すっかり遅くなってしまった。
 板張りの床が軋む音を立てていても、皐月の急ぐ足は止まらない。幸い、女房の姿も見えないので、見つかったところで叱りを受けることもないだろう。ただでさえ皐月は月白ツキシロになったばかりで何かと目を付けられているのだから、これ以上は目立ちたくはなかった。
 それにしても、姫君には随分と気に入られてしまったようだ。
 有難いことではあってもどこかむず痒くもある。姫様相手だというのに、つい地が出てしまったのがいけなかったのだ。反省するべきところでも、その姫様がもっと自然に話して欲しいと頼み込むのだから逃げようもない。
 きっと、寂しいのだ。姫君は籠に入れられた鳥のようだ。自由に外に出ることもままならず、共を連れていたとしても宮殿内を行くことも限られている。
 それどころか、ここ最近は部屋から出ることも叶わないという。同情してはならないと、皐月は自身を戒める。どんなに姫君を気遣ったところで、皐月に出来ることなど、こうして話し相手になるくらいだ。それならば、せめて姫君を少しでも喜ばすことがしたい。月白であるという立場に関係はなく、皐月個人の気持ちから、そう思うようになっていた。
 いくら姫君が離してくれなかったとはいえ、長居をし過ぎたようだ。苦言を呈するわけではなかったが、下弦の表情に呆れが含まれていたので、皐月は逃げるように立ち去った。その後、十六夜の元を訪れてはみたものの、彼はちょうど席を外したところで会えず仕舞いで、そうこうしているうちに遅くなってしまったのだ。
 そういえばと、皐月は思い出す。
 反女帝派のくだりはその後どうなったのだろう。
 貴人による武器買占めの件を報告しても、十六夜は特に顔色を変えなかった。予測の範疇であったと、そう言わんばかりの態度であったのだ。
 あれに関わっていたのは月卿雲客ゲッケイウンカクである長月だ。女帝の側近としては言わずもがな、自他ともに厳しい人物であり、揉め事を嫌う穏健派だ。その長月が裏で何を企んでいるのか。皐月には皆目見当もつかないし、そのくだりにしてもヨウとしてつかめないままだ。
 戦は嫌いだ。何もかもを失ってしまう。
 皐月は運が良かっただけだ。父と母を失って、身寄りが無くなっても、十六夜に拾われて、ここまで生きて来られたのだから。
 思慕の念を抱くのはごく自然なことだった。その人の力になりたい。その人に恩返しがしたい。皐月が願うのはそれだけだ。身の程知らずな稚拙な感情など捨ててしまわなければならない。分かってはいるのに、皐月の心の中からはすんなりとは出て行ってくれないのだ。
 皐月の足はそこで止まった。
 目の前の色が朱から別の色に変わっている。そこにあるのは黒だ。だがそれは東殿のようなただの黒ではなく、そこに混じる金や紅の色が麗しい空間であった。
 しまったと、皐月は思った。ここは足を踏み入れてはならない場所である。すぐさま引き戻そうとして、同じ造りが続いていること気が付いた。どうやら思考に深く入り込んでいたらしい。挙句は迷ってしまったなどと、仮にも隠密部隊にいた身だというのに他人が聞けば呆れるだろう。
 引き返そう。とにかく、ここから先には進めない。
 こうなれば勘だ。元来たのが分からなくても、左右のどちらかを選べばいい。よし、右だ。皐月は再び歩き出す。
「あら? 随分と早いのね。爽麻ソウマ
 急に聞こえてきた声に、皐月の心臓は飛び跳ねた。
 御簾の向こうから良い香りが漂ってくる。香のにおいだ。夕映ユエ姫のものとは違って、もう少し麝香が強く、それでいて気高さと気品が感じられた。おっかなびっくり皐月は振り返る。
「どうしたのです?」
 声は女人のものだ。細く高い声ではあるが、どこか色気のあるものだった。
「ち、違います! ごめんなさい!」
 咄嗟に否定をし、皐月はそこから逃げた。
 見てはならないものを見てしまったような気がする。聞いてはならない声だった。
 望月のように頭が切れるわけでもなければ、朔耶のように機転がきくわけでもない。それでも、その声は爽麻と呼んだのだ。婚約者である夕映姫ならばともかく、他の女人が敬称も無しに呼ぶなど、有り得ないことだ。
