西殿の庭は他に比べれば倍は広いというのに、貴人が入りきらないほどに集まっている。
 余程暇を持て余しているのかと思えば、そうではない。今回の剣舞の会では、まだ月草ではあるが凄腕の刀の使い手がいるという噂がどこからか立ったらしく、その物珍しさにここぞとばかりに集まったようだ。
 誰の仕業であるか。朔耶は考えないようにした。庭へと視線を流したところですぐに止める。見事な見世物になることには違いないだろう。
「緊張するなぁ」
 さっきから睦月はこれの繰り返しだ。
 とはいうものの、口調も表情もまるで伴っていない。狭い控室の中を行ったり来たりが目に付いて鬱陶しい。朔耶はあえて無視をしていた。
 貴人である睦月がこれに参加するのは別段驚くことでもなかった。こういったものには多少なりとも演出が必要らしい。とはいえ、睦月にそれが務まるか否かは別だが。
ボウも出ればよかったのにな」
 話を振られて朔耶は曖昧な笑みをする。
 望月に与えられた役目は貴人達の警護だ。剣舞の会に出るか、それとも警護につくかと問われ、望月は間髪入れることなく後者を選んだのだ。仮にこれが逆で、朔耶が警護につくことになっていれば、愚痴の一つや二つが飛び出ていただろう。これほど退屈な任務は他にはない。
 朔耶は室内をぐるりと見回した。刀の手入れを丹念に行っている者に、禅を組んで精神を集中させている者もいる。そこには見知った顔もいて、朔耶は意外だと感じたが、それ以上の感情は持たなかった。剣舞の会は六人の勝ち抜き戦だ。やるからには負けるつもりなど毛頭ない。どうせ勝ち上がれば当たるのだ。
 名を呼ばれて、朔耶は下腹に力を入れる。「頑張れよ」と睦月のお節介な声が後ろから聞こえたが、それも有難く受け取ることにした。
 どっと沸いた歓声にも朔耶は動じない。まず正面に見える上座を見た。そこにいるのは男人だ。無論、女帝ではない。やはり女帝は病で伏せているという説は本当なのかもしれない。
 男人の毛髪は白く、目元や口元にも皺が目立つ。老人特有の痩躯ではあるが眼光は強い。なるほど。あれが月影だ。朔耶は次にその横へと目を移した。
 およそ十人が似たような姿をしている。直衣の色はそれぞれ異なり、彼らは月卿雲客ゲッケイウンカクだろう。その中には卯月もいる。右には近習たちに守られるように小さく座っている姫君が見えた。隣に座る男は月白ツキシロには見えない。朔耶の知らない顔だった。ただ、蒼の双眸には見覚えがある。
「やあ、朔耶。期待しているよ」
 朔耶は嫌悪を表に張り付けないように気をつける。どうにもこうにも、この人が苦手だ。ここまで何一つ緊張をしていなかったのに、何故か心臓の動きが早まっていた。
 朔耶の前にもう一人が呼ばれた。驚いた。が、しかし予測の範囲内だ。ただ、心の準備はまだ出来てはいない。
「両者とも前へ」
 審判を務めるのは月華門ゲッカモンである十六夜だ。そして、朔耶の対戦相手も――。
「では、はじめ!」
 高々に声が上がる。
 反応は相手の方が先であった。身丈程ある刀を軽々と持ち、朔耶に目掛けて振り下ろす。やや遅れたものの、朔耶も素早くそれを躱し、刀を抜くと、次の攻撃を打ち返す。すぐに手の痺れを感じた。朔耶は飛び下がり、一度間合いを取る。その間に相手は動かなかった。時間を与えているのだろう。
 素早く相手の懐に入り、攻撃を繰り出すも、容易に打ち返されてしまった。だが、その次は来ない。朔耶は相手の目を真っ直ぐに見る。本気で来いと言っている。
 朔耶は鼻から息を吸い込んだ。知らずのうちに唇の端に笑みを刻んでいたのだろう。男は、斬月は、朔耶を見て、満足そうに笑い返した。
 ここでは、上も下も関係がない。上役である自分に遠慮をするなと言いたいのだ。
 残月の太刀筋は、その一撃が重い。まともに受けていたら先に腕がやられるだろう。とはいえ、当たれば痛いでは済まされない。攻撃を避けたはいいが、反撃を繰り出したとしても、弾き返される。しばらくそれが続き、野次にも似た声が飛んできた。
 これに苛立ったのは朔耶ではなかった。翻弄されるだけの朔耶に失望したのか、斬月の攻撃は激しくなる。見切りをつけられたのならば心外だ。朔耶は残月の動きを読んでいた。そして、合間に出来る隙も。
 埒が明かないと先に出たのは、残月だった。渾身の力を込めた一撃を躱したのは紙一重ではあったが、そこを狙う。勝機は避けたその時だけに出来るのだ。朔耶はがら空きとなった残月の肩を斬りつける。辺りに鮮血が飛び散った。
「そこまで!」
 止めの声が入って、朔耶は刀を鞘へと戻す。残月は片膝をつき、顔を歪めている。よく鍛えられている筋肉に阻まれたとはいえ、傷口は深く、出血も酷い。朔耶は手加減をしなかった。否、それは相手の誇りを傷付けることになるのだ。
「お前は、強い」
 残月のその声だけで十分だった。寡黙を理由にろくに話をしてこなかったというのに、斬月は朔耶をよく見ていたのだ。起き上がろうとする残月に、朔耶は手を貸す。残月は満足そうに破顔し、朔耶も同じような笑みを返した。











