勇んで飛び出してきたはいいものの、行くあてなど何処にもなかった。
 小さな村であるからすぐに一周が出来る。その後は何処に向かうわけでもなく、ただ足を進めるだけだ。朔耶はまだ顔に怒りを描いてはいたが、通りを行く人もまばらなもので、誰一人として気に留める者などいなかった。
 好き勝手なことを言いやがって。
 その言葉の一つ一つを思い返す度に気が苛立つ。先のような混乱はなくとも、冷静であるからこそ、静かな怒りは次から次へと沸いて出てくるのだ。
 父の過去は朔耶にとって衝撃的だった。
 とてもそんな暗い過去があるなど思えなかったのは、まだ朔耶が小童コドモであったからだ。今は、違う。だから理解は出来る。
 罪だといえば罪なのだ。父親はたくさんの月人ツキヒトの命を奪ったのだから。それを争いだと言っていいのだろうか? 否、謂れのない疑い、または怖れのために、彼らは粛清された。それが事実。変えようもないもの。命令されたことであっても、安寧のためであっても、許されるものではない。確かに生き残った者がいるならば、父親を恨みに思うこともあるだろう。
 だが、それが仕方のないことだとは、朔耶は思わない。
 復讐。そんな言葉だけで片付けられるような感情ではない。この痛みも、この悔しさも、孤独も。持った者にしか分からない感情だ。
 同じことの繰り返しだと大簇タイソウは言った。違うのだと朔耶は否定をする。何故ならば、それを正当化するつもりはなかったからだ。単なる私情に過ぎない。だから、この気持ちが晴れさえすればそれでいい。
 朔耶はかぶりを振った。それも違うのだ。
 生きる目的は一つだけだった。けれど、本当に望んでいたのは――。
「違う!」
 否定の声は口から出てきてしまっていた。
 周りに誰もいなかったのが幸いか。それすら今の朔耶にとってはどうでもよかった。朔耶は自嘲する。繋ぎ止めていた何かが欠けてしまったような気がした。
「何が違うんだって?」
 後ろからの声に朔耶は驚いたものの、すぐには振り向くことが出来なかった。男は朔耶の肩を叩く。そうして、親しい友人に向ける笑顔で朔耶の顔を覗き込んだ。
「何度も呼んでたのに、全然気が付かないんだよな、お前」
 この屈託のない笑みにも、癖のある黒髪にも覚えがある。けれど朔耶はどういう反応をしたらいいのか分からずにいる。
「あんた……睦月、か? どうして、」
「それ、こっちの台詞。そんな怖い顔してどうした? 腹具合でも悪いのか?」
 相変わらずだ。物言いにしても、大袈裟な仕草にしても、何一つ睦月は変わらない。久々の再会となったというのに喜びよりも驚きの方が勝っている。未だ声が出てこない朔耶に、睦月はそのままの調子で続けた。
「悩みごとなら俺が訊いてやるから、な?」
 勝手に兄貴分にでもなったつもりらしい。余計なお世話だ。それよりも朔耶が言いたかったのは別にある。
「そうじゃなくて、あんた何で、黙って出て行ったんだよ」
 幾分か恨みがましく言ってはみたものの、睦月は素知らぬ顔をするだけだ。
 人伝に聞かされたこっちの身にもなってみろと付け加えたかったが、それではあまりに惜しんでいたかのようにも聞こえるので、朔耶は口の中に留めておいた。ともあれ、突然の別れに戸惑ったのは確かだ。
 あまりに急過ぎて、尚且つ事後報告だったために、寂しいと思う間さえなかったのだ。思い出せば先程とは違った怒りが出てきた。
「湿っぽいのは苦手なんだ。別に今生の別れってわけじゃない。ほら、現にこうして会えただろ?」
 睦月は人好きのする笑みを浮かべている。そんな笑い方をされては、そんな言い方をされたら、何も言い返せなくなってしまう。朔耶は気が抜けていた。あれこれと考えていたこともいつの間にか頭からは出て行ってしまって、文句の言葉の数々も消えてしまっていた。
「で、なんでお前ここにいるんだ? まさか、俺に会いに来てくれたとか?」
「い、いや。違うんだ。ちょっとした、頼まれごとで」
「なぁんだ」
 睦月は拗ねたような顔をする。少しも可愛くはない上に憎たらしい。朔耶はそこでようやく笑んでいた。
「それよりも、あんた何でここの村に?」
「ん? 十六夜から何も訊いてないのか?」
「聞いてない。左遷されたとは聞いたけど」
「おいおい。言葉が悪いな」
 睦月は苦笑する。
 それは誤りでは無い。彼がここにいるのは上からの命令、つまり今は月卿雲客である十六夜によって都から離されたのだ。いい意味があるとは思えない。むしろその逆だ。疑いを持っている朔耶の心を読んだのか、睦月の顔はもう少し穏やかになった。
「御守りを貰った。これを持っていれば月鬼には会わないんだ。不思議だろ?」