 心なしか顔が熱い。息も苦しくなる。何らかの関係性、それも男女の間柄のものであると、容易に想像が出来て、皐月は何も聞こえなかったと自分に言い聞かせる。けれど、皐月はそこから逃げることは出来なかった。
「何をしている?」
 低い声が響いたと同時に、皐月は背中に冷たいものを感じた。しばし間を空けて同じ声は続いた。
「ここで、何をしている? と聞いている」
 皐月は応えない。否、応えることが出来なかったと言った方が正しいだろう。
 声を忘れてしまったかのように、喉からは出てこなかった。舌の上で空回りして、唇を動かすこともままならず、立ち尽くしたままになる。
 相手が月卿雲客だったからではない。その人が爽麻だったからではない。皐月は蒼の双眸から目を逸らせずにいた。
「どうした? 何を黙っている?」
 気圧された皐月に爽麻は問う。声を返すことが出来ないのを分かっていて問うているのか、あるいは――。
「何事ですか?」
 気配などなかった。けれど、彼はそこにいたのだ。動けない皐月と爽麻の間に割って入る。当然、それには疑惑が向けられた。
「ここに立ち入ることは許されないのだが?」
「申し訳ございません、爽麻殿。しかしながら、私を呼んだのは他でもない月影様。そして、彼女は私を迎えに来たのでしょう」
 なにかがおかしいと、皐月は感じていた。
 ここにいる人は皐月の良く知った人だ。見間違えることはない。だが、こんなにも滔々と述べる様は見たことがない。口調にしてもどこか険が残る。
「彼女は北殿に入るのがはじめてだったのです。広い宮殿内であれば、いささか迷うこともあるでしょう。何か、不都合でもあるとおっしゃるならば、別ですが」
 ここまで饒舌なことがあっただろうか? 相手が月卿雲客であろうとも、臆することもなく、それどころかこれは挑発だ。
 空間が冷え切っている。皐月は自身の意思で呼吸をすることもままならずに、このやり取りを見守るしか出来なかった。焚き付けられても爽麻の表情は変わらずに、口元だけを動かしてそれに応える。
「何を思い違いしているのか分からないが、あれは私の身内の者だ」
「なるほど。弥生ヤヨイ殿は、貴方が隠しているのですね」
「そう思うのであれば、好きにすればいい」
 言葉を発する度に周りの空気が震えている。張りつめた緊張の中、彼はにこりと笑った。
「これは失礼しました。出過ぎた真似をお許しください」
 そのくせ、あっさりと引き下がる。これにも爽麻は別段咎めることはしない。
「気をつけて帰られよ」
 それだけ言って、立ち去って行った。
 弥生というのは先程の女人の名であるのか。されど、爽麻がそこへと向かったようにも見えず、その姿が完全に視界から消えた頃に、やっと皐月は力が抜けた。
「皐月?」
 声を合図に、皐月は膝から崩れ落ちた。暫くは呼吸に喘いで、それから足に力を入れても動かず、腰も上がらなかった。
「す、すみません……。腰が、抜けて……」
 全くもって情けない。
 こんなにも間抜けな自分は今日限りで卒業したい。目を合わせようとしない皐月に彼は声を上げて笑い出した。
「い、十六夜様っ!」
 抗議しても無駄のようで、十六夜はしばし笑い続けた。
 最大の失態である。皐月はここから逃げ出したくなった。もっとも、足が動かないので不可能ではあるが。その皐月の前に何を思ったのか十六夜は片膝を付く。
「ひゃあ!」
 女人らしからぬ声が出た。それも急に身体が宙に浮いたのだから取り繕う間もなかった。
「あああ、あの! あ、歩けます! 自分で、歩きますからっ!」
「暴れると落ちるけど?」
 ぴたりと皐月の動きが止まる。これ以上、恥をかくのはごめんこうむりたい。
 皐月を抱きかかえるその腕は、女人のように細いというのにどこにそんな力があるのか。せめてもう少し痩せておきたかったなどと、乙女の繊細な心はきっと読まれてはないだろう。










 起きてみたのはいいものの、どうにも身体が重くて仕方がない。
 これならば横になっていた方が幾分かはましだというのに、なかなか寝付けないために朔耶は無理やりに身体を起こしたのだ。
 熱を帯びた身体には冷えた空気が気持ちいい。勝手に坪庭に入るのは少しばかり気が引けたが、少し酔いを覚ますくらいならば許されるだろう。
