疲れた。
 口こそには出さないが、先程から何度となく朔耶はこれを繰り返している。
 確かに命のやり取りをしたのだから、それに見合った疲れは身体に蓄積はしている。が、それよりも、あの姫君と話しをするのが妙に緊張してしまい、肉体的よりも精神的疲労の方が大きい。
 あの貴人の邸に行ったことが、その日のうちのことだったとは思えないほどに、色々あり過ぎたのだ。幸い、上役への報告は望月が行ってくれた。腹は減ってはいるものの、もうこのまま家に帰って大の字で寝たいのが朔耶の本音である。
 なんていうか、ここ最近は自身の身の回りが目まぐるしい気がする。というよりも、巻き込まれている気がしてならない。それもあの人に会ってからは、特にだ。
 都大路を歩きながら、朔耶は道行く月人ツキヒトにも聞こえるく大きな溜息をついた。
 望月のようなことなかれ主義までとはいかなくとも、朔耶もまた身の丈に合わないようなものは望まない。急激な変化には戸惑うばかりだ。その目的があったとしても、普段は心の奥底に沈めているだけで、朔耶自身本当にそれを望んでいるか否かはどうともいえないのだ。
 手掛かりはない。きっかけもない。例え、それらが明白だったとしても、自由に動けるほどの身分を朔耶は持たない。
 逆に、持ちさえすればいいのか。朔耶は自身に問う。
 幼き眸に見えたのは炎だ。赤い炎は全てを焼き尽くした。朔耶の全てを奪っていった。だから朔耶には何もない。だから朔耶は今も一人だ。
 気がついたときには望月の家で暮らしていた。不自由なく生きて来られたし、望月はとにかく無口ではあったが、共に学んだ日々は朔耶にとって楽しい時間であった。孤独ではなかったように思う。少なくとも寂しい思いはしなかったのだ。それでも朔耶には父がいて、母がいた。失くしてしまったのではなく、奪われた。奪った者がいる。つまり、それが――。
 物思いに更けていた朔耶の足が急に止まった。見覚えのある姿が目に入ったからだ。
 女童は橋の勾欄コウランに半ばもたれ掛かるようにして、ぼんやりと下を見ている。朔耶が近づいて行っても、女童は微動たりともしない。虚ろな眸はそのままだ。
 いや、まさか。朔耶は嫌な予感がした。女童の上体が動いた瞬間、朔耶はその腕を掴んでいた。
「おい! 冗談だろ?」
 その下にはいわずもがな川がある。流れは緩慢で水深は浅い。だからといって身投げする奴がいるか! 叫びたい衝動を朔耶は抑えていた。
「あれ……? 朔耶、さん?」
 女童は驚いた様子で朔耶を見上げて、それにしては表情が硬い。
「あんた、玉輪ギョクリンだろ? なにやってるんだよ、こんなところで」
「なにって? その、川を見ていたんです」
 それは見れば分かる。
 問題はその先だ。先に会った時とはうって違い、玉輪の顔に明るさはない。だから心配になったのだ。
「どうしたんですか? そんなに慌てて」
 逆に問われてしまって、朔耶は言葉に詰まる。ひょっとして、早とちりであったのかと思うと、申し訳なさが先に立つ。朔耶はやっと玉輪から手を離した。力加減をする間もなかったので、痛かったかもしれない。
「いや、あんたの方こそ。宮殿から出てきてもいいのか?」
 何気ない一言だったはずだ。それなのに、玉輪はわっと泣き出してしまった。朔耶がびっくりしたのはそれだけではない。玉輪は朔耶の胸の中に飛び込んで来たのだ。
 通り過ぎる月人の視線がこの上なく痛い。痴情のもつれとでも思われたならば心外だ。大きな声で泣きじゃくる玉輪に朔耶は慌てふためくばかりで、両の手は情けなく宙に浮いている。そこで、目が合った。
「あっ」
 声も同時であった。二人は同じ顔をしていた。
「いやっ、これは違うんだ。なんていうか、その」
「お、お邪魔しましたっ!」
