彼女を誘うには簡単な言葉だった。
 嘘を吐くのは苦手だ。後ろめたい気持ちになるし、何よりも後味が悪い。それが偽りであると分かった時に悲しませてしまう。騙した相手を責めるよりも前に、騙された愚かな自身を悔やむことだろう。
 そんな純真で優しい人だから、心は痛む。それだけではない。失ってしまうのはもっと他にもある。
 今ある幸福も、ぬくもりも、繋がりも。その全てを失くしてしまうのだ。それだけの覚悟。それでも譲れない想い。それでも守りたい人は一人だけ。
 だから、決めたのは如月自身だった。
「そこを通しなさい」
 この強い言葉は二度目であった。
「し、しかし……、貴女様をお通しする訳にはいかないのです」
 返す声は震えている。無理もない。本来ならば逆らえる相手ではないのだ。すんなりと従って、その言葉通りに道を開ける、あるいは案内するのが正しい相手だ。それを頑なに拒むというのなら、相応の理由があるということ。
「では、誰の命令なのですか?」
「そ、それも、申し上げられません」
 先程から押し問答は続いている。到底納得の出来ない回答に、次第に夕映ユエ姫は苛立っていた。彼女は普段他人を威圧するような言葉は使わない。同様にそうした声音も利用しない。
「お前は、わたくしを愚弄するのですか?」
 だからこの脅しは、彼女もまたある程度の覚悟をした上での言葉だった。
「め、滅相もございません……!」
 可哀想なほど、顔面は蒼白になり、声だけでなく、足まで震え出している。相手はけして若くはない。月草であろうと、夕映姫の倍は生きているだろう。威厳も何もあったものではなかった。
 自分が入るべきか、迷っていたが必要はなさそうだ。如月は内心でほくそ笑む。
 用意していた声を使わずに済むというならば、それに越したことはない。ただ、これ以上の時間を掛けるのは計算外だ。
 いかにここが姫君の寝所の近くである西殿と北殿の間といえども、他の者が入ってこないとも言い切れない。騒ぎを聞きつけた者が駆け付けないとも限らなければ、下弦や上弦などの月白が気付くのも時間の問題だろう。
 いずれにせよ、彼女をここから引き離せば、それで事は防げる。そのはずだ。如月は待つことにする。そして月草と目が合った。姫君を説得出来なくとも、月白の止める声があれば、とでも思ったのだろうか。
 救いを求めるような目を向けても無駄だ。如月はそこから視線を外した。
「わ、分かりました……! ですが、私では判断致しかねます、ので……、少しの間お待ち頂けます、でしょうか?」
 観念したのか、これ以上の圧に耐えられなくなったのか。しどろもどろに言って、月草はこちらの返事を待たずに逃げるように去って行った。
「本当に、会えるのね?」
 ここからが重要だ。
 すぐには応えずに如月はある程度の間を空ける。彼女を説得させるだけの言葉を如月は持っている。否、彼の声ならば、素直に姫君は信じるだろう。利用することは容易い。だが、その先は見えない。
 一種の不安と、それから期待が混じったような、そんな顔を夕映姫は如月に向けていた。彼女は、如月のことも信じきっている。これからその心を裏切るのだ。如月は呼吸を意識して深いものへと変える。
 作った拳の中にじわりと汗が滲んでいた。緊張した背筋をもう少し伸ばして、ただ表情だけはいつも通りを装って、そうして声を紡ぐ。その手筈だった。
「まあ。自分から来るだなんて。ご立派ですこと」
 覚えのない声だった。
 全く誰にも会わずに進めるなどとは思っていなかった。女人にしても舎人トネリにしても、ある程度は会うことなど想定内で、またはそれらを使わなければ、如月一人の力では不可能だった。
 だが、これは予期せぬことであり、会ったのはよきせぬ人であった。如月にとっても夕映姫にとっても。
 ただの女房には見えなかった。女人は北側から来たのだ。身に纏う単衣は夕映姫のものとまではいかなくても、身分の高さを表すには十分であった。かといって役人にも見えない。
 如月は唾を呑み込む。まさか、とは思ったが、そう思わざるを得なかった。女人は微笑む。まろく優しい笑みだった。
「貴女は……」
 言い掛けて夕映姫は止まっていた。理解をするにも思考が追いついていないのか、夕映姫の瞬きの回数が増えている。如月は彼女の声を待つ。知っている人物であるのか。それは敵となるのか、それとも味方なのか。
「母上……? いいえ、違う。貴女は誰なの?」
 疑惑の声にも女人は微笑んだままだ。そのままもう少しこちらへと近づいて来る。
「お可哀想に。何もご存じではないのね」
 口元を袖で隠しながら、尚も笑う。
「良いことを教えて差し上げましょうか?」
 謳うような声だった。聞く必要などないのに、耳がそうしろと指示しているように、遮ることを如月はしなかった。
