先程から沈黙が流れ続けている。否、完全な無音というわけではない。声がないだけだ。
 上役である残月ザンゲツはひたすらに筆を進めている。報告書を綴っているのか、巻物の厚みはどれだけ増しても終わる気配がない。文机フヅクエに向かったまま、斬月がこちらを向くこともなければ、話し掛ける用もないので、朔耶サクヤの口も動かなかった。
 朔耶は隣をちらりと見る。畳の上で禅を組んでいるのは望月モチヅキだ。表情は全くの無であり、指先一つぴくりとも動かない。まるで石のようだ。
 朔耶は胡坐の上で頬杖をつく。生憎、行儀の悪さをわざわざ指摘する者などここにはいない。視線の先は眠ったままの女童メノワラワだ。
 規則的に呼吸の音が聞こえ、それに合わせて上体が動く。強めに起こせばすぐ目覚めそうにも思えてもそういうわけにもいかない。女人相手に乱暴な真似をするわけにもいかないし、何より只でさえ厄介な事になっているのに、これ以上大きくしてはならないのだ。
 朔耶は立ち上がった。それにはすぐに声が下りる。
「何処へ行くつもりだ?」
 望月だ。目は開いていないくせに、全てお見通しらしい。
「いや、ちょっと、厠へ」
 嘘ではなかった。そのくせ、妙に言い訳染みている。だから朔耶は返事が返るよりも早く、そこから逃げ出した。
 渡殿ワタドノを左に抜けて用を足しても、朔耶の足は戻ろうとはしなかった。
 あんなとこにいたら息が詰まって死んじまう。やっと解放されたとばかりに朔耶は腕を伸ばし、ついでに肩も運動させる。月鬼に噛まれた手に、太腿に、痛むといえば痛むが我慢出来ないものではないし、血も止まっている。別段、手当てしなくても、唾でもつけておけば治るだろう。
 板張りの床は朔耶が歩む度に軋む。もっとも、ここは月の宮殿内でも身分を問わずに立ち入ることが出来る東殿で、祭事や政が行われたり、貴人達が身を置いている西殿であれば、造りも異なるため、こうはならない。
 身分にしても掟にしても、面倒なものだと朔耶は思う。自分の身はわきまえているつもりだ。それ相応にも以下にもならないことは分かっているし、望んだりもしない。ただ、煩わしいだけだ。されど、それらがなくては月の都は成り立たない。千年以上も続く、この安寧秩序はそれによって守られていることも理解はしている。
 月の女帝が治める月の都。女帝を支えるのは月影ツキカゲに、月卿雲客ゲッケイウンカク月華門ゲッカモンがいて、月琴ツキコトがいて、そして月草ツキクサである朔耶達はそれに従うのだ。そうして守られているものがある。そうして造られているものがある。生まれながらの身分は変えられるものではない。
 月人ツキヒトは長寿であり、三百年を生きてようやく成人として認められる。朔耶は成人しているものの、まだ若人であった。
 三百歳となり、成人をし、そして求められるのだ。商人の家の子は商人となり、医者の子は医者となる。だが、月の都に住まう月人ならば、そのほとんどがはじめから道を決められている。女帝に仕えることが定めであると言ってもいい。それが、掟の一つでもある。
 朔耶に両親はいない。成人するよりも前に、二人とも亡くなってしまった。兄弟もない。
 寂しいという感情は持たなかった。朔耶が孤独にならなかったのは、まだ幼かった朔耶を引き取り、育ててくれた人がいたからだ。望月はその人の子であった。歳も近く、性格は正反対ではあったが、仲良くなるには理由は要らなかった。
 望月の父親は朔耶のことも本当の子のように扱ってくれた。望月とともに武を教え込まれ、学を学び、やがて成人をし、月草となり、宮仕えをする。望月の父親はそれをけして強制するような人ではなかったけれど、朔耶は自ら望んだ。恩返しのようなものだった。
 ああ、また嘘をついてるな。
 朔耶は心中で呟く。この宮殿の中には女帝を心から崇拝している者もいるかもしれないし、それが定めであると否定することもないだろう。朔耶は違う。義務感などではなかった。
 朔耶には目的がある。そのためにここにいる。心に根付いた感情は捨て去りようもなく、泥のように纏わりついては離さない。それでいいのだ。忘れることなど出来ないのだから。
 そこで朔耶は我に返った。顔を床ではなく、もっと上に上げてみれば、景観が様変わりしていることに気が付いた。しまったと、思うも遅い。知らずのうちに西殿にまで来てしまっていたらしい。
 勾欄コウランの向こうには豊かな色彩が見える。東殿のような雑然とした坪庭とは違って、全てが計算尽くされた景色だ。色づく花々のそれは美しいこと。美や感性に疎く、たいした興味を抱かない朔耶であっても、しばし見入ってしまうほどにそこは素晴らしかった。
 それだけではなく、建物自体も別のものに見える。床も柱も、梁にしても洗練された朱の色が麗しい。東殿ではただの墨のような黒であるのに西殿は趣が違う。
「ここは、あんたみたいな人が入っていい場所ではないんだけど?」
 下から聞こえてきた声は朔耶を現実へと引き戻すには十分だった。
 何かの言い訳をしようかと、一瞬朔耶は考えては見たものの、何も出てこなかった。それよりも、目の前にいる童は朔耶よりも大分背が低く、女人のように痩せている。着ているものも貴人には見えない。
「なんだ、このこまっしゃくれた餓鬼は」
 毒は毒で返すのが一番だ。
 確かに西殿は迂闊には入れない場所である。だからと言って、こんな童に言われたくはない。
「大人のくせに、黙って待つことすら出来ないの?」
 朔耶の額に青筋が立っていた。
 いや、落ち着け。相手は年下だ。それにここで騒ぎ立てるには分が悪い。大人になれ。朔耶は繰り返す。
 童はきつい眼差しを朔耶に向けている。双眸の色は紫紺で髪の色は銀の中に紫が混じったもの。どこかで見たことのある色にもかかわらず、苛立ちが先で朔耶はそれに気が付かなかった。その後ろから、くすくすと笑う声が聞こえてくる。
「初対面の人とは、もう少し仲良くするべきだよ。如月キサラギ
 如月と呼ばれた童は、声の主に振り返る。むっつりと作った表情はそのまま、しかし幾分か和らいでいた。
「その必要がありません」
 愛想の欠片も入ってはいないというのに、尚も笑う声は続く。
 なんなんだ? なんで勝手に話をはじめてるんだ?