 朔耶の言い訳めいた声に動揺したままに、深々とお辞儀としてそこから逃げるように立ち去っていく。
 朔耶は皐月の名を呼ぶも、彼女は振り向きさえもしなかった。誤解だと、いっそ大声で言ってしまいたかったが、皐月に誤解をされたとして別段特別な関係でもないので、朔耶は痛くも痒くもないのである。それなのに妙に落ち着かない。この引っ掛かりを探るよりは玉輪をどうにかせねば。しかし、わあわあと泣く玉輪はしばらく収まりそうもなかった。
「ごめんなさい……」
 すっかり目を腫らした玉輪に、朔耶の口の端は引き攣っていた。一張羅は涙の跡で大きな染みが出来ている。
「いや、いいんだけど、別に」
 思ってもないことを言うものではない。声音が伴っていないから余計に玉輪は申し訳なさそうに俯いた。
「ああ、気にしなくてもいいから! それよりも、何かあったんだろ?」
 また泣かれては困る。朔耶はもう少し口調を和らげた。玉輪はすんと鼻を啜り、それから二呼吸を空ける。
「お払い箱になっちゃいました」
 他人事のように言った玉輪に朔耶は目を瞬く。
「ええと、つまり?」
 いまいち頭の回転が鈍い朔耶に、玉輪はわざと大袈裟な仕草をしてみせた。
 ああ、クビってこと。
 理解はしても、経緯を問うても良いものかは迷う。勾欄に置いた玉輪の小さな手も震えている。
 そうか、月白ツキシロだったんだ。朔耶はここで理解する。姫君の失踪に直接関わっていないにしても、事情は知っていた。となれば、玉輪は責任を問われたのだろう。
「あのさぁ、もっと上の人に相談してみれば、もしかしたら撤回してくれるかも。たとえば十六夜様とか」
 すんなりとその人の名が出てきたことに驚いたのは朔耶だ。とはいえ言葉は取り消せない。玉輪は首を横に振った。
「いいえ。十六夜様は庇ってくれていたそうなんです。でも、どうにもならなくって」
「なんだよ。だとしても、姫様の失踪にはあんたは無関係じゃないか」
「でも、誰かが責任を取らなきゃならないんです」
 怒ったところで仕様のないことは分かっている。けれど、朔耶は納得が出来なかった。これでは玉輪ただ一人が擦り付けられているみたいだ。それにどこか見せしめのようにも見えて、気が苛立つ。
「いいんです。それに、この間の月鬼のこともあって」
「あれだって、別にあんたのせいじゃ、」
「いえ、それは……」
 玉輪は言いにくそうに口を噤んだ。何故、ここで話が更に遡るのだろう。
 そもそも月鬼に憑りつかれる月人は無差別だ。だからそれには非は無いはずで、けれど玉輪の言い方には思い当る節があるようにも聞こえる。
「北殿に入ってしまったんです。いけないことだとは、分かっていたんですけど……」
 朔耶などの月草はまず立ち入れなければ、それは月白であろうと同様だ。月卿雲客ゲッケイウンカクでさえも、むやみに出歩くことは許されない、更に言えば姫君である夕映姫が身を置くのは西殿。つまりはそういうことだ。
「なんでまた……」
「好奇心です。ちょっとした」
 これは流石に擁護出来ない。
 ちょっとしたでは済まされない事なのだ。それと月鬼の件がどう結び付くのかは謎ではあるが、玉輪が罰せられるには十分な理由にはなる。
「北殿の奥には開かずの扉があるんです。それを見てみたかったのと、もしかしたら会えるかなって……」
「会うって、誰に?」
月華門ゲッカモン様とか、月卿雲客様とかに」
「はあ……」
「十六夜様にはお会いしたことはありますけれど、お話したことはないんです。それに、月卿雲客の爽麻ソウマ様は夕映ユエ姫様の婚約者で、だから、一度は見てみたいなって」
 乙女の好奇心とやらが朔耶にはさっぱり分からない。
 声の調子が戻っているから本当に反省しているのか怪しいところだ。涙に嘘はないとしても、女の武器とかいうからには油断出来ない。朔耶はこめかみを抑えていた。溜息も出てこなかった。