 それにしても、と朔耶は思い返す。あの睦月という貴人は変わっている。それも相当だ。
 多少は戸惑ったものの、もてなされたことには気を悪くしないし、贅を凝らした善に舌鼓を打ったまでは良かった。しかしその後が問題だったのだ。
 用意された酒を一口飲んでみて、朔耶は目を丸くした。これまで口にしたものがただの水だったと思うほどに濃厚で、言うまでもなく上手い。とはいえここは貴人の邸であり、上役の邸でもあるのだから、流石に自重をするというもの、飲んだ横から並々に酒を注がれてしまえば断るに断れなくなった。
 睦月に翻弄されたのはそれだけではない。彼は早々に酔いが回ってしまったのだ。まずそれに捕まったのが望月である。
 酒が入ると相手に説教を延々と続けるのが睦月の特徴らしく、望月は上手く躱していた。これは何度も経験済みだったようだ。構ってもらえない睦月は標的を朔耶に変える。肩に腕を回されて男同士密着するのは暑いし、鬱陶しい。早く解放されたくなっても、睦月の話はなかなか終わらなかった。
 そのほとんどが睦月達の話で、その中で朔耶が気になったのは十六夜のことだった。どうやら兄弟で彼だけが母親が違うらしい。
 まだほんの小童コドモの頃に父親がどこかから連れて来たようだが、父親は自分の子だとも他人の子だとも言わなかったという。どう返したらいいのか分からずに、黙り込んだ朔耶に睦月は苦笑する。それでも十六夜は弟には変わりないのだと、嬉しそうに言ったのだった。そして、皐月も如月も、十六夜が連れて来た小童だという。
 幼き頃の自分に重ねたのか、それは朔耶の勝手な想像ではあるとはいえ、皐月にしても如月にしても、ああいった言動の裏を知ったような気がして、少し後ろめたくなった。
 人には誰だって言いたくない過去の一つや二つくらいあるのだ。勿論、睦月に悪気はないし、二人にしてもそれを苦にしているようには見えない。囚われているのは自分だけか。朔耶はそれをすぐに忘れた。
 睦月が酔い潰れてようやくお開きになった。その間の卯月といえば、差し障りのないような笑みで見守るだけで、関わろうとはしなかった。
 もしかしたら三兄弟の中で、一番食えないのはこの卯月という人なのでは? と、朔耶は警戒心を抱いたのはここだけの話である。「泊まっていきなさい」と声を掛けられたのは正直に有難かった。睦月みたいに悪酔いはしないが、朔耶も相当な酒を飲んでいたので素直にここは甘えることにしたのだ。
 それも、布団に入ってしまえば眠気はどこかに消えてしまった。そういう繊細な心の持ち主ではないというのに、一度目が冴えるとどうにもこうにも寝付けない。
 音立てないように戸を開けて、こっそりと抜け出すのなど泥棒にでもなった気分だ。運よく誰にも会わずに坪庭まで来れたので、朔耶は思い切り伸びをする。一つ深呼吸をして、朔耶は卯月の言ったことを思い出していた。
 卯月の言伝というのは、他でもない十六夜からのものだった。ある程度は予測出来ていたので朔耶は驚かない。多忙な弟に代わってわざわざ伝えに来るくらいだから、何とも出来た兄であるとしか思わなかった。しかし、その先はまた話が別だった。
 剣舞の会。それに出席をしてほしいというのが十六夜の頼みである。これは頼みという名の命令に近い。
 そもそも剣舞の会というのは、腕に覚えのある者達が得意な武器を持って競い合うものだ。それだけならば言葉は随分と良いもので、実際は違う。会は宮殿の西殿で行われ、そこには貴人が多く集まるのだ。
 要するに暇を持て余した貴人達の娯楽である。見世物になるのは面白くはない、と言っても無下に断れないのも事実。二つ返事で朔耶は受けた。
 流されている気がする。
 朔耶は乱雑に頭を掻いて否定はしてみるも、ともかく月草という身分にあればどうすることも出来ないのだ。
 現状に満足しているか否かと問われれば前者だ。けれどそれでは朔耶の目的はいつまでたっても果たせない。偽って生きていくのはある意味楽だ。余計な事を考えなくていい。それでいいのかと、朔耶は問う。答えはまだ出ないままだ。
