横に振った。
扉の前で禅を組み、精神を集中させているのは残月。その隣にも数名が並び、扉を封じる。それは十人にも満たない。いずれも呪術が扱える者だからこそ、この場所に呼ばれている。
全員の力を合わせれば、完全に防ぐことは可能だろう。しかしそれではとても持たない。まず三名が並び呪術を用いて結界を作る。彼らに疲労が見えはじめれば次の者へと交代する。そこから逃がしてしまった月鬼は、もう他へと任せるしかない。兄である上弦を筆頭に、月草達、それから月華門が武器を持ち、月鬼を追う。
ただ、それも全てを守り通せるわけではない。
下弦は拳を強く握りしめていた。無力であるとは思わない。今は自分に与えられた役目を全うするだけ。それが、もどかしい。
例えば、ここに十六夜や爽麻など、もっと呪術に長けるものがいてくれたならば。否、彼らならば、この混乱を上手く制御して、月人達に安心を与えるだろうと。それはただの願望だ。
「気持ちは分かるが、焦っていてもどうにもならない」
随分長いこと沈黙していたのだろう。
溜息交じりに出た卯月の言葉に下弦は我に返る。と、同時に沸いて出た怒りをそのままにねめつけた。
「焦ってなどおりません」
「君はなかなかの頑固者だな」
気遣いは無用だ。
下弦は月白なのだから。ただ、ここに主がいないことが、どんなに苦痛であるか。卯月には分からないだろう。
「信じることも必要だ」
卯月は言う。
それは誰のことなのか。
中へと入っていった朔耶達のことだろうか? その中にいる筈の夕映姫や如月のことだろうか? 月鬼を相手に戦っている上弦達、それとも、姿の見えない十六夜や爽麻。卯月の目は穏やかだった。多分、皆を信じているのだろう。
内側から扉を叩く音が聞こえたのはその時だった。開けろと叫んでいるのは紛れもない月人の声だったので、卯月と下弦は顔を見合わせる。他の者も困惑した表情でいたが、少し躊躇った後、卯月は閂を外した。
「霜月様? どうして、あなたが?」
下弦の口から出た不信の声に、霜月は応えない。
行方知れずの一人ではあった。けれど、まさかこの扉の内側から出て来るとは誰も思わなかった。それも、今になって。
「下がれ、私がやる」
「え……?」
言って、霜月は禅を組んだ者達の間に割り込む。
「お、お待ちください。霜月様、あなたは、」
「何だ? 私が入るのがそんなに不満なのか?」
そうではない。けれど、適切な声が見つからない。
「どういうおつもりか? あなたは何処ぞに逃亡したと聞いていたのだが?」
助けに入るのは卯月だ。きまりが悪そうに眉を潜めた霜月は、ふんと鼻を鳴らす。
「困っていると聞いたから来てやっただけだ。私は月卿雲客だからな」
明確な理由ではない。けれど、高圧的な口調ではあるものの、どこか以前の霜月とは違って見えた。この場合は、吹っ切れたという言葉が正しいのだが、何があったのかを知らない下弦は戸惑うばかりだった。
「力を貸してやると言ったんだ。今のうちに休んでおくといい」
霜月は他の者を下がらせて、そこに腰を下ろした。誰もそれに逆らえなかったのは、彼が月卿雲客だからではない。彼が作った結界は、三人がかりでどうにか作ったものよりも数倍強いものだ。月鬼が這い出る隙間さえも与えない。
「迷うな。雑念を捨てて目の前に集中をしろ。心が乱れるとそれだけ疲労が早くなる」
喋りかける余裕もあるようだ。
下弦は素直に頷いた。予期せぬ人とはいえこれは心強いことだ。誰が味方で、誰が敵であるか。考えるのは後でもいい。
「勘違いするなよ。あいつに言われたわけじゃないからな」
聞き違いだったと思うほどの小さな憎まれ口もこれきりだった。
下弦は言われたままにそこから少し下がって、身体を休めることにする。自分が思っていた以上に疲労は濃く、一度腰を下ろしてしまえば、すぐには立ち上がれそうもなかった。下弦は扉の方へと視線を向ける。信じて待つということ。今は、それだけを考えることにした。
朔耶の眸に映っていたのは血だ。
ただ、覚悟した痛みはいつになってもやってはこなかった。
弾かれたように望月が飛び出して、月鬼の実体を切り裂いた。甲高い断末魔の後に、それは消える。皐月の声が聞こえていても、朔耶にはまだ何が起こったのか、理解出来なかった。
止血をしようとした皐月の手が止まる。脇腹に負った傷はあっというまに衣服を赤く染めていた。苦痛に喘ぐ声は弱々しい。朔耶はその人の前に膝をついた。
「
大簇、なのか……?」
声が震える。目の奥が熱くなる。
「なん、で……。どうして……」
こんなところにいるのか。違う。何故、自分を庇ったりしたのか。
「やくそく、したからな。
芳春と。今更、遅いかも、しれないが……」
大簇の口元には微笑みの影が見える。どうして今、こんな顔が出来るのか。朔耶はその手を取った。大きな手だ。誰かを守る手だ。だけど、今はなんて弱々しいのだろう。
「だからって、こんなこと……。なんで、俺なんか庇ったりしたんだよ……!」
掴み掛かろうとして、朔耶の腕は止まった。抑えているのは望月だ。
「騒ぐな。……傷に触る」
言わんとすることが分かる。傷は深い。これではきっと助からない。
噛みしめた歯の隙間から嗚咽が漏れていた。それなのに大簇は笑おうとする。それが何よりも辛い。
「構うな、行け」
大簇は言った。
到底従うことの出来ない言葉に、朔耶はかぶりを振る。こんなところに置いて行けるわけがない。けれど呪術を扱えない朔耶達ではどうしようもないのだ。
