さて。何故にこのようなことになったのか。
 それにはまず、この場所を説明することからはじめなければならない。
 板張りの間はただ広いだけで、別段物珍しいものがあるわけでもなく、あえて言葉にするならば殺風景だ。円座ワロウダの上に座っているとはいえ、同じ体勢でいるのは流石に疲れてきた。そもそもが堪え性のない性質タチである。
 朔耶は隣の男を横目で見たが、相も変わらず無を徹しているために面白味も何もなかった。この男は他人と喋らずとも生きていけそうだ。一段と落ち着き払っているように見えるのも、望月の育ちが良いからで、彼もまたこのような場所にて育ってきたからに違いない。とはいえ、ここは望月の邸宅の二倍の広さなのだが。
 流石は貴人の邸で、大きな門扉の前には当然の如く衛兵が待ち受けていた。
 勿論、招かれたのだから特に問われることもない。そこから一歩足を踏み入れただけでなんとまあ、朔耶の語彙ではとても表現出来ないような美しい庭が待っていたのだ。
 全てを計算され尽くした演出であるともいえよう。豊かに育った緑の鮮やかさにまず感動し、普段は目にすることもない素晴らしい色彩を誇るのは花々であり、景観を損ねることもなければ完璧な世界であった。
 邸宅の造りにしてもそれは同じで、古めかしい中にも荘厳さが垣間見える。月の宮殿と比べるのも可笑しな話ではあるが、それに劣らないだろう。渡廊を進むうちに、いちいち感動するのも疲れて来たので、やたらと見回すことを朔耶はやっと止めたのだった。
 そんなわけで、朔耶が今いるのは十六夜の邸宅である。
 正確にいえば彼には兄がいるため当主ではないのだが、ここへとわざわざ呼び出したのは、十六夜その人だった。どのような要件があるのかは皆目見当もつかない、しかし朔耶はとにかく嫌な予感がしていた。案の定、待ちぼうけを食っているので尚更である。
 月鬼の一件以来、何かと目を掛けてもらっているには違いないだろう。それが良い意味ばかりではないと朔耶は踏んでいた。
 あの十六夜という人は頭が切れる。口が立つわけでもないのに、相手に嫌とは言わせない雰囲気を持っているのだ。朔耶が苦手だと自覚するまでに左程の時も掛けなかった。その理由にしても明確なものはない。ただ苦手である。
 貴人の邸であり、更には上役の邸であるからには、まさか勝手にうろつくことなど出来るはずもない。出された白湯を時間を掛けて飲んで、後は時をもてあますだけだった。
 目を閉じればすぐにでも眠りこけてしまえるほどに静かではあるものの、そこまでの度胸は流石の朔耶にもなかった。それでも生理現象として欠伸は出る。隣の男の視線があまりに冷たく思えたので、朔耶は口を半開きで止めた。その時だった。大きい足音が聞こえてきたのは。
 童のような遠慮のない音であったために、朔耶は驚いていた。貴人の邸で衣擦れの音は聞こえたとしても、これほど豪快な足音はないだろう。それがぴたりと止まったかと思えば、次は大声だ。
ボウ! 久しぶりだな。元気にしてたか!」
 両の手で耳を塞ぎたくなる大きさである。
「貴方は変わりありませんね」
「そらそうよ! これが俺の取り柄だからな」
 がはは、と。見ていていっそ気持ちの良いくらいに大口を開けて笑う。円座もなくそのままどっしりと腰を下ろせば、男はいきなり胡坐をかいた。
「それは、何よりです」
「なんだよ。そう、真面目くさった顔をしなくてもいいだろう? なんなら、昔のように兄ちゃんって呼んでくれても構わないのに」
「結構です」
「遠慮するなって」
「貴方は少し遠慮というものを持たれた方がいいのでは?」
「言うねえ。そういうのも嫌いじゃないけどな」
 おお、なんだかよく分からないが珍しい。
 しばし呆気に取られてはいたものの、朔耶は冷静に二人を観察していた。望月が辛辣な言葉を投げる相手は決まっている。九割方は朔耶に対してでも、貴人相手に棘を含ませるのは稀だ。旧知の仲のようには見えるとはいえ、それにしてもだ。
