「いなくなった? 姫君が?」
 一仕事終えて、返ってきた朔耶に出来ることといえば、上役に速やかに報告をするだけだ。ところがそうもいかなかった。残月の部屋に入るなり、朔耶はすぐに違和を感じ取った。
 嫌な予感というものはとにかくよく当たる。普段ならば報告の際でも文机フヅクエに背を向けたままで、こちらをちらりとも見ない残月が朔耶達の帰りを待っていたのだ。ああ、これは厄介事だ。朔耶でなくともそう思うだろう。
 寡黙な残月の話すことはただでさえ歯切れが悪い。それも体格に似合わぬような小声でぼそりと零すものだから、余計に分かりにくいのだ。朔耶はつい声に出して訊き返していた。隣の望月がすかさず咳払いをする。
「ええと、つまり、姫様が自室にもおられず、西殿のどこを捜しても見当たらず、ひらたくいえば行方不明と?」
 だからそれをみなまで言うなと。
 残月と望月の顔が渋い顔に変わっていることに、空気の読めない朔耶は気が付かない。今度は望月に肘で小突かれた。
「……そういうことになる」
 力なく応えた残月の声に、これは相当な厄介事であると朔耶は悟った。それに望月が続く。
「十六夜様はこれをご存じ、いや、十六夜様の依頼なのですね?」
 またあの人か。朔耶は心中でぼやいた。問いに残月は頷くだけだった。
「しかし、私達は西殿に入ることは出来ない身であります。捜索にあたるにしても制限が多過ぎるのでは?」
 まず質問すべきところはそこではないが、朔耶も望月には同意見だ。残月は小さく唸った後、更に小声になる。
「それに関しては問題ない。西殿にはおられない。そのために、」
「成程。宮殿外を捜せということですね」
 朔耶の疲れが更に増していた。望月も同じだろう。
 粗方の流れは把握した。女帝の一人娘である姫君が行方不明であれば、宮殿内は大騒ぎになっていてもおかしくはない。ただでさえ宮殿内には微妙な空気が漂っているのだ。
 女帝派、反女帝派などという派閥が存在している中で、姫君失踪はこれに波風を立てることになる。公にはしたくはないだろう。極秘の依頼であることは理解した。が、荷が重すぎやしないかというのが朔耶の率直な意見である。
 それ以上のことは残月の口から出てこなかったので、早々に諦めて朔耶達は部屋を出た。姫君のお守のようなことならば皐月の方が向いているに違いないが、生憎のところ彼女は十六夜の元へと報告に行っているためにいないのだ。皐月もそこで事情を聞いて捜索には加わるとしても、これは手分けして捜せということ。
 朔耶が横の男の顔を盗み見ても、変わらずの無のために全くもって読めなかった。とはいうものの、望月の足は動き出していた。どうやら考えがあるらしい。朔耶は黙ってそれに続く。
 行き着いた先は西殿にほど近い坪庭で、そこで朔耶は青糸車をはじめて目にした。
 それもそのはず、朔耶には縁のない乗り物だ。望月が舎人トネリに何やら質問をし、しかし舎人はどの質問にも首を横に振るだけで、納得のいく回答は得られなかったようである。とはいえ、望月は妙に得心のいった顔をしていた。
「で? なにか分かったのか?」
「いや、姫君は青糸車を使わないらしい」
 そりゃ、今ので分かるだろ。
 突っ込みを入れたところでこの男には流されるだけだ。朔耶は声を呑み込む。その後ろから、
「あのう、ちょっと、いいですか?」
 女童の声だった。同時に振り返った朔耶と望月の顔を交互に見て、女童は笑んだ。
「えーと、どちらさまで?」
 なるべく嫌悪を出さないようにしつつも、声には出てしまった。ただでさえ面倒なことになっているのに、これ以上は御免だ。女童は気にした素振りを見せずに笑顔のままで答える。
玉輪ギョクリンです。ほら、貴方達に助けて頂いた」
 つい先日のことなのに忘れてしまったのですか? と言わんばかりの物言いに、朔耶はしばし思考する。名前に聞き覚えは、ある。顔にも見覚えは、ある。確か……。
「ああ! あの時の、月鬼の、」
「そうです。その節はお世話になりました」
 玉輪と名乗った女童は深々とお辞儀をする。世話をかけたのはこちらの方だとは言えなかったので、朔耶はどうともいえない表情をするしかなかった。一方の望月は朔耶の大声と玉輪の介入を良く思っていないらしく、一段と眉間に皺が寄っていた。
「それよりも、ちょっと、こちらへ来て頂けますか?」
 ぐいと、腕を掴まれて、人気のない方へと連れて行かれる。ただの女童だと思っていたのでこの力の強さに朔耶は戸惑う。玉輪はきょろきょろと辺りを見回して、他の月人がいないことを確認してから話を続けた。
「もしかして、姫さま、またいなくなっちゃいました?」
 朔耶はぎょっとした。小声とは言えども、しっかりと耳には届いている。