「貴女のお母様はね、もういないのよ。どこにも」
「な、何を言っているの?」
 動揺しつつも夕映姫の声は強かった。またそれ以上に驚いていたのは如月だ。
 頭の中で様々な可能性を結び付けていくが、どれも正解ではない。むしろ混乱する一方だ。否定を声にしつつも、夕映姫はそこから動き出せずにいた。女人は近づく。そして、事実を有りのままに口にする。
「女帝は死んだのよ。ずっとずっと昔の話よ。貴女が実際に会っていたお母様は偽物よ。お可哀想に。それさえ気が付かなかっただなんて」
「うそ。嘘よ……」
「ふふ。けれど、この私の顔は覚えているでしょう? だって、私が貴女のお母様の身代わりだったんですもの。ずっとずっと、騙されてきただなんて、なんて憐れなことでしょう。でも、それももうお終い。悲しむことも憎むこともないわ。貴女は、貴女の役目を果たすだけ」
 肩を震わす夕映姫の横で、如月は冷静に女人の声を追っていた。
 女帝はとうの昔に亡くなっていたということ。夕映姫が生まれてからすぐに、または成人するよりも前に。夕映姫は母親だというのに女帝と会ったのは記憶の中で数える程しかないと嘆いていた。この女人の言っていることが本当であれば、それは女帝ではなく、偽物だったということだ。
 如月は夕映姫を憐れには思わなかった。それよりも先に、まだ考えることがあったからだ。だとすれば、この女人は一体誰であるのか。いや、誰であっても関係ない。少なくとも向こうはこちらのことを良く知っている。つまりは敵だ。
 如月は夕映姫の前に立つ。彼女に慰めの声を掛けるよりも先に、やるべきことはある。
 女人は一歩一歩確かめるようにこちらへと近づいて来る。そこで如月は気が付いた。女人の眸の色は黄金キン。しかし、夕映姫の持つ色とは異なって見える。濁っているのだ。つまり、この女人は目が視えていない。
 逃げることは出来る。如月は夕映姫の手を取った。だが、そこから逃げることは出来なかった。
「ふふふ。貴方が、連れて来てくれたのね。さあ、いらっしゃい」
 女人は夕映姫ではなく、明らかに如月に向けて言っている。
「良い子ね。流石はあの人の子だわ。もう、演じることはないのよ。こちらにいらっしゃいな」
「なにを、言っている?」
 手を差し伸べられる。如月には何の覚えもなかった。ただ女人が見当違いのことを言っているようにしか聞こえなかった。
「どういう、ことなの……?」
 疑惑を含んだ夕映姫の声を如月は無視する。こちらが聞きたいくらいだった。
「あんたなんか知らない」
 如月は吐き捨てるように言った。それは明らかな拒絶。
 女人は酷く傷ついたような表情をした後に、両の手の中に顔を埋めた。わっと泣き出せば、それは叫びにも似ていた。
 如月の耳の中に血が押し寄せていた。女人が演技をしているようには見えない。けれど、如月はこの女人のことを知らない。だから一挙一動に心を動かされることなど無い筈だ。この感情は何かと、如月は自身に問う。分からなかった。知ってしまうのが恐ろしかった。
「あぁ、許して頂戴。貴方を手離してしまったことを。怒っているのでしょう? 貴方は、両親に捨てられたと思っているのでしょう? 違うのよ。仕方がなかったのよ。でも、もう寂しい思いなんてさせないわ。だって、私はあなたの」
「やめろ!」
 如月は叫んでしまっていた。
 女人が何を言おうとしているのか、分かってしまっていたからだ。そんなはずはないのだと、なんどもなんども否定をしているのに、心の中でもう認めてしまっている。知らない人なのに、拒絶することが出来なくなっている。
「やめてくれ。今更、出てきてなんだっていうんだ。あんたなんか、知らないんだ……」
 偽ることは苦しかった。喉が痛んで、目の奥が熱い。気を抜けば落としてしまいそうな雫を、如月は意地で抑え込んでいた。
 そんな弱い自分に腹が立って仕方がなかった。覚悟を決めていても、それさえも揺るがせてしまう。この目の前にいる人は――。
「……いいわ。ならば、貴方も一緒に連れて行く。いいえ、もう手離したりなんかしないわ」
 女人の雰囲気が変わる。如月は咄嗟に身構えたがもう遅かった。
 女人とは思えない力で腕を掴まれている。皮膚に爪が喰い込み、痛みを感じるよりも如月はぞっとした。
 まだ童であろうとも女人に勝てないほどに貧弱ではない。にもかかわらず振り解けないのは、腕力によるものではなかった。ここまで抗えない呪力の持ち主を、如月はそう知らない。
 薄れゆく意識の中で如月は主の名を呼んでいた。けれど、その声はけして届くことはなかった。










 月影には自ら課した決め事が幾つかあったが、それを知る者は一人としていなかった。