「それで、会えたのか?」
 とりあえず聞いてみる。
「いいえ。扉も見ることは出来ませんでしたし、途中で話声が聞こえて慌てて隠れたのでお顔までは……」
 さぞ残念そうに玉輪は言う。しっかりと目で見ておけば良かったのに。ここぞとない好機だったのだから。
「あのう、目って何のことだと思います?」
 唐突な方向転換に朔耶は首を捻る。目は目以外の何物でもない。
「あの時、そう言っていたんです。必要なのは黄金キンの目だ。それさえあれば扉は開く、って。扉って、開かずの扉のことですよね?」
 さもありなんとばかりに言われても返答に困る。開かずの扉のことも、目のことも、朔耶は興味がないし、関係がない。
「さぁ? 俺に聞かれても。それより、よくそこで見つからなかったな」
「ああ、それは……」
 玉輪は視線をずらした。ここへきてまだ後ろめたいことがあるのか。
「その後の記憶はないんです。気が付いていた時には寝かされていたので……。だから、その時に月鬼に」
 苦笑いする玉輪に朔耶は何か引っ掛かりを感じていた。そんなに急に月鬼に憑かれるものなのか? 釈然としなくとも、その間の記憶の抜けおちた玉輪に問うたところで意味はないだろう。朔耶とて、月鬼の全てを知るわけでもない。
「でも、いいんです。すっきりしました。私は実家に帰ります。でも、良かったらまた会って下さいね」
 吹っ切れたらしい。立ち直りの早さに朔耶は感心した。玉輪は朔耶とは反対の方へ帰るようだったが、彼女が橋を渡り終えるまでは朔耶は動かなかった。
 大丈夫、だろうと。確信はなかったものの、見届けるまでは念のために。
 帰りながら、朔耶の頭の中には様々な単語が行き交っていた。月華門に月卿雲客、女帝派に反女帝派。それから月白に姫君に。月鬼に、まだ他にもあったような気がしても、引っ張り出してまでは考えたくはない。厄介事が増えている気がする。いや、確実にそうだ。そして朔耶はまた後日、同じことを繰り返すのであった。










 宮殿に帰ってからというもの、夕映姫の機嫌は一向に良くならなかった。
 一つ一つ言葉を選んでから小言を口にしているのは分かるし、下弦カゲンの言いたいことも、その気持ちも理解は出来る。そういう役目にあるのも知っている。けれど、譲れない意志は夕映姫にもあるのだ。
「せめて、私達の誰かを共に連れて下さい。こともあろうにお一人で出られるなど危険過ぎます」
 出来ればそうしたかった。言葉とは裏腹に気遣うような下弦の声音もすんなり入ってこないほどに厭わしい。夕映姫が膝の上で固く作った拳は解かれることはなかった。
 立場上厳しい事も口にしても、下弦はけして叱りつけるような真似はしない。優しく諭すような口調は姉が妹に掛ける声にも似ている。御帳台ミチョウダイがなければ、もう少し近くにいられたのかもしれない。
「言ったわ。下弦にも上弦にも。けれど、二人とも許してはくれなかったでしょう?」
 下弦の事は好きだ。困らせたくはないけれど、我儘を言いたい時だってある。
「それは……」
 また隠し事ならば、もううんざりだ。このせかいには夕映姫の知らないことがたくさんある。否、知らないことの方が多いのだ。
「月鬼が現れるからでしょう? でも、わたくしは見たこともないのよ」
「宮殿内は女帝の加護を特に受けております。ですから、」
「いいえ。外だって同じよ。これまでだって、なんにも危険なことはなかったわ」
「それは、十六夜殿の御守りがありますゆえに……。ですが、万が一ということもあります。それに、なりよりも」
「もう、いいわ。聞きたくない」
 夕映姫は胸元に手を当てる。単衣の下には首から下げた勾玉があり、それは夕映姫の宝物だった。