「なんで、それを」
「ああ、やっぱり」
 玉輪は手を合わせた。かまを掛けられていたとすれば、今の朔耶の返答は完全に失態である。
「あ、大丈夫です。他言しませんから」
 当たり前だろう。
 玉輪の笑みに悪意は見えないが、朔耶は肩の力が抜けた。と、ここであることに気がつく。『また』ということはこれが一度目ではない。ということは――。
「心当たりがあるのか?」
 半ば詰め寄るような形で問うたにもかかわらず、玉輪は「はい」と答えた。ただの宮仕えの女童の言うことを、安易に信用するほど朔耶は不用心でもなければ、逆に好意を無下にすることもしない。望月にしても沈黙を守っている。有益な情報を得られるとみたらしい。朔耶は玉輪の声を待つ。
「姫さまは、あの場所がお気に入りのようでしたから、何度もお話し下さったのです」
「あの場所?」
 聞き返した朔耶に玉輪は再び笑みを作った。










 これほどに静謐セイヒツに満ちた場所を朔耶は他に知らなかった。
 ただ、そこには黒があるだけだ。音もなければひかりも存在しない。
 念のために松明を持って来て正解だった。目は慣れていても、こういった場所こそ奴らは好む。うっかり出くわしたなど疲れる事案は出来るだけ避けたい。それと同時に危惧するのは、このような危険極まりないところへわざわざ訪れたいという姫君のことであった。
 姫君でも逃げ出したくなるのか、または相当な変わり者か。玉輪の言葉に嘘は見えなかったが、しかしこうなると神妙性も薄まってくる。
「本当に何もないな。逢引きでもされるつもりなのか?」
 それはそれで面倒が増えるだけだ。言いながらも朔耶はそうあって欲しくないと思っている。
「いや、そうでもなさそうだ」
 僅かに笑みが見えて、朔耶はあからさまに不審の顔をした。それには応えずに望月は歩き出す。
 ここは月の都の北東部。都大路をひたすらに北へと進めば、華やかな中心部の喧騒も聞こえて来なくなり、貴人の邸宅もなければ、庶民の家さえもない。手入れを全くされていない木々の間をすり抜けて、そうして待っていたのは更地だ。宮殿からも距離はかなりある。とても女人が歩いて行けるとは思えない。それも深窓の姫君ならば尚更だ。
「これは……」
 斜面を登りきったところで、朔耶は思わず感嘆の声を上げていた。朔耶の目に映っているのは青く浮かぶ球体である。緑色や茶色があれば、白い渦のようなものも見えた。それより何よりも目を奪われるのは青だ。
 美しいと。ただ美しいと思う。これほどにはっきりと見える場所は他にはないだろう。朔耶はしばし時を忘れていた。
「まあ。先客がいらっしゃいましたわ」
 だから、背後の気配には気が付かなかったし、声を聞いたところで、それが誰のものなのかも分からなかった。朔耶は振り返り、理解する。危うく松明を落っことしそうになっていた。
 色鮮やかな緋色の織物を羽織った人がただの女童であるわけがなかった。市女笠から下がった薄い衣を手で押さえながら、彼女はこちらへともう少し近づいて来る。ふわりとやさしい香りが漂っていた。
「ここは、わたくしのお気に入りの場所ですの」
 親しい友に向ける口調に朔耶は戸惑うばかりで、声が一つも出てこない。彼女はたのしそうに笑い、市女笠の隙間から覗く眸はきらきらと輝いていた。双眸に宿る色は黄金キン。朔耶が見たことのない色だった。
「ねぇ、お名前を教えて下さらない?」
「は? ええと、俺の、ですか?」
「そう。貴方の」
 彼女は朔耶を下から覗き込むようにして笑みを向ける。目を合わせてはならないと朔耶はとっさに背けるも、その無邪気な言動に少々気圧されていた。
「俺、いえ、わたくしは、朔耶でございます。ええと、その月草の、」
「まあ! 貴方が朔耶なのですね。お会い出来て嬉しいわ」
 しどろもどろで可笑しな言い草にもかかわらず、声は一層甲高いものになっている。なんで、知っているんだ? という疑問はたったが、訊いてみる勇気は朔耶にはなかった。
 先程から鼻腔を満たす良い香りに、胸が高鳴っているのもなんだか気恥ずかしい。背の丈は玉輪よりもまだ低く、声音もどこか幼く聞こえる。しかし、この方は朔耶よりもずっと年上だ。確か、そうだったはずだと朔耶は記憶を辿った。
「それもここをご存じだなんて。そうだわ。お願いすれば良かったのね」
 月の宮殿では騒ぎになっているというのに、当の本人は害してない様子である。
「わたくし、どうしてもここに来たかったのです。それなのに、下弦カゲン上弦ジョウゲンも揃って駄目って言うんですの。意地悪でしょう?」
「はあ……」
「ですから、こっそり抜け出してきましたの。一人で」
 それは存じております。
