朔耶に説教をはじめた娘の名を
皐月という。
栗毛の髪が印象的の娘だ。肩で綺麗に切り揃えられてはいるが、後ろ髪は束ねられて背中で揺れている。動きやすい黒装束は彼女が好んで着ているものだ。翡翠色が綺麗な大きな目にしても、血色の良い肌も、ぷっくりとした厚めの唇も、そのどれもが魅力的である。笑った時はもっとそれが可愛らしいのに、残念ながら彼女は朔耶の前ではほとんど笑わない。もっとも、怒らせているのは朔耶であったが。
皐月の小言は続いていても、右から左へと朔耶の耳を通り抜けているので、ほとんど効果はなかった。長い付き合いであるので、こうした聞き流しも朔耶にはお手のものだ。
「ちょっと! 聞いてるの?」
流石に気が付いたようだ。
皐月は腰に手を当てたまま、尚も朔耶に食って掛かろうとする。勘弁してくれ。喰われるのならさっき喰われたばかりなんだ。
「一匹も漏らさなかったんだから、別にいいだろ」
反省の色はない。意地でもない。これは朔耶の本音だ。
「あ、ん、た、ねぇ! 自分一人の手柄だとでも思ってんの? 協力の上で上手く行ったんだからね、私達の!」
「その割には遅かったじゃないか」
「はぁあ? あんたが、勝手に、駆け出したんでしょーが! 私達に、面倒なことを、ぜんぶ、押し付けて!」
「だからそれが、俺達の協力ってやつだろ」
「うるさいっ!」
悪びれた様子もない朔耶に、皐月の血管は今にも切れそうだ。とはいうもの、他に罵倒する言葉が見つからずに皐月の声はそこで止まっていた。
勝った。朔耶は心の中で拳を握りしめる。
「お前達は何をやっているんだ」
呆れをこの上なく含んだ声とともに、一人の男が割ってきた。
「
望! 遅かったじゃないか!」
望。というのはこの男の愛称であった。本名は
望月。中肉中背の朔耶に比べて細身であり背も高い。短く刈り上げた黒髪に、闇の色をした双眸からも、落ち着いているというよりも、冷たいという印象を先に持つだろう。実際、それは当たっている。
「怪我人はいないようだな」
周りを一目して望月は言った。
朔耶が自身を指差していたがそれは見事に無視だ。この野郎、と朔耶は呟いてみるも届くことはなく。皐月はというと、その一言で我に返ったようで、倒れた
月人達を揺り動かしていた。やがて月人達は目を覚ます。
「あれ? ここは?」
「まぁ、あたしは何をしていたのかしら?」
「うう、胸が痛い。誰かに蹴られた。腕も痛むような気がする……」
月鬼に憑りつかれた者はその間の記憶を失う。首を傾げてみたり、まだ定まらぬ視線を泳がせてみたり、反応はそれぞれだ。最後の男人の台詞に望月が怪訝な顔をしても、朔耶は素知らぬ顔をする。やばい、手加減するのを忘れてた。などと言えたものではなかった。
皐月が一人一人に説明をする。けれど、けして月鬼の名を出さない。世の中には知らなくてもいいことがある。わざわざ事実を伝えなくてもいいのだ。幸い、この日の被害はなかったに等しい。新たに憑りつかれた月人もいなければ、怪我をした月人もいない。朔耶を除けば。
まだ夢心地の月人達を見送って皐月が戻って来る。
朔耶はようやく立ち上がり、望月の嫌味が飛んでこないのを不思議に思っていた。こういう時は悪い予感しかしないのだ。
「どうしたの?」
皐月の問いに望月は視線だけを投げる。即座に皐月は固まった。
「これって……」
朔耶の背中に冷や汗が流れはじめていた。言うまでもなく、これはまずい。
「ああ。どうやら一人目覚めないようだ」
横たわっている
女童は、どれだけ待っても目蓋を開けることはなかった。
厄介事が起きれば、すみやかに上役に報告をしなければならない。
それが月の都における掟の一つである。
先程からなんとも居心地の悪い空白が続いている。朔耶は枕辺まで近付いて女童の顔をじっと覗き込んでみた。穏やかな寝息が聞こえるだけ。目覚める気配など一向になかった。
「娘の名は