 飛び交う野次の嵐に、いい加減朔耶はうんざりしていた。
 その気持ちは分からなくはない。待たされているのは朔耶も同じであり、とはいえ好き放題言われるのは面白くはなかった。
 朔耶の次の試合では睦月の出番だった。知り合いといえばそうなので、少なからず贔屓目で見ていたのというのに、睦月はあっさりと負けてしまった。お世辞にも強いとは言えなかったのだ。
 第三試合では上弦が出た。何処かで見たことがあると、朔耶は頭の隅から記憶を引っ張り出して、ようやく思い出した。姫君の近習だ。
 流石は月白を名乗るだけはあって、上弦はなかなか強かった。しかし、当たった相手が悪かった。上弦の対戦相手はとびきりの美男子だったのである。
 上弦が相手に斬りかかる度に悲鳴にも似た声が上がる。貴人の中には女人も勿論いるのだ。少しでも傷を付けようものならば末代まで呪われそうな勢いには、正直同情した。自分でなくて良かったと朔耶は思う。
 観客を味方に付けた相手にも臆することなく打ち勝った上弦は見事なもので、しかし残念な事に傷を負ってしまった。そして、最後に朔耶と上弦とで当たるのだが、上弦の手当てに手間取っているようだ。否、傷自体は塞がっても思ったよりも出血が酷く、上弦は貧血を起こして立ち上がれないらしい。
 せっかくの良い試合に水を差されたとばかりに、観衆は騒ぎ立てる。そこへようやく見えたのは、上弦ではなかった。
「私が、出ます」
 赤い髪の色こそ同じだが、そういう問題ではない。朔耶は一瞬、声に詰まり、けれど思ったままを口にする。
「いや、女を相手には、」
「戦えないとおっしゃるのなら、それは愚弄と受け取ります。私は幼き頃より、兄と共に鍛えてきました。相手に不足は無いはずです」
 口調は丁寧なものの、きつい眼差しで睨まれて、朔耶は少しばかり動じた。観客からもひそひそ話が漏れている。「女人が剣舞の会に出るなど」とか「案外、面白くなりそうなのでは?」など、まるっきり他人事だ。
 腕に覚えがあるのは認める。でなければ姫君をとても守れない。
 だからといって、朔耶がここで相手をするとなれば話はまた変わってくる。戦うからには手加減はしない朔耶でも、女人相手に流石にそれは無理だ。ざわめきが耳に五月蠅い。下弦の目は怖い。朔耶は救いを求めるべく、十六夜を見た。
「いや、次は私が相手になるよ」
 いつもの涼しい表情の中に笑みが見える。
「冗談、でしょう?」
 朔耶は言う。
 嘗めている訳ではない。それは十六夜にも朔耶にも言えることだ。だからこそ、信憑性がない。
「十六夜様!」
 当然、非難の声はする。下弦に向けて、十六夜はもう少し柔和な笑みを向けた。
「少し、盛り下がってしまった。これでは貴人達は満足しないだろう」
 いくらか窘めるような声音だった。下弦はすぐに引き下がる。本気で戦えない朔耶と下弦では、良い試合にはならないことは明らかだ。
「それに、こういうことも必要だ。これからはね」
 含むような言い方は気に入らない。朔耶は無意識に目に力を入れていた。
 ある程度の演出が必要なのは言うまでもない。貴人達を黙らせるにはそれしかないのだ。けれど、これはどこかでこうなることを予測していた上での結果であるとすれば、それは当然十六夜の思惑によるものだ。
 十六夜は上座に座る月影に赦し乞う。しばしの空白の後に、月影の声は返ってきた。何も問題はないと十六夜は付け足す。朔耶はどうも腑に落ちないままでいた。
「では、こうしよう。君がもし勝ったなら……」
 十六夜は朔耶に近付く。
「君のご両親のことを教えてあげよう」
 耳元で囁かれた言葉に、朔耶は目を瞠った。
 ああ、そうだ。こういうところが嫌なのだ。
 どうせ選択権など朔耶にはない。十六夜は表情を変えないままだ。その余裕の笑みがいつまで続くのか、見ものだ。痛い目に合うのはそっちだと、朔耶は心の中で落とした。
「審判は私が務めよう」
 名乗り出たのは卯月である。突拍子もない弟の発言を少しでも和らげるためか、月卿雲客であるにもかかわらず、請け負うというのだ。
「感謝します。兄上」
 良く出来た演出にほとほと感心する。
 さて。ここで勝つのが正しいのか。それとも、惜しまれる敗北が正しいのか。答えは決まっている。だから、これから朔耶が選ぶのは非難を浴びることだろう。