 沸き立つ疑問と不信感。朔耶が嫌悪を作っているそのまた後ろから、もう一人。
「ちょっと! なんで、あんたがここにいるのよ!」
 それはこっちが聞きたい。
 皐月サツキの怒鳴り声に、朔耶は終いには溜息をつきたくなった。もしかしたら厄介事を増やしてしまったのかもしれない。朔耶は部屋を抜け出してきたことを今更後悔する。普段であれば、もう一言二言くらい皐月の説教が飛んでくるはずだ。それがないのは、その人が皐月を制していたからだった。
 朔耶と如月の間へと割って入り、そうして笑みを作り直して、その人は言った。
「はじめまして、朔耶。私は十六夜イザヨイだ」











 朔耶は目を瞬いていた。
 言っていることは分かる。が、しかし、結びつくまでには時間を要する。
 十六夜という人の名は、朔耶のような下っ端の月草でも聞いたことのある名だった。文武両道であり、若くして月華門に登りつめたという噂を耳にしたのは一度だけではない。そういう優秀な逸材でなければ月華門には到底なれないことも知っている。けれど――。
 童じゃないか。
 率直な感想がそれだ。
 先の如月よりは流石に年上には見えるが、朔耶や皐月とは左程変わらぬように見える。背丈でいえば皐月と同じくらいである。とはいえ、彼の直衣ノウシは貴人でなければ身に着けることの出来ない、否、彼でなければ身に着けることの出来ないほど雅なものだった。色合いに、使われている生地にしても、高貴な人でなければ手にすることの出来ないものだろう。
 次に朔耶は彼の顔を見た。正確にいえば、惹きつけられていた。
 繊細な造形は女人を思わせる。長く束ねた黒髪もそうだ。よくよく見なければ、見紛うことだろう。たおやかではあるが、そこに凛々しさも伴う。
「なにか、僕の顔に付いているかな?」
 苦笑いする十六夜の声で、朔耶は魅入っていたことにようやく気が付いた。
「あ、いえ、ええと、その……」
 朔耶が想像していた十六夜は素手で人を縊り殺せるほどの大男だ。
 定まらない朔耶の視線を十六夜は追いかける。はたと、目が合った。澄んだ蒼の眸だった。見ない色だ。少なくとも朔耶は同じ色を持つ人を知らない。朔耶が違和を覚えたのはそこだった。
 どうしてか、目が逸らせなくなる。瞬きも忘れてしまうほどに魅入ってしまう。
「朔耶?」
 その声で名を呼ばれると、余計に緊張をする。十六夜は典麗な笑みを浮かべているだけ。何も、恐ろしいものなどないはずだ。
「あ、いや、あの子を……」
 助けてくれと。そこまで紡げなかった。声が途中で止まってしまったのだ。それでも、十六夜はにこりと笑う。事情は全て把握しているようだった。
「じゃあ、行って来る。如月。後のことは頼んだよ」
 主の声にも不機嫌そうに如月は頷く。先程から朔耶は睨まれているのも気のせいではない。月華門という職は多忙な身である。こうして時間を割く暇すらないのだろうか。
 朔耶が先頭に立ち、渡殿を行く。後ろから皐月のひそひそ声が聞こえてきた。
「言っておきますけど、十六夜様はずっとずっと年上なんですからね。失礼がないようにしてよ」
「見りゃ分かるだろ。それくらい」
 お見通しだったようだ。朔耶はまた一つ嘘をついた。
 部屋へと戻る途中に望月に会った。朔耶を捜しに来たわけではない。これは十六夜の出迎えだ。
「お忙しい中、申し訳ございません」
 その場に跪こうとした望月を十六夜は遮る。
「顔を上げて。何なら昔のように話してくれてもいいんだよ」
「そういう訳には参りません」
「相変わらず固いな、ボウは」
 苦笑いに変わる。望月も皐月も、十六夜とは昔からの親しい間柄のようだ。そうでなければ、月華門である彼が動いてくれるはずもない。縁か。朔耶は心の中で呟く。自分とは無縁のものだ。
 眠る女童を見るなり十六夜は難しい顔をした。
「十六夜様、あの……」
 皐月は不安な声を漏らす。朔耶は医者に見せた方が早かったのではないかと、密かに思っていたのだが、それならば最初から望月はそうしているはずだ。この堅実な男が見誤ることはない。
「いや、大丈夫だよ。皐月」
 安心を与えるように十六夜は一度微笑んでから、そしてまた女童へと視線を戻す。朔耶も、望月も皐月も、それから部屋で待っていた残月も、見守ることしか出来なかった。