「で。お前が朔耶だな」
 急に矛先を変えてきた。お前呼ばわりと、人を指差す言動には若干の苛立ちはあったが、朔耶はそれらしい表情を作る。
「俺は睦月ムツキだ。まあ十六夜の兄だ、って言った方が早いかな」
「兄って……」
 似てないんだな。朔耶は正直に思った。
 端麗でどこか女性的な面立ちの十六夜の顔を思い出して、次に目の前の睦月という人を比べる。
 背丈は高くもなければとりわけ低くもなく、朔耶とそう変わりはしないもの、がっちりとした体格は勇ましい。とはいえ、地味な浅葱色の直衣の裾の方は解れているし、どこで汚してきたのかところどころに染みもある。もう一度、顔へと朔耶は視線を戻してみても、面立ちはなんていうか普通だ。けして醜男ではないけれど、整っただとか耽美であるなどの言葉はどうやっても出てはこない。癖のある黒髪にしてもそうだ。
「似てないって、思ったんだろ? 正直なやつだなぁ」
 しまったと朔耶が思った時には、もう読まれていた。ただし、睦月は気を害したわけでもないようで、今度はにやにやとしている。
「よく言われるからな。別に気にしてないし、お前みたいな正直なやつは好きだぜ」
 いや、男に好かれても嬉しくはない。
 朔耶はこれ以上心を読まれないように、目を明後日の方へと向けた。それにしても、この睦月という人は変わっている。少なくとも貴人には見えない。変に偉ぶっているところもないし、気安いだけがそうではないにしても、親近感を持ったのも確かだ。
 広間に睦月の笑い声が響いている。終わる頃になって、もう一人が部屋に入って来た。
「まったく、騒がしいことだな」
 年長者の落ち着きのある深い声だった。
「兄貴、帰っていたのか」
「ああ。頼まれ事を預かってきたのでな」
 また兄弟が増えた。物珍しいわけでもないのに朔耶は二人の顔を交互に見比べた。
卯月ウヅキは俺と十六夜の兄だ。俺は次男で、十六夜は三男」
 それは、見ればなんとなく分かる。とはいうもの、ここまで三者多様な兄弟はそういないだろう。
 穏やかな雰囲気と長い黒髪は十六夜に似ている気もするもの、面立ちは兄弟のどちらにも似ていない。美形は美形でも、女性のような美しさとは異なり、剥き出しの猛々しさも見えない好感の持てる顔だ。
「卯月だ。弟が世話になっているようだね」
 ええ、それはとても。とは、言えなかったので、朔耶は曖昧な笑みを浮かべて誤魔化した。
「卯月様。御無沙汰しております」
「望月か。確かに久しいな。このところ忙しくてな。なかなかゆっくりと帰ることもままならない」
 卯月は苦笑する。無造作に括った黒髪に艶はない。それから目元や口元に皺が目立つ。声を聞く限りではまだ若いというのに、疲労がそうさせるのだろうか。
「兄貴は月卿雲客ゲッケイウンカクなんだぜ。ま、俺はお前と同じ月草なんだけど」
「胸を張って言うことではないだろう。お前はもう少し精進せねばならない。自覚を持て」
 厳しい一言にも睦月はぺろっと舌を出して聞き流している。卯月は眉間に手を添えて何やら小さく唸っていた。
 なかなか飽きないやり取りではあるとはいっても、そうではない。朔耶をここへ呼び出した本人が現れないのであれば、話が進まないのだ。それは望月も同じだったらしく、彼は場を動かすための咳払いをする。卯月はやっと次を紡いだ。
「ああ、そうだ。待たせて済まなかったな。君達に伝えるべき事があったのだ」
 どうせ良からぬものに違いない。朔耶の嫌な予感はここでも見事に当たるのだった。
 










 大丈夫。落ち着きさえすれば何の問題もない。
 皐月は念仏のように何度も心の中でそれを唱えているものの、残念ながらそれは逆効果であった。これが二度目ではあるとはいえ、その最初に大変な粗相をやらかしてしまったが故に、次は余計に身構えてしまうのだ。