 月影という立場にあれば、万が一にも彼が不在の時に勝手に自室へと入る者はいないとはいえ、それでも用心深いこの老人は自身の記憶にのみ留めて置き、それを書き残しておくことは一切しなかった。故に、彼だけにしか知り得ぬこと。言い換えれば、月影だけがその秘密を知っているということだ。
 だが、その秘密事も周囲には漏れつつある。いつまでも隠し通せることでもなく、いつかは表沙汰になるだけ。彼はそのような些事には気を取られない。ただ、女帝という絶対的な存在は、その名だけで効果を持つ。
 今更、いようがいまいが、身代りさえいれば事は足りるのだ。その身代わりでさえも失った時に、月影はあることに気が付いていた。そして同時に畏怖を抱くことにもなったのだ。
 それさえも月影が動じることはなかった。これを揉み消すという手段はけして容易いものではなかったが、栓をしてしまえばいい。後は、そこから出さぬようにするだけだ。
 悪意も憎悪も、人の心を支配する源を防げばいい。それ自体を消すという選択肢はそもそも考えなかった。どれだけの危険を伴うか。また、誰がそれを担うというのか。思考するだけ無駄である。
 あの扉を開けることだけはあってはならない。これまで守ってきた安寧秩序が何の意味を持たなくなってしまう。
 月影は御前会議が終わってもすぐに自室へと戻らず、また側近を付けずにその場所へと向かう。そうして、何事もないことを確かめてから戻るのだ。何も御前会議がある日だけに限らない。欠かすことの出来ない決め事であった。
 しかし、この日にそれが後回しになってしまった。
 長引いた御前会議がようやくお開きになると、月白が気まずそうな顔をして月影の元にやって来た。要件は聞くまでもなく分かっている。姫君の我儘が手に負えなくなってきたのだろう。皆まで聞くことをせず、月影は月卿雲客の一人に声を掛けた。あまり姫君の機嫌を損ねることは好ましくはない。だからこの男を向かわせれば、幾分かは機嫌取りにはなるだろう。
 そして次に月影の足を止めさせたのは、宮中で敵対していると声が上がっている月卿雲客の長月であった。
 確かに互いに良い印象は持ってはいないが、それも馴れ合う必要性がないだけであり、月影自身は特に長月と敵としては見なしてはいない。ただし、警戒すべきは長月ではなく、しかしそれもこの長月の監視があるからこそ、ある程度の信頼が出来るというもの。それなりの線引きはしているつもりだった。
「次の剣舞の会には、ぜひとも女帝にお越し頂きたく……」
 気が早い話だ。
 それもいない者だと分かっていて敢えて口にするこの狡猾さ。虫唾が走るどころか褒め称えたくもなる。だが長月とて、これを揺らがすつもりは無いのだろう。
 月影は曖昧な返答をし、長月は深く入り込まなかった。
 さて、後はもう月影の邪魔をする者などいなくなったのだが、ふとあることを思い出して、彼は自室へと先に戻ることにした。
 気掛かりになっていたのは、ある男の息子のこと。芳春ホウシュンは死んだ。過去の人物である。だがしかし、あれは芳春に良く似ていたのだ。すぐに認めようとしなかったのは、記憶から排除したかったからかもしれない。
 月影は誰もいない渡殿で一人嗤う。
 生きていたとして、取るには足らないだろう。そのために目を付けているのだから。すべては順調に事進んでいる。このまま何も違えずに、守られていくもの。否、守り通せればそれでいい。
 自室へと戻った途端に月影は目を見開いた。まさかここに立ち入る者がいるとは思わなかった上に、それは意外な人物であったからだ。
「何をしている?」
 威圧を与える低い声にも相手は動じる様子はない。表情の伺えない、しかし完全なる無ともいえない唇の端には笑みのようなものさえ見える。
「呼んだ覚えはない。早々に立ち去れ」
 これは命令である。故に逆らえる者などいない。
 身動ぎさえしない相手に月影は違和を抱いていた。否、これは恐怖という名の感情に近い。その眸からは目を離せずにいる。知らずのうちに呼吸は浅くなり、口の中が乾いていた。背に冷たいものが伝わっていき、そうしてやっとそれを認めることになる。
「お前は、いや……お前達は、」
 続けようとして口は動かなかった。声を紡ぎたくとも音としては出てこない。月影を押さえ付けているのは呪力。それならば相応の力を月影とて持っている。ただこれが、抗えないほど強く、そして憎悪に満ちた力であっただけのこと。
「扉が開く。貴方の出る幕は、もうない」
 醜悪な笑みが、そこには見えた。


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月に叢雲、花に

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