 十六夜は自らの右手を女童の額へと乗せる。そこから淡い光のようなものが見えて、朔耶は思わず目を擦っていた。見間違いではない。もう一度、見ても同じものが見える。
「これを、呪術ジュジュツという」
 十六夜はそっと手を女童から離した。
「呪術?」
「そう。呪いだよ」
 聞き返した朔耶に十六夜は向き合う。
「呪いって……」
 良いものではない。にもかかわらず、十六夜の口調はどこか淡々としている。
「君が考えているようなものとは、ちょっと違うかな。簡単に言えば、そう……、解放されるんだ、そこから」
 どういう意味だろう。訊きたくもなるが、そこで打ち切られたような気がして朔耶は止めた。そもそも呪術というものをはじめて目にした朔耶には、いま何が起こったのかも分からないのだ。
「さて、次は君だ。朔耶」
 呼ばれて朔耶は背を正した。これは朔耶の失態だ。だから女童は目を覚まさずにいる。何らかの罰を受けるのは覚悟の上だった。
 ところが、十六夜は朔耶へともう少し近づいて朔耶の左手を取った。何を、という間もなかった。先と同じ淡い光が十六夜の手から零れている。そして、それは朔耶にとってふしぎな出来事だった。
 月鬼に噛まれた傷がまず消えた。血の跡もなくなれば、皮膚も綺麗な色に戻る。それだけではない。十六夜が触れてはいない太腿の痛みがなくなり、傷は言わずもがな消えていた。心臓の音も血液の流れも速くなり、それは不快なものではなく、肉体が若返るような、そんな新鮮さがあった。
「これで、もう心配は要らない」
 十六夜は言った。声が終わると同時に女童が目を覚ました。皐月が女童を起こすのを手伝ってやり、差し障りのない程度の説明をする。朔耶は肩の力が抜けていた。疲れた。口に出せば皐月だけでなく、望月からも説教を食らうだろう。
 皐月が女童を、望月が十六夜を送って行く姿を見届けているところで、朔耶は気が付いた。礼を言っていない。さっと血の気が引いた。
 いや、それよりも――。
 自分に都合の悪いことはすぐに忘れてしまうのが朔耶の癖である。朔耶は少しだけ思い出す。はじめまして、と。十六夜は言ったのだ。本当にそうだっただろうか?










「おかえりなさいませ」
「ただいま、如月」
 出迎えた如月に優しい声は返ってくる。燭台に油を指し終えると、如月はすぐに腰を浮かした。疲れて帰ってきた主人に彼が出来ることは一つしかなかった。
「ありがとう」
 声からも、表情からもそれは見えない。否、見せないのだ。この人は。
 白湯を受け取り、十六夜は時間をかけてゆっくりと飲み干した。出来ればこのまま休んでほしい。如月の願いは通じてはいても届くことはないのだ。
 十六夜は文机と向き合った。まだ手を付けていない巻物がそこに幾つもある。寝る間を惜しまなければ終わらないだろう。
「十六夜様」
 それでも、言わずにはいられない。
「今日は、いえ、今日こそはお戻りくださいませ」
 彼はもうずっと自身の屋敷へと帰っていない。畳と、文机と、燭台と、寝具があるだけの狭いこの部屋がもはや十六夜の家になっている。
「十六夜様」
 返事がないので、今度はもう少し強い声で呼んだ。溜息が聞こえた。十六夜は振り向かずに目だけを如月に向けている。
「こうしてみると、あんまり似てないんだな」
 話題をすり替えるのがこの人の特技だ。知ってはいても、如月は内心動揺を隠せなかった。
「如月は母親似なんだね」
 視線を上手くずらす。
「さあ? 両親は俺が生まれてすぐにいなくなりましたから」
 だから知らない。知りたくもない。
 如月はそこで終わらせるつもりだった。しかし、声は続く。
「そうだったね。けれど、彼には会いたかったはずだ」
 本当に意地悪な人だ。如月はそこから顔を背ける。
「俺には何も関係ありませんから」
 背中に向けて呟いた声は、果たして届いたのかどうか。
 空になった器を手に取ると、如月はそっと部屋を後にした。

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月に叢雲、花に

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