 呪術が込められていて、持ち主を危険から遠ざけてくれるという。真朱の色が良く似合うと十六夜が贈ってくれた物。それは大事な思い出の一つだ。
 ここからいなくなれば、もしかしたら捜しに来てくれたかもしれない。稚拙な願いなど届かないと分かってはいるのに、何度となく淡い期待ばかりを繰り返してしまう。
 ぷいと顔を背けた夕映姫に下弦は本当に困った顔をしていた。夕映姫は自身を恥じる。これではあまりにも幼稚な姫君だ。
 すっかり冷えてしまった白湯を飲みながら、自分を落ち着かせる。消えることのない燈台に、見慣れた几帳キチョウ文机フヅクエに鏡台に、装飾された品々にしても、何の感慨も沸かないもので、侘しいだけだ。宮殿の外どころか内でさえも、自由に歩くことも出来ない。閉じ込められているだけ。だから、こんなにも――。
「息が詰まりそうになるの」
 一人でに唇からは零れていた。
「ひめさま……」
 憐れむような声ではなかったけれど、夕映姫は余計に惨めな気持ちになっていた。
 姫君の耳には入れまいとしているのだろう。それでも噂話は届いてしまうのだ。
 殺伐とした空気に気が付かぬほど夕映姫は幼くはなかった。恐ろしくもある。次いで出てこようとするのは不安ばかりだ。下弦の唇が動いてはいたが声になるまえに止まる。衣擦れの音が聞こえて、戸の向こうにいる者が誰かをすぐに察したようだ。夕映姫はほとんど無意識に背を正していた。
「あまり下弦を困らせてはなりません」
 耳に心地の良い低音が聞こえる。彼は下弦が用意した円座ワロウダの上に腰を下ろすと、そのままの声で続けた。
「今の宮殿の事はよくご存じでしょう。独りよがりな行動は、貴女の身を危険に晒すだけです」
 表情にも声にも険はない。しかし、その目は強い。あの蒼の双眸に見られるだけで、夕映姫はわけもなく身体が強張るのだ。元来、緊張をするような相手ではない。彼は、そう遠くない未来に夕映姫の夫になる月人だ。
「はい……。貴方にも、心配を掛けましたね。爽麻ソウマ
 反駁しかけた夕映姫は、しかし違う言葉に変えた。今の表情がどう彼の蒼の眸に映っているか。考えれば少しだけこわくなる。ここに御簾があって良かったと、夕映姫は思った。
「お一人で、一体どちらへ?」
「それは……」
 分かっていて、それでもあえて聞いている。あの場所を教えてくれた人は二人いる。爽麻が話題を変えたのは、それ自体を咎めるつもりはなかったのだろう。
 月卿雲客である爽麻は、誰の目から見ても、申し分のない才を持っている。またその造詣にしても女人ならず、男人も目を奪われるほどだ。
 通った鼻梁も彼の美しさの一つであり、身に纏う装束も麗しく、真紅の羽織からは高潔さも感じ取られる。すらりと伸びた背もその美しさを増長させ、人を魅了するだろう。何よりも惹きつけられるのが彼の蒼の眸。あの彼方の星を思わせる色だ。
「今しばらくご自重なさって下さい。良くない流れが続いています故に。それも、じきに収まるでしょう」
 それはいつまで続くのだろう。
 胸に過った疑問を夕映姫はなかったことのように、奥へと押し戻す。逆らうつもりにはなれなかった。
「何も怖れることはないのです。ご安心ください」
 彼の言葉は不思議な力がある。意志とは別に、受け入れてしまえるのだ。
 不安とも恐れとも違う。声に出せないような複雑な何かは確かに存在する。夕映姫は爽麻の眸を見たが、すぐに逸らしてしまった。彼が何を考えているのかが分からなかった。そして思う。その蒼の眼は、自分ではなく、何処を見ているのだろう、と。


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月に叢雲、花に

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