 睦月が懐から取り出したのは翡翠色をした勾玉だ。首から下げられるように上の部分には紐のようなものが付いている。
「でさ、結構効き目があるみたいで、持っていれば俺だけじゃなくて、この村全体が守られているみたいなんだ。それだけの呪力が込められてるってことだ」
 得意げに話す睦月を見て、その力が誰のものによるのか、すぐに結びついた。睦月は兄弟の事になると殊更嬉しそうな顔をするのだ。
「俺は良く知らないけど、これから大きな事が起こるらしい。だから十六夜は俺にこれを託した。都を離れるのは正直寂しかったけど、でもこういう役目があるなら嫌じゃない。俺は誇りに思う」
 朔耶は心が苦しくなっていた。一時とはいえ、朔耶は疑いを持っていた。今も完全に消えたわけではない。功名欲しさに兄弟を踏み台にしたのだと、そんな風に見ていた。それではあまりに失礼だと思った。十六夜にも、目の前にいる睦月にも。
 この再会が味気のない立ち話であったことが本当に残念だ。朔耶はともかく、睦月の方はそんなに暇ではなかったらしい。彼は、少しずつ歩き出していた。朔耶も睦月の歩幅に合わせる。
「なぁ、みんな元気かな?」
 きっと最初に訊きたかったのだろう。朔耶は二歩ほど歩いたところで返した。
「ああ。変わりないよ」
 少々誤魔化すことにした。卯月は寂しがっていたが、素直に告げて睦月まで同じ思いにさせる必要はない。十六夜に至っては変わらないというのは本当で、ただ多忙を極めているのも、睦月には容易に想像出来ることだろう。
「兄貴と十六夜のこと、見ててくれよな。二人とも、ああ見えて無頓着なとこがあるんだ。自分のことになると特に」
 朔耶は笑っておく。この三兄弟は、どうも自分よりも他人を優先させる癖がある。
「それから、皐月も如月も望月も。皆が元気でいればそれでいい。家族が息災であれば、俺は安心出来るんだ」
 急に真顔になった睦月を見て朔耶はどきりとした。睦月はたまにこのような顔をする。冗談を言っていたかと思えば、真面目なことを言う。こういうのはらしくない。
「もちろん朔耶、お前もだ」
 朔耶は目を外していたから、睦月に肩を叩かれていた。遠慮なく強めに叩かれたら、結構痛い。
「お前も家族の一員だと思ってる。だから悩み事があったら言ってくれ。いつでも相談に乗るからさ」
 結局、言いたかったのはそれだ。だが、何故か不快な感じはしなかった。
 家族と。朔耶は心中で呟く。これまで空っぽであると思っていた。何もかもを失って、孤独である筈だった。
 違ったんだな。朔耶は笑む。たぶん、見るのが怖かっただけで、また失うのが怖かっただけで、覆い隠していただけだ。
 朔耶は感謝をしていても、言葉で表すことをしなかった。何も今生の別れではない。その通りだ。朔耶にはまだ、やるべきことがある。










 捜しに来たくせに、皐月は朔耶の顔を見るなり「あっ」という声を漏らした。
 分かりやすい反応だった。だから朔耶も別に気まずい思いをせずにいた。もしくはわざであるか。いや、彼女はそんなに器用ではない。
「会ったんだよ。睦月……、様に」
 流石に呼び捨てるのはまずい。言い換えたが遅かった。それに何より本人の前でしかと呼び捨てているので今更なのだが。
「本当に?」
 皐月の目が丸くなる。
 もしかしたら、きちんとした別れを交わしてなかったのは、朔耶だけではなかったのかもしれない。朔耶は今し方別れた睦月を追い掛けようとも思ったが、踏み留まった。それはそれで気恥ずかしいのだ。
「元気そうだった?」
 皐月が問う。
「ああ。変わりなかった」
 肩を竦める朔耶を見て、皐月はやっと笑顔になった。けれど、どこかぎこちなく見えたので、朔耶はそれを変えてやりたかった。
「なんかさ、好きな人がいるんだって」
「え? なにそれ」
 呆れ声が返ってくる。
「なかなかの器量良しさんらしい。都でも滅多にお目に掛かれないような」
 若干、朔耶の想像が入っているもの、あの睦月が一目惚れしたというのだから相手は相当な美人なのだろう。その想いはなかなか伝わらないらしく、けれど睦月の勢いがあればいずれは良い方へと進む……と思いたい。熱っぽく語られて少しばかりうんざりはしたものの、応援はしたくはなったのだ。
「呑気ねえ」
 当てつけは朔耶にも睦月にも対してだ。それでも皐月は嬉しそうで、思惑通りだった。
「でも、良かったわね。睦月さまに会えて。きっと、そのために卯月さまはあんたに頼んだのね」
 そうか、と。朔耶は納得した。単に手紙の件があったわけじゃない。卯月は睦月の居場所を知っているたから、こうして会えることも想定していたのかもしれない。
