「いなくなった? 姫様が?」
 またかと。内心では盛大にぼやいたものの、朔耶はどうにか口の中に留めていた。告げた相手があまりにも悄然ショウゼンとした様子であったから、流石に気の毒だと思ったのである。
 しかしながら、この上弦という人に朔耶が会うのは二度目。それも同じ失態をするのも二度目。胸の中で様々な言葉が行き交ってはいたもの、朔耶はその中でも比較的抑えたものをそこから選ぶ。
「悪いが心当たりはない。けれど、これもまだ内密のことなんだろう? 俺も協力するから」
 だから仮にも大人の男がそんな情けないような顔をするなと言ってやりたいところではあるが、これも言わずにおいた。
 上弦はそれに少しばかり安堵したようでも朔耶にとってはいい迷惑である。こちとら今しがた戻ったばかりで当然の如く疲れているのだ。
 卯月への報告は皐月が行ってくれたとはいえ(朔耶では上手く説明が出来ないだろうと勝手な判断をされたのだが)不在にしていた間の仕事は溜まりに溜まっているのだ。
「かたじけない……」
 まったくだ。朔耶は表には出さないようにして笑みを作る。
 上弦はしきりに頭を下げているから、あまり不機嫌そうするのは底意地が悪いだろう。そこまでは性格は曲がってないと朔耶は思う。
「また勝手に宮殿を抜け出したとかは?」
「妹の下弦に向かわせております。しかしながら、その可能性は低いかと……」
「どういうことだ?」
 明け透けもない物言いにも上弦は意に介さない。が、ここでまた一段と表情が深刻そうなものに変わる。
「いえ、その……。夕映姫様の側付きには如月殿がおりました。ですから、姫様がもしそのように申されても、如月殿でしたら止めたかと……」
 何とも歯切れの悪い言い方に朔耶の眉間に皺が寄った。憶測の発言ではなさそうだとして、それならば他の道も考えられるだろう。
「つまりは宮殿の外には出ていないってことか?」
 上弦は頷く。思い切り溜息をつきたいところを、朔耶は抑えて考え込むふりをする。
 童でもあるまいし、いかにこの宮殿内が広いとはいっても行く場所なんて限られているし、まさか隠れていたとしても見つからない訳がない。大の大人たちが雁首揃えておろおろとしている様ははたはた滑稽である。これでは反女帝派などと謳っている者達が、この月の都の行く末を心配する気持ちも分からなくもない。
「言いにくいことですが……、」
 上弦はただでさえ聞き取りにくい声を更に小さくした。
「このところの如月殿は、何か元気のないご様子でして。上手く言えないのですが、思いつめたようにも私には見えたのです」
「へえ……」
 返す言葉も特にないのでそれだけを朔耶は言う。悩みくらいなら誰にだってあるだろう。朔耶は頬を掻いていたが、上弦の目は何かを訴えているようだった。
 ああ、なるほど。つまるところ疑っているわけだ。朔耶は納得する。
 如月が何らかの方法で夕映姫を誑かしたのだとそう言いたいのだろう。はじめから疑っているのならば、別段濁すこともない。朔耶はこの上弦という人のことを詳しく知るほどの付き合いはなかったとはいえ、生真面目過ぎる性格がそれの邪魔をしているのだと察した。
 それにしては話が妙だ。先の通り、朔耶と上弦はさほど面識のない相手である。だというのに上弦は安易に朔耶にこれを打ち明けているのだ。不審に思わなくもないが、それほどに手が回らない事態で、更にこの上弦という人は相当な不器用な人格であることが伺える。もしくは上弦が勝手に朔耶のことを買い被っているのか。
「とにかく、俺も捜してみるよ」
 考えるのは後だ。朔耶がそう告げても、上弦はもっと真顔になっていた。
「本当に有難うございます。私はもう一度十六夜殿の処へ行くことにします」
「もう一度? ってことは、十六夜様はまだ知らないのか?」
「はい。それから、爽麻ソウマ殿と月影様にも、」
「ちょっと待て。公にしていいのか?」
 慌てて止める。上弦は気まずそうに視線を逸らしたことから、これは結構な時がたっていることなのだと、朔耶は理解した。
 それならば最初に言えばいいのに。言いたいことは山ほどあっても、朔耶はどれもついには言わなかった。代わりに大きく溜息をついてから、情けない月白に声を掛ける。
「分かった。月影、様のところには俺が行くから」
 朔耶は上弦の肩を叩く。見た目は偉丈夫なのに、どうしてこうも頼りなく見えるのか。上弦は少し躊躇っていたものの、首を縦に振った。
 個人的に訊きたいことがある。そのついでというわけではないが、好都合でもあったのだ。