 出された白湯はさほど熱くなく、どちらかといえば温い。零してしまったとしても火傷をすることのないようにという、その配慮に情けなくなってくる。
 皐月の緊張などお見通しなのか、それともこれが普段の通りであるのか、姫君は可愛らしい笑みを絶やさずにお喋りを楽しんでいるようだ。
 火鉢から漂ってくる良い香りもそれに拍車を掛けている。ほのあまい中にも瑞々しさがあり、鼻腔を満たす度に訳もなく胸が高鳴ってしまう。
 皐月には縁のないものだからこそ、これに話を振られた時にはそれはもう焦ったものだ。年頃の娘としてのたしなみか、それとも高貴な生まれの人たちの間だけなのか。それすらも分からない。香の種類など問われたところで答えられるわけがなかった。
 皐月は膝の上で手を組み合わせてみたり、解いてみたりを繰り返している。
 流石に姫君の前で黒装束姿のまま出るわけにはいかない。薄紅色のウチキを着るのも随分と久しぶりだ。
 これを着た時には、少しだけ普通の女童に戻ったような気もする。けれど御帳台におわす姫君の蘇芳色の単衣の何とも素晴らしいこと。非の打ちどころがない。自身と比べてしまうなど恐れ多いのに、それでも何となく落ち込んでしまったのもまた事実。
 ここにいるのはただの女童と深窓の姫君。それが、どうして自分が選ばれたのか。それは少し前に話を遡ることになる。
 姫君の失踪の後、月白ツキシロの一人が責を問われたと聞いた。それが多少なりとも皐月が関わった女童の玉輪ギョクリンだと知ったのは、だいぶ後ではあるが、とにかく人手が足らないということで、皐月に話が回ってきたのだ。
 月白、つまりは姫君の近習になるということだ。当然、これには驚いた。話を持ちかけたのが十六夜でなければ、率直に断っただろう。
 皐月が得意とするのは情報収集などの隠密行動、他には月鬼退治といった、いわば男仕事だ。それも全てはその人の役に立ちたいがために、選んだ道だ。
 姫様の付き人などとんでもない。朔耶あたりからは教養がないから無理だと笑われそうで、それも否定はしない。だとしても、これは十六夜直々の頼みであったので、二つ返事で皐月は応じたのだった。
 さて、月白になったからには色々と覚悟をしたものの、皐月の予想に反して難しいことは一つもなかった。
 それも正確にいえば嘘にはなり、しかし姫君の話し相手であれば小童コドモでも出来ることだ。幸い、夕映ユエ姫は自分から色んな話を聞かせてくれるので、皐月はそれに相月を打つだけ。時折、返答に困ることがあっても、夕映姫と話をするこの時は嫌いではなかった。
 姫君の話には興味深いものもたくさんあった。夕映姫が幼い頃から付き従っている上弦ジョウゲン下弦カゲンの兄妹の話。二人とも口煩いのだと、頬を膨らます姫君を見て、皐月は思わず笑ってしまった。
 婚約者である爽麻ソウマのこと。あまり感情を表には出さないけれど、笑った顔は本当に優しいのだという。
 月卿雲客である爽麻の顔をはっきりと見たことはなくても、皐月の持っていた印象とは違っていたので、それは意外だと思った。それから、夕映姫の口から何よりも多く出てくるのは十六夜の名前だ。
 姫君の心に気が付かないほどに、皐月は人の情に鈍くはない。憧憬に近い口調で話す夕映姫は一段と美しく見えるのだ。切ないよりも、悲しいよりも、もっと別のものに皐月は支配されそうになる。自分の知らない彼の話を聞く度に嫉妬をし、そしてそんな自分に嫌気が差した。
「もしも、あの方舟を使うことが出来たなら、そうしたらあの星に行くことだって出来るのに、残念だわ」
 姫君は余程あの彼方の星のことがお気に入りのようだ。この話の最後にはいつもこのような呟きをする。
 皐月には方舟がどういうものであるか想像がつかない。舟というからには川を渡るようなものを考えて、星を行き来すくらいだからもっと大きいものなのか。そんなものがこの月の宮殿の地下に眠っているなど思えないのだ。
「お伽話、ではないのですね……」