 朔耶は腕を擦る。流石に身体が冷えて来たので戻ることにした。前に進めようとした朔耶の足はすぐには動かなかった。誰かの声が聞こえたからだ。
 見つかったらまずい。客人として招かれたはいいが、好き勝手に行動をしていいとは言われていない。朔耶は緊張しながら歩いて行き、あろうことかばったりと出会ってしまった。
「お前……、如月、か?」
 予想外であったのはお互い様だ。相手はまさか朔耶がここにいるとは思っていなかっただろうし、朔耶にしても突然飛び出て来るとは思わなかった。それも、泣きながらだ。
「なんで……」
 ここにいるのかと訊きたかったのか。それよりも見られたことを恥だととらえたのか。そこで切られて顔を背けられてしまった。
 意外であるとは言わない。はじめに会った時のような、すました表情もなければ、どこか人を馬鹿にしたような口調もない。朔耶よりも小さい肩は小刻みに震えている。朔耶は喉の奥に声を仕舞い込んだ。別段仲良くもない間柄だ。慰めの言葉など不要だろう。
 墨で塗り込めたような黒の世界が広がり、その中の沈黙は居心地の悪いものだった。
「なにも、言わないのか?」
 くぐもった声はすぐに闇に消える。朔耶は如月の顔を見ないまま、少しだけ間を空けて応えた。
「聞いてほしいのか?」
 返事は返ってはこない。
 どちらだろうなと、朔耶は思う。このまま何も見なかった振りをするのがいいのか。いや、それはあまりにらしくない。
「お前、両親は?」
 如月の肩が反応する。触れてほしくはないことだったのか。だけど、外に出た声は取り消せない。
「知らない」
 突き放す物言いではあったが、隠しているようには聞こえなかった。
「俺は、この家で育った。十六夜様に育てられた」
 たぶん、いつもならば聞かない。
「そうか……」
 他人の事情を聞いたところで、朔耶は共感出来るとは思わない。自然と唇が動いていたのだ。
 朔耶は心の中で溜息を落とす。懺悔のつもりか。それも分からなかった。
 視線に気がついて、朔耶はそこへと目を向ける。同じ紫紺の眸があった。
「夢を視る。未来が、視える」
 戯言をいうような性格ではないのを、この短い間でも朔耶は理解している。口調もはっきりしているから尚のことだ。如月は続ける。
「真っ白だ。何もない。全部、なくなってしまう。そして、そこにはあの人はいない」
 得心がいった。如月が涙を流すとしたら、それは一人のためだ。朔耶は記憶を手繰る。夢見という存在に覚えがあった。文字通り、彼らが夢で視たことはいずれ現実となるのだ。
「あんたは、きっと死ぬ」
 迷いのない言い方だった。
 朔耶は目を瞬いた後、声を上げて笑った。偽りでも脅しのつもりでもないだろう。如月の表情は変わらないままだ。
「それも視えたのか?」
 沈黙が返ってくる。つまりは、それが答え。
 朔耶は拳を広げて、しばらく見つめていた。月草の任務に危険はつきものだ。場合によっては命を失うこともある。それは覚悟の上だ。惜しくはないといえば嘘にはなるが、そう易々とくれてやるほど自身の命は軽くはない。
 月人は長寿だ。三百年、五百年、あるいは千年と生きる。それが他の月人よりも、少し早いだけなのか。だが、如月は近い将来のことを言っている。
「悪いが、俺は占いとか、そういった類のものは信じない」
 他人に人の生を決められるなどまっぴらだ。
「気には、留めておく」
 朔耶が笑んでも、如月は無を突き通したままだった。可愛げがない。それでも忠告としては受け取っておく。どうせ、失うものなど他にはないのだ。
「俺は、手離してしまった。お前は手離すなよ」
 朔耶は如月の頭をくしゃくしゃになるまで撫でる。黙って従っていたものの、それもやがて嫌になったのか如月は振り払った。
「偉そうにいうな」
「お前よりは、長く生きてるからな。年長者の言葉は有難く受け取れ」
 ようやく如月らしくなってきた。
 嫌がられても、もう一度朔耶は如月の頭に触れた。
 

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月に叢雲、花に

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