エニシって、そう考えると不思議ね。色んなところで繋がっているのね」
 それこそ朔耶がおざなりにしてきたことだ。誰かの受け売りのようにも聞こえたが、其の実合っているとも思えたので、朔耶はだんまりを決め込む。と、ここで朔耶は気が付いた。皐月の足は元来た場所へと向かっていない。わざと遠回りをしているのだ。朔耶の心がもう少し落ち着くまで。
「あの、ね。私、あなたに言わなきゃいけないことがあるの」
 急にしおらしくなった皐月に朔耶は戸惑った。何も身に覚えがないし、こんな改まった話をされるほどの仲でもない。
 彼女がどんな表情でいるのか気にはなったが、見る勇気はなかったので、朔耶はそのまま足を進めた。皐月は人目を気にするようにしている。人には聞かれたくない話なのか。辺りに人も建物もなくなってから、ようやく次の声は聞こえてきた。
「あなたのご両親のこと、知ってたの。その……、事故で亡くなったこと。調べたのはもうずっと前のことだけど……」
 終わるにつれて皐月の声は消えるように小さくなっていた。
 包み隠すのが下手な人だ。皐月は隠密活動が得意であるから身辺を調査するのも自然なことである。おそらくそこには他意は無く、彼女は朔耶が害になるか否かを見定めていただけの話だ。
「いいよ、別に。隠しているわけでもなかったし」
 慰めるつもりでは言わなかった。そうすると皐月が余計に気にしてしまう。
 朔耶も同じようなものだ。皐月の過去は睦月から聞いている。だからこれはお相子でもある。それなのに皐月はまだ沈んだような顔をしたままだ。
「悲しいとか、寂しいとか、怖いとか……。それから、憎んだことだってあった。でもね、いつの間にか消えてたの。忘れたわけじゃない。だけど、それよりももっと、大事なことたくさんあって……」
 上手く言えないのがもどかしいのか、皐月の歩幅が少しずつ朔耶から離れていく。朔耶は足を止めない。今、彼女の顔を見るべきではないと思った。きっと、言いたいことは別にあるのだ。朔耶は何も応えない。そうだとしても、まだ言葉に出すほど、整理はついていなかったのだ。
 似たような境遇であっても同じだとはいえない。失ったものが、思いが、必ずしも同じであるとは朔耶には思えなかった。
 木登りをしている小童の姿が二人見えた。兄弟なのだろうか? 一人はするすると器用に幹を登っていき、もう一人はまだ上手く足が掛けられないのか、上に向かって何やら抗議の声を上げている。
 もう少し歩けば、男人と女人との間に挟まれて楽しそうに笑う女童とすれ違った。両親と手を繋ぐのが余程嬉しいのだろう。明るい声は通り過ぎても聞こえてくる。
 漸く朔耶の足は止まった。ここではないと、思った。
「帰るか」
 皐月に向けて言った声なのに、皐月は驚いた顔をしている。朔耶は溜息をつきたいところを抑えて、もう一度言う。
「月の都に。ここにいたって仕方ないだろ」
 愛想のない声音にも皐月は大きく頷いてからにっこりと笑った。なんだか調子が狂う。もうずっと皐月の黒装束姿を見ていない。代わりに彼女は薄紅色のウチキを着ているのだ。見て慣れてはいても、どうにも違和が残る。
「その前に、気は進まないけど戻るか。このままとんずらは、ちょっと気持ち悪いし」
「あ、それは……、気にしなくてもいいかも」
「どういう意味だよ?」
 気が進まないことを敢えて言ったというのに、皐月は何故か濁していた。訝しげに眉を潜めた朔耶に皐月は咳払いをする。
「あぁ、その……。もう話すことは何もないって。追い出されちゃったの」
「はぁ?」
 言いたい放題言った挙句にそれか。
 いささかむっとしたが、朔耶は内心ではほっとしていた。また大簇に会ったとしても確かにもう話すことはない。偉そうに説教されるのは御免だ。
「悪い人じゃないと、思う」
 ちらりと皐月が視線を寄こす。弁護されるまでもない。だから朔耶は素っ気なく応えた。
「知ってるよ。そんなことは」
 記憶の中にある大簇は口数の少ない男だった。父の友人で、何度か会ったことを朔耶は今になって思い出したのだ。少しばかり苦手だったことも。
「帰ったら、どうするの?」
 今度は真っ直ぐに見据えている。だからきっと逃げられない。決めるのは自分だ。
「確かめたいことがある」
 朔耶はそれだけを言った。


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月に叢雲、花に

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