 捜しに来た朔耶の苦労も素知らぬ顔で彼女は続ける。
「ちょっとだけ、怖かったけれど。でも、いい運動になりますのよ」
 大した御方だ。朔耶はこうなれば苦笑いするしかなかった。こういう時に助け船を出してくれない望月を恨めしくも思う。無を決め込んでいて全くの無視だ。とはいうものの、皆がその身を案じている中で、これほど能天気なのは面白くはない。ここははっきりと物を言うべきだ。朔耶は腹を括る。
「お気持ちは分かりますが、宮殿内は大変な騒ぎになっております。貴方様を捜すのに皆がどれほど苦労しているか、」
「あら? でも『行ってきます』と書置きを残しておいたのよ?」
 そういう問題じゃない。出鼻を挫かれて、朔耶は早くも心が折れそうになる。
「ですから、勝手な行動を取られると迷惑なのです。ましてやお一人で出られるなど」
「お願いしても、駄目の一点張りでしたの。仕方がないことでしょう?」
「それは、宮殿の外が危険だからです」
「危険から守って下さるのが、貴方達のお仕事なのでしょう?」
「そ、それは、そうですが……」
 駄目だ、これは。
 朔耶は盛大に溜息をついていた。高貴な方の前であろうとお構いなしだ。彼女に悪気はないのだから余計に話が拗れる。いや、それはもういい。とにかく連れて帰ろう。それで事は終わる。
「ねえ、こんな言い伝えをご存じかしら?」
 朔耶の胸中など知る由もない。身を乗り出すようにした彼女に朔耶は慌てた。その先は崖だ。怪我でもされたら、ただでさえ大事なのに、笑い話では済まなくなる。
「ええと、なんでしょう?」
 仕方なく朔耶は聞き返した。得意げな顔は可愛らしいこの人だからこそ許せる。
「ずっと、ずっと昔のはなしです。あの青い星とこの月とは交流があったのです」
「交流?」
「はい。行き来する事が出来たのですわ。月人ツキヒトは青い星からの客人を招き入れて、同じように青い星の人々は月人を受け入れてくれたのです」
「はあ……」
 話についていけなくなった。朔耶は自分でもびっくりするほど間の抜けた顔をしていたが、取り繕うことも、二の句を継ぐことも出来なかった。
「でも、わたくしはいつかまたあの青い星に行くことが出来ると思いますわ」
 お伽話を素直に信じる小童の姿そのままだ。純粋な眸に濁りはない。少しだけ憐れな気がしてきて、朔耶は思ったことをそのままに問うた。
「なぜ、今は行くことが出来ないんですか?」
 彼女はきょとんとした顔をする。それでも間を長く空けずに紡いだ。
「それは、今は方舟が――」
「姫様。お迎えが来たようです」
 遮ったのは望月だ。
 背後から近づいて来るのは青糸車を引く数人の舎人に、赤い髪をした一組の男女。男人の方が早足で近づくなり、姫君の前で腰を折った。
夕映ユエ姫様。遅くなりまして、申し訳ありません」
 女人もそれに続けば、ここまで楽しそうだった夕映姫は急に表情を変えた。
「もう少し、いいでしょう?」
 声には哀願が混じっている。
「なりません。お戻りになられないと」
「分かったわ」
 顔を上げないままに制した女人に夕映姫はそれだけ言った。朔耶は何となく居心地が悪くなり、出来るだけ目を合わせないように努めている。女人が夕映姫に手を差し伸べて、そしてようやく姫君が歩み出す。朔耶はそれを眺めているだけだったが、ふいに声を掛けられた。
「また、お話ししましょうね」
 市女笠の間から笑みが見えた。先程まであんなに楽しそうであったのに、今はどことなく悲しみが覗く。
 普段の朔耶ならば「いいえ、それは無理です」と明け透けもなく言ってのけるだろう。残念ながら二度とお目に掛かることもない。何しろ相手は姫君だ。曖昧に浮かべていた愛想笑いは虚しいだけだった。その朔耶の前で男人は背を曲げる。
「朔耶殿、望月殿。有難うございます」
 それだけ言って去ってしまった。「有難うございます」が何のことだか朔耶にはさっぱりだ。されど、青糸車が遠ざかるのを見ながら、朔耶はどうとも言えないような気持ちになっていた。
「兄の方は上弦。妹は下弦。あの二人は月白ツキシロだ」
 別段、説明を求めていないもの、望月の言葉に朔耶は納得する。月白。つまりは姫君の近習キンジュウだ。なるほど、と朔耶は口の中で呟く。あれではお付きの者は大変そうだ。と、それよりも――。
ボウ。なんで黙ってたんだよ」
 恨みを込めて朔耶は言う。それには不敵な笑みが返ってきた。
「説教をする役目は俺にはないからな」
 

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月に叢雲、花に

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