玉輪。宮仕えする女童であります。生家は都の外れのようですが、住まいはこの東殿にしているため、このところは帰っていないそうです」
望月の口調は至って事務的であった。また、報告を受けた上役にしても、逐一それに表情を動かしたりはしない。
嫌な感じだ。ここだけで事を済ませるのは可能であると、大事にはならないと。そういうことだ。だが、原因が朔耶にもあるために、余計な口出しは出来ない。耳だけをそちらへと向ける。
「何らかの障りがあったには間違いありません。月鬼が娘の中に残ってしまったのか、あるいは……」
どうやら朔耶が考えていたよりも事態は重くなりそうだ。手当をしていない太腿や左手のよりも頭が痛くなってきた。
望月の言葉通りに、もしも女童の中に月鬼が残ってしまっていたのならば、このまま意識が戻らないことは十分にある。他人に危害を加えることはなくとも、月鬼が精神を蝕み続けるようになる。そうなれば死は訪れない。けれど、それは生きているとはいえないだろう。
だからこそ、月鬼を退治する時には細心の注意が要る。
月鬼に憑りつかれて、常人とは思えないほどの腕力や素早さで動いたとしても、月人には変わりない。むやみやたらと身体を傷付けてはならない上に、月鬼が実体を現したその時しか好機は訪れない。少しでも機がずれてしまえばこの女童のように、眠ったままとなってしまう。
朔耶にしても皐月にしても、腕っぷしには自信を持っているし、何よりも月鬼と対峙するのはこれがはじめてではない。しかし、運がなかったなどと、他人事で片付けられる話でもないのだ。
「
月華門殿に相談してみようと思うのですが」
強みはなくても、どこか否定をさせない口調だった。上役はそれに小さく唸る。
決定権はこの上役にある。望月はただ促しているだけだ。何故ならば、この上役である
残月は
月琴、つまり一般兵士の
月草である朔耶達の直属の上司なのだ。
月の都を統治しているのは月の女帝。そして女帝に次ぐ権力を持つのは
月影、宰相である
月卿雲客は主に政治を担い、その次の月華門は武に関することを請け持ち、それらは月琴に伝えられ、任務として与えられているのが月草だ。
望月の生まれが貴人であるとはいえ、月草であるからには大した意味を持たない。それでもどことなく、上役に言を強めているのは、斬月という人の性分を理解しているからだ。
まだ残月は一言も声を発してはいない。それは彼がけして臆病だからでもなく、知恵が回らないのでもなく、極端に寡黙なだけだ。肌は浅黒く体格も良い。武人としては優秀だとしても、人との意思の疎通を図るのは苦手とする。そんな人がどうやって人の上に立つ月華門になれたのだろうと、朔耶はいつも思う。
「宜しいですね?」
望月は有無を言わさない。斬月はそれに動揺しているようにも見えた。
「……分かった」
大事にはしたくない。これが残月の本心だろう。
ただでさえ、この月の宮殿内にはきな臭い噂が幾つも流れているのだ。出来うる限り問題になるような事態は避けたいに違いない。
「それで? その人のところに連れて行けばいいのか?」
朔耶は望月に向けて問う。残月はこのような朔耶の明け透けない物言いにも嫌悪を示す人ではなかったが、ここで彼に聞いたところで返事が返ってくるとは思えないので、頼れる相棒に聞く方が早い。
「いや、こちらに来て頂く」
珍しい。率直な感想だった。
月華門となれば相応の身分を持つ貴人で、当然こちらから出向くのが礼儀だろう。事後報告なのに斬月は眉一つ動かさない。これも望月の計算のうちだ。
それにしては簡単に物を言う。朔耶の言いたいことなどお見通しのように、望月は続けた。
「事情は皐月に説明して貰っている。だから、俺達は待つだけでいい」
なるほど。皐月がこの場にいない理由が分かった。
待つだけ。それくらいならば、思ったよりも早く話は進みそうだ。
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