 朔耶はその足で北殿へと向かう。はじめのうちは渡殿を歩くのも緊張したものだが、慣れてしまえばどうということもない。あの夾雑音も一度聞こえたきりだったし、何よりも別に思考を割くことが多かったので、それはすっかり忘れてしまっていた。ふと、思い出したのは何故だろうか? 朔耶の足が止まる。
 一瞬、けれど確かに嫌な気配を感じたのだ。そもそもここは空気が違う。それにしても、だ。
 以前よりも殺伐とした空間は、何らかの力によって偽りを見せられているような、そんな感覚であった。朔耶はかぶりを振る。息を吸って、もう一度気のせいだと自身へと言い聞かせて、目的の人の処へと向かう。
「誰かと思えば、またお前か」
 どうやら目が後ろにも付いているらしい。月影は文机に向いているために朔耶を見てはいなかった。
芳春ホウシュンの息子。そうだな?」
 朔耶は応えない。知っているというのならば、敢えて応えなくてもいい。
 作った拳を意識して力を抜く。落ち着けと、朔耶は言い聞かせる。
 鼻をつくきつい香りはおそらくは薫香だろう。そんな女人みたいな趣向があるのか朔耶には知る由もないが、おかげで鼻はすっかり麻痺している。上品なにおいではあるとはいっても、こうも強くては不快でしかない。心なしか頭痛もする。
「あんたに、訊きたいことがある」
 朔耶が近づいても、月影はまだこちらを見ようともしなかった。そのままで低音が続く。
「知ったところで意味はない。奴らは周到だった」
「なにを、言っている?」
 応える気があるのか、否か。朔耶は見定めつつ、表情が分からないので判別しようがなかった。声音にしても前よりはどこか穏やかに聞こえなくはない。だが、それだけでは足りない。
「芳春は止めることが出来なかった。全てはそこから……」
 おかしいと気が付いたのは、その時だった。
 香のにおいに隠されていたが朔耶はそれを見逃さなかった。生々しい血のにおい。吐き気を伴うほどの臭気はどこからか。
「或いは、」
「おい、あんた……」
 朔耶は無礼を承知で月影の肩に触れた。
 こちらへと向かせた顔を見て、朔耶はぞっとする。生気がまるでない。
 朔耶は視線をもう少し下へと滑らせてそこでも息を呑んだ。胸に穴が開いていたのだ。位置は左側で、心臓がある場所だった。そこから流れる血は装束を赤に染め、しかし辺りに飛び散ったような跡は見えない。そのまま月影は朔耶の腕の中に崩れ落ちた。朔耶は月影を何度も呼んだが、もう反応はなかった。
 死んでいた……? 上手く回らない頭で朔耶は言葉にやっと出す。そして――。
「そこまでだ。動くな!」
 背後の怒声で朔耶は我に返る。声を発しようとしてそれより早く朔耶は月影から引き離された挙句、複数人で羽交い絞めにされた。朔耶を取り押さえているのは月草か。いずれも覚えのない顔だった。ただ、見覚えのある人物が一人だけそこにはいる。
「謀反を起こすなど、何ということを……」
 怒りの声は偽りだ。演技であるなど朔耶は見抜いている。
「霜月、お前……!」
 身体は動かせなくとも口は動く。罵倒に、端正な顔が歪んだかと思えば霜月は乱暴に朔耶の髪を掴んだ。
 まず顔を殴られ、次には腹に蹴りを入れられる。朔耶はすぐに身を起こそうとするが、入りどころが悪かったのか、胃の中から苦いものが這い上がってきて、口から全部吐き出す方が先だった。
「身の程を知らないらしいな。まあ、いい。連れて行け」
 霜月は顎で部下達に指示をする。朔耶はしばらく咳を繰り返し、けれど強引に身を起こされて、おぼつかない足のままにほとんど引き摺られるように歩かされていく。
 憎悪と嫌悪に充ちた目に、勝ち誇ったような笑みを唇の端に乗せる霜月の顔が見えた。朔耶は思い切り睨み付けたが、何の効果もなく、抗う術など何も持たなかった。
 










 詰問する声の音は次第に荒くなっていた。
 にもかかわらず、問われた相手は沈黙を守り通している。これでは苛立つのも仕方あるまい。長月の爪を噛む癖が出はじめていた。
「随分と勝手なことをしたものだ。何故、私に何の報告もしなかった」
 相談とは言わない辺りが長月らしいところだ。
 にべのなく突き放されることが分かっていて、それを馬鹿正直に打ち明ける者がいるものか。無論、これは他人事であるからこそ言えることだ。
「それでも黙秘を貫くか、爽麻」
 主の顔か、あるいは親の顔か。
 長月の面には描かれてはいない。これはただの命令である。従う他などないのだ。
 漂う緊張に唾を呑み込み、気圧されないようにと背を正す。大人しく言うことを聞いておけばいいものを。強情は何の役にも立たず、愚かなだけだ。
「まあ、いい。今に言ったところで意味はない」
