甲高い悲鳴が上がった。
 朔耶サクヤは左へと向かっていた足を止めて、声がした方へと走り出した。引き返した先に見えたのは一組の男女。いずれも身なりの良い格好をしているので貴人だろう。
 腰を抜かした女人の顔は蒼白であり、肩は小刻みに震えている。声を掛けたこちらの顔を見ようともしないので、朔耶は仕方なくその隣へと視線をずらした。女人ほどではないが男人も恐怖に慄き、何とかそこに立っているようだった。
 おい、と朔耶は男人の肩を掴む。小さく悲鳴を上げて、男人は朔耶から飛び下がったものの、足がもつれて派手に尻餅をついた。呆れを面に出さないようにして、朔耶は再び問いかける。
「おい。どっちに行った?」
 声に返答はない。男人は震えながらも真っ直ぐを指差した。朔耶は男人の肩を二度叩く。この先は行き止まりである。
「ありがとな。でも、出来ればあんたも奥さんも、ここから逃げた方がいいぞ」
 朔耶は怯えきっている女人を見た。夫の背中に顔を埋めて、今見たことを必死に忘れようとしているのか、朔耶の忠告にもまるで無反応である。それは男人も同じであり、へたり込んだまま足は動こうとはしなかった。
 後のことは任せておけばいいか。朔耶は心の中で一人ごちて、それからまた走り出した。
 月の都に月鬼ツキオニが出るのは稀有なことではない。 
 けれど、やはり目の前にしては平静を保ってはいられないし、逃げようとしてもそう簡単にはいかないだろう。
 奴らは素早い。あっという間に月人に追いついて、まずは脚に喰らいつく。そうして動きを止めた後に、首や頭を狙うのだ。
 奴らは賢い。どれだけ必死に抵抗したところで、急所を襲えばやがて力尽きる。否、月人ツキヒトの肉体は滅びたりはしない、喰われるのはその中身だ。
 朔耶はもう長く走り続けてはいたが、息は全く切れてはいなかった。
 頭の高い位置で結わえた銀の髪が動きに合わせるように踊っている。銀の色の中には紫の鮮やかな色も混じり、このあたりの月人には見られない色だ。眸は髪色よりも濃い紫紺の色を宿し、そこからは精悍さと彼に満ち溢れる自信が伝わってくる。山吹色をした狩衣が良く似合い、これは彼の一張羅でもあるから汚れることを特に嫌う。とはいえ、任務の度に汚れてしまうのは慣れていたのだが。
 都大路から外れてしまえば月人は見えなくなった。巻き込む心配が要らなくなり、後はこの手で断ち斬るだけ。だが、朔耶は違和を覚えていた。上手く言葉に出来ないそれは、不安を意味するもの。朔耶の足はそこで止まる。思った通り、行き止まりであった。
 ふーっと、朔耶は肩で息をつき、頬を掻いてしばし考える。
 その昔は立派な邸宅であったに違いないが、今となってはただの廃墟だ。伸び放題の木々は左から右から壊れかけた邸宅を覆い隠している。
 暗く湿った場所を奴らは好む。光が射し込まないような黒の闇に近いところに奴らは潜んでいる。だからこれは、追いつめたという表現が正しい。つまるところ、先の男人は嘘を言ってなかったということだ。
 やがて、木の間から一人が見えた。朔耶と同じ月人だ。身に着けた直衣ノウシにしても普通の装いをした若い男人である。しかし、表情はなく、頬の色にしてもぞっとするほどに白い。なにやら唇が動いていて、判別出来ないような言葉をずっと吐き続けている。
 朔耶は刀を抜く。来る。身構えた瞬間、若人の背中からそれは現れた。
 例えるならそれは影だ。月鬼は実体を持たない。
 影は次第に大きくなり、黒の色もより深さを増す。奴らに憑りつかれた月人は精神を蝕まれ、意志とは別の行動を取り、そこに意思など存在しなくなるのだ。
「何処を見てるんだ。俺は、こっちだ」
 朔耶は声を上げて月鬼を挑発する。
 若人が妖しい笑みを浮かべた。醜悪な笑みは見る者に恐怖を与え、それだけで動きを奪う。鋭く尖った歯で噛み付かれたら痛いでは済まされない。
「おいおい、随分と物騒なものを持ってんな」
 月鬼の武器は他にもある。鋭く伸びた爪は容赦なく朔耶に襲い掛かった。
 朔耶は刀のカシラを使って腕を打ち払い、若人が怯んだところで彼の首元に手刀を食らわせる。そして、彼が意識を失う前に、元凶である影を斬りつけた。
 耳をつんざくような音が響く。これは月鬼の断末魔だ。
 若人はその場に崩れ落ちて、そのままぴくりとも動かなくなった。朔耶はひとまず息を整え、それからすぐに右へと目を向ける。
「いるのは分かっている。出てこい!」
 しん、と。沈黙の後に、見えた影は二つ。
 木々の間から月人は出てくる。後ろからも、もう一人。
 ただの月人とは思えない。小童コドモならば興味本位で入り込んだとしても、好き好んでこんな処に足を踏み入れたりはしない。どうなるか分かっているからだ。
 二人。いや、二匹か。
 朔耶は口の中で改める。どうにもおかしい。朔耶に思考する間を与えず、月鬼の攻撃は始まった。
 今度の月鬼は先のよりも素早い。憑りつかれている月人は往年の男人と、それから女人。朔耶は女人の攻撃を躱し、刀は使わず拳だけで腹に当てる。男人には膝蹴りを食らわせた。動きが止まったところで月鬼を斬る。その筈だった。
 朔耶が刀を振るえなかったのは、脚に痛みを感じたからだ。背後から襲ってきたのは女童メノワラワで、朔耶の太腿に縋りつき歯を立てている。乱暴に振り払うことも出来ずに、ただ朔耶はもがいた。
 先に倒れた一人が起き上がっている。女人の方だった。当て身を加えた力が弱かったのだろう。
 朔耶は舌打ちをする。
 けして油断をしていた訳ではなかった。追い詰めていたのが、追い詰められていただけのこと。そうであっても、負けない自負が朔耶にはあったのだ。
 女童は更に朔耶の腹に噛み付こうとする。朔耶は慌てて女童を引き剥がそうとした。ところが女童とも思えないほどの力で抵抗をし、今度は手の甲を噛み付かれた。激痛に朔耶は顔をしかめ、しかしまさか殴りつけるわけにもいかず、それでもどうにかして振り解こうとする。女童は朔耶の足に絡みついたまま離さずに、次はどこに喰らいついてやろうかと、口が裂けるほどの笑みを刻んだ。一方の女人はその様子を楽しんでいるように、けたけたと笑い声を上げている。
 これは、絶体絶命というやつだ。
 焦ってはいる。噛み付かれた脚も、手の平からも、どくどくと血は流れ続けている。それなのに、利き手じゃなかっただけまだいい方だ、などと考える余裕が朔耶にはあった。
 朔耶は待っていた。それにしては遅い。頭に血が上りやすい性質タチとはいえ、これでも随分我慢した。苛々しているのは痛みのせいだけではなく、隙を見せたことを認めたくないためだ。
 さっきまで笑っていた女人が近づいて来る。影はどんどん大きくなり、月鬼の実体が露わになっていた。このままだと朔耶は月鬼に憑りつかれてしまうだろう。そうやって奴らは数を増やしていく。
 朔耶は覚悟を決める。こんなもんに憑かれるくらいなら、あとのことは知ったことか。
 意気込んだところで女人の動きが急に止まった。女人は背後から首を絞められ、呻き声を上げたかと思