ここから引き返して、それに長ける者を連れて来ればあるいは。いや、それではとても間に合わない。並みの力では救えるとも限らない。それならば――。
「待ってろ。俺が、連れてくる。そうすれば、あんたは」
「お前が、追っているのは、だれだ……?」
それは、と続けることが出来なかった。大簇は笑む。
「いいから、私に構わず行け。間に合わなければ、どちらにしても、おわりだ」
朔耶は心のどこかでまだ信じていたのだ。粛清。それが為されれば、全てが無くなる。
「行け。お前は、立ち止まるな」
父親みたいなことを言う。
朔耶には分かっていたのだ。
この人は、大簇は、ずっと後悔し続けてきた。友を失ったこと。真実を暴けなかったこと。約束を守れなかったこと。託された想いは、受け取らなければならない。
両の目から流れてくる涙を朔耶は拭う。息を深く吸って立ち上がり、咽び泣いている皐月へと手を差し伸べた。彼女はなかなか手を取らないから、朔耶は無理にその手を引き寄せる。胸が痛くて、呼吸が苦しくて、目の前が見えなくなる。前を行く望月を追って、一度歩み出した足はもう止まらなかった。朔耶は振り返らない。振り返ってしまっては、ならないのだ。
ただ泣くことしか出来なかった。
愚かであると罵られても、そこから歩き出すことは出来なかった。
深い闇の中にいる。けれど、ここは閉ざされたせかいではない。何処へでも行くことは可能だ。この足で歩みさえすれば。
彼は、謝罪を述べただけでそれ以上を告げなかった。
訊きたいことはある。知りたいことはある。けれど、まだそれを受け止める強さがない。
長い道をただひたすらに進んで行き、階段を上へと登って、それを繰り返す。ここは宮殿の地下だ。だから、この奥に何があるのか分かる。
遠ざけようとしているのだ。彼は。見せないようにしているのだろうか。繋いだ手が、けして離れないようにと夕映姫は力を込める。この手が離れてしまうのがおそろしい。その時が来るのがおそろしい。
「怖いと思うのならば、目を閉じていなさい。それは、けして逃げではないのだから」
穏やかな声が聞こえる。いつもと何も変わらない。だから余計に不安になる。
「いずれ知る時がきます。貴女は強い人だ。その時には、目を逸らさないでください」
何も、知らないくせに。
それは怒りであったのか、それとも嘆きであったのか。
呼吸が整わないのは歩き続けているからだ。夕映姫はそのせいにして、荒ぶる気持ちも一緒に抑え込もうとする。目は、まだ見たくなかった。きっと優しい色をしているから。蒼い眸はいつだってそれを宿しているから。
「この先に如月が待っています。ここからは、彼と共に行ってください」
耳を疑った。が、全くの想定外ではなかった。
「あなたは……?」
「私にはやるべきことがあります」
そうじゃない。訊きたいのはそれではない。
一緒には来てはくれない。ここで別れるということ。夕映姫はかつてないほどの寂寞を覚えていた。けして満たされることのない想いは、誰のところへも届かない。
「行ってください。貴女は一人でも歩むことが出来る。ですから、」
「あなたに、何が分かるというの? わたくしには何もないわ。何にも出来ない籠の中の鳥だった。それなのに、今になって……」
突き放すというのならば、最初からそうすれば良かったのに。優しくなんてされたくはなかった。夕映姫はその手を離さない。彼が、十六夜が何を言おうとも、どう思おうとも関係がなかった。
「いやです。あなたが、一緒じゃないと」
「姫……」
呼びかけにも応じず、夕映姫は頑なに拒んでいた。
まるで小童だ。これではきっと嫌われてしまうだろう。きっと拒絶されるだろう。それでも、手を離したくない。この人だけは行ってほしくはない。
利用して利用されて、迷って、苦しんで、何も無くなってしまっても。傍にいて欲しかったのだ。
「行きたくない。わたくしは、」
「行くんだ」
語調の強さに身体が震えた。
見上げた先に待つのは悲しみだった。こんな顔ははじめて見る。笑顔を絶やさない人だった。
それは、彼が取り繕っていたわけではない。その笑みは、彼そのものだった。そういう人だから、そういう眸をするから愛おしい。どうしようもなく、求めてしまう。
夕映姫の目から涙が落ちていた。もう彼は優しい言葉を掛けてはくれない。もう微笑みかけてもくれない。
自由でありたいと望んでいたのは夕映姫だった。けれど、それは一人きりでは叶えられないだろう。共にありたいと願った人は遠くへと行ってしまうのだ。だからこんなにも悲しい。
愛するということを知ってしまったから。ひとりでは、幸せにはなれないということ。
「あなたは、わたくしを愛してはくださらないのですね」
嗚咽を閉じ込める。
笑うことが出来ているだろうか? こんな夢ならば、ずっと昔に捨ててしまえばよかったのだ。
きっと、これでおしまいだろうと夕映姫は思った。でも、これでいいのだ。届かないのであれば、嫌われてしまった方が楽にはなれる。夕映姫は、繋いだぬくもりをゆっくりと手離した。その次の瞬間だった。唇にあたたかいものが触れたのは。
そうして、目蓋に、頬に、それからもう一度、唇へと下りる。聞こえた気がした。彼の心が。けれど――。
「貴女を欲しいと願った、愚かな私のことを。どうか、忘れてください」
愛する人は、その優しい声で、別れの言葉を紡ぐのだ。
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