 十六夜は構えたままで動こうとはしなかった。こちらの出方を伺っている。あるいは、甘んじて最初の一撃は受けるつもりか。随分と見縊られたものだ。
「こないのなら、こちらから行くよ?」
 返答を待たずに、はじまった。
 朔耶が速いと感じた時には、切っ先がもう目の前だった。仰け反るような形で躱し、追撃はそれを許さない。朔耶は目で追うよりも、ほとんど自身の反射に任せていた。受けた刀は思ったよりも重たく感じる。
 ただの貴人の坊ちゃんではない。相手の力量が見えない愚か者ではなくとも、見た目で判断していたことを朔耶はいくらか反省する。
 金属音が鳴り響き、激しい打ち合いになっていた。両者ともに、一歩も引かない。一進一退の攻防は、上座に座る月影も、月卿雲客も、観衆達も、審判の卯月でさえも息を呑むほどに釘づけとなっていた。
 強いと思った。これまでに戦ってきた相手、月人ではない相手をも含めて、誰よりも強い。一瞬たりとも気を抜けばやられる。互角であるように周りの目には見えても実際には異なる。徐々に押されているのは朔耶だ。
 例え先の戦闘がなかったとしても、十六夜の動きは朔耶の上を行く。その証拠に、肩で呼吸をする朔耶に対して、十六夜は顔色一つ変えないままだ。それが余計に朔耶の焦りと苛立ちを煽っている。
 負けたくはなかった。ここまで挑発されて、自尊心が傷ついていたのも事実、一泡吹かせてやりたいとは、もはや考える余裕すらない中で、朔耶は本能のままに動くのを止めた。
 打ち合いを弾き返して、朔耶はもう一度間合いを取る。呼吸を整えながら、血が上った頭を落ち着かせていく。
 ちらりと、嘲笑うような顔が視界に入り、朔耶はなかったことにした。冷静さを取り戻したところで、相手の動きを復習する。
 まさに剣舞の会に相応しい優雅な舞のような動きだ。形に添ったものだけではなく、朔耶のような多彩さもある。流れるような身のこなしは受けるのに精一杯になる。だが、いつまでも続けてはいられない。攻めるしかない。こちらから。
 朔耶は再び攻撃をする。
 一撃は躱され、二撃は受け止められ、そこからまた激しい打ち合いとなる。それでも、朔耶は手を緩めない。腕力ならば自分が上だ。一撃が入ればそれで決まる。しかし、隙が何処にもないのだ。あらゆる方向から打ち込むも、十六夜の素早い動きはそれを躱し、または弾き返される。朔耶はとにかく集中して、それを見つけることに必死になった。
 防御を攻撃に変えた十六夜の打ち込みに、直感で躱すのにも限界が来ていた。体力が尽きるのが先か、斬られるのが先か。そして、ついに躱しきれずに、刃は狩衣を切り裂いた。赤が舞う。痛みを実感するよりも早く、朔耶は動き出す。連鎖攻撃の後には必ず、息継ぎがあるのだ。これを逃せば次はない。
 犠牲にした左腕に構わず、朔耶は利き手を振り下ろす。最後の攻撃だった。
 その時、目が合った。何度も見てきた蒼の眸だった。
 瞬間的に足元から入り込んだ冷気は背筋を伝う。まるで凍りついてしまったかのように朔耶の腕も、脚も、そこから動かない。否、時が止まっているのだ。
 声は出てこない。息も出来ない。瞬くことも、指も、何もかもが、固まってしまっている。かろうじて動いた頭を朔耶は必死に動かしていた。
 例えようもない恐ろしさがそこにはあった。朔耶の知らないものだった。その冷たさとは。その恐ろしさとは。それが、意味するものは――。絶対的な死以外になかったのだ。
「あ、れ……?」
 かろうじて出した声はすぐに消えた。
 湿った重い咳が出てきて、朔耶は口元を抑える。手の平は瞬く間に一色に染まった。鼻を刺激する臭いで、それが自身の血であることを朔耶は理解する。脇腹の辺りに違和を感じた。火にくべられているかのように熱く、脈打つものがやけに大きく耳の中に聞こえる。痛みを感じたのはその後だ。
 やがて全身へと伝わり、痺れを伴う痛みに吐き気がしてきた。刺されたというのを、患部に触れてから朔耶は気がつく。滴り落ちる血が止まる気配はなかった。目がかすんでくれば、耳鳴りもする。視界が狭くなるにつれて、目の前がぐらりぐらりと揺れていた。
 何が、起きたのか。
 声に出そうとして、そこでぷつりと朔耶の意識は消えた。
 
 
戻る  最初  

月に叢雲、花に

Design from DREW / Witten by 泡沫。 / 2015.11

inserted by FC2 system