 機嫌を損ねないように、小さめの声で皐月は問う。
「勿論よ。十六夜がそう言うんですもの」
 確かに、彼の言うことならば夕映姫でなくても皐月でも信じるだろう。それよりも皐月が気になったのはその先だ。
「でも、どうして二つの星の交流はなくなったのでしょう?」
「それは……」
 途端に悲しい顔に変わった夕映姫を見て、いけないことを言ったのかと皐月は焦る。夕映姫は一旦視線を外して、胸の前に手を当てて、それからどこか言いにくそうに紡いだ。
「争いがあったのです」
 争い。その言葉は皐月の胸を強く締め付ける。
 たくさんの人が死んだのだろう。たくさんのものが失われたのだろう。思い出したくはない。皐月は何も見たくはないと目を閉じて、何も聞きたくはないと耳を塞ぎたくなった。
「大丈夫です。もう、争いは起きませんわ。母上がこの月を守って下さっているの。だからこの先も、ずっとずっと壊されることはありませんわ」
 慰められている。
 皐月が十六夜に拾われた孤児であることを知っているのだろうか? それとも、母親を心髄しきっているために出てきた声なのだろうか?
 曖昧に浮かべた笑みはぎこちないもので、心配そうに見つめる夕映姫の眸が痛かった。
「そうだわ。わたくし、皐月のお知り合い……いいえ、お友達にお会いしましたわ」
「えっ、私の、ですか?」
 夕映姫は急に話題を明るい方へと変えた。予期せぬことだったので皐月はそれに驚いたものの、全く心当たりはない。夕映姫は少しだけ悪戯っぽく笑う。
「朔耶って、とっても綺麗な眸をしていますのね」
「はい?」
 思わず変な声が出てしまった。
 何でよりによってあいつが? と、言いたいところを皐月はどうにか抑えている。
「本当に少しだけどお話しをしましたの。とっても楽しかったのよ」
「そ、そうですか……」
 何か失礼なことを言ってなければいいけども。
 余計なお世話だと言われんばかりの心配をする。あまり嬉しくなさそうな皐月の反応に、夕映姫はきょとんとしていた。そしてしばらくした後に、ぽんと手を叩いた。
「まあ、ごめんなさい。お友達ではなくて、大事な方でしたのね。でも、少しお話しをしただけで、特別な意味はないんですのよ」
「ち、違いますっ!」
 全否定する。
 お友達でもなければ大事な人でもないし、誤解をされるような関係ではない。それなのに皐月の頬は見事に赤く染まっていた。
「そうなの? 浮かない顔をしているから、てっきり……」
「あいつは、ただの同僚です。なんにも、ありませんっ!」
 最早言葉に遠慮もなかった。夕映姫は納得したようなそうでないような顔をしたままだから、皐月は慌てたが、これ以上余計な事を言うのもより誤解を招きそうだ。
 なんでよりによって、あいつが。
 何故だか苛々してきた。知らない女童と公衆の面前で抱きあっていたというのに、全くの思い違いをされるとは心外だ。いや、姫君に悪気はない。悪いのは全部あの男だ。
「ねえ、朔耶って少し似てませんこと?」
 一人憤慨している皐月に、秘密を漏らすように夕映姫は言った。
「に、似てる……?」
「ええ。如月に」
 思いもよらぬ名前がもう一人出てきて皐月は目を瞬く。少なくとも二人の顔は似ていない。あえていうならば、生意気な性格と口が達者なところだ。
「なんだか雰囲気が似ている気がしましたの」
 うーん、と。皐月は唸ってみる。どこかこじつけのような気もしなくはない。皐月は頭の中で二人を並べてみた。しばし考えてみたところで、遮るように声は聞こえた。
「悪口を言うなら、本人のいないところでしてもらいたいんだけど?」
 ほら、やっぱり生意気だ。
 次いで来た冷たい目線に皐月は肩を竦めた。そして、ここで気が付いた。銀に混じった紫の髪の色も、紫紺の双眸も。意識してみれば二人は同じ色をしている、と。


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