 長月は醜悪な笑みを唇に乗せる。全てを許すならば何て寛大なことか。と、同時に呆れもきた。冷め切っている親子の関係を今更取り繕ったところで何になるのだ。その物言いたげな視線が届いたのか、否か。長月は今一度命令を下す。
「呪力を用いて、封を強化せよ。お前の力があれば、」
「その必要はない」
「なんだと?」
 長月が細い目を剥く。
「あれは、近付き過ぎている。もはや正気を保ってはいない」
 爽麻の声を追うが、理解は不能だった。だが、長月は悟ったような表情に変える。
「貴様、最初からそのつもりで……。私を裏切るつもりか?」
「裏切る? まさか」
 見たものを凍りつかせるほどの冷笑。普段感情を表に貼り付けない男のこの笑みは、長い年月を共にしてきた長月であっても、それは例外ではなかったようだ。
 親子の仲違いの場に偶然出くわしてのではない。これは、そういう類の話ではない。
「見誤ったのはお前達だ。手中に収めたつもりだったのか? 監視しているつもりだったのか? そもそも我らを生かしておいたのが間違いだったのだ。月読はお前達のいう都合の良い存在などではない」
 子が親へと向ける声ではなかったというのに、長月は顔を強張らせているだけで反論一つ返さなかった。したくとも言葉が見つからないのか、それとも声を出すことさえも出来ないのか。
「我らに課せられたのはただ一つだけ。取り違えていたというのならば愚かなことだ。だが……」
 爽麻は長月へと近づく。この場にいるのは三人。ここが長月の自室であるとはいえ、用心深いこの長月という老人は他の従者も、女房も下がらせている。だから助けはこない。
「邪魔をしなければ、生かしておいてもいい」
「な、なに……?」
「さて、どうする?」
 だがそこに選択権はなかった。
 荒い呼吸の間隔は短くなるばかりで、額には脂汗が浮かび、震える唇の色は青い。長月を助けたくとも、この状況で口を挟める余裕もなければ、その勇気もなかった。霜月はただそこに立ち尽くすばかりだった。
「あ、あれは過去の産物だ。しかし、あれを使ってはならない。それではこの月の都は、」
「残念だが、月読はそのために存在する」
 どうにか絞り出したであろう長月の声は一蹴される。
 残酷な現実を突き付けられたのか、全てが終わったように長月の顔からは色が無くなっていた。二人が何を言っているのか理解出来なくはない。だからこそ余計に分からなくなる。何を、言っているのか。これが、どういうことになるのか。
 考える間もなかった。霜月は一部始終を見ていたというのに、気が付いたときにはすぐ足元には長月の顔があった。首から下がない。恐ろしさのあまりに霜月は目蓋を閉じた。悲鳴はなかった。長月の声も、霜月の声も。
 胃が持ち上がる吐き気よりも、恐怖の方が勝っていた。
 咽返る濃い血のにおいがする。膝の力が抜けて、霜月はその場に尻餅をつく。見下すその目は酷く冷たい。蒼い蒼い眸の色だった。
「く、くるな……」
 鋭利な刃物がそこには見える。あの刃で同じように首を落とされるだろう。
 霜月は拒否反応としてかろうじて動いた首を横に振る。
 動け、動け、動け……!
 念じようとも情けない足は持ち上がるどころか更に震えを増すばかりだった。もっと、大きな声を出せば。もっと、遠くまで声を飛ばせば。
 口は開くのに声はもう出てこない。歯の根が噛み合わない音がする。弁護を図ろうにも、良く回る舌がこの時に限って動かないのだ。
 霜月が犯した失態はあの生意気な月華門を捕えたことで帳消しになるはずだった。それが、どうしてこうなった? 取り入る相手を間違えていたのか。いや、ここにはもう権力者となる者は残ってはいない。人はこんな状況下に置いても尚も、命の心配よりも浅ましく邪な感情が先立つ。
 輝かしい未来はもうどこにもない。何処で道を違えてしまったのだろう。霜月は自身の運のなさを恨んだ。そうすると別段覚悟を決めたわけでもないのに、脚が動いた。そこから一気に腰を上げる。後はもう足を前へと交互させるだけだった。
 霜月はそこから逃げた。まだ事を何も知らない女房とすれ違っても、下っ端の月草とぶつかっても止まることなく、また助けを求めることもせずに走り続けた。
 逃げて、逃げて、逃げて。そこが、誰の知りえないせかいの入口に迷い込んだとしても、逃げ続けていた。


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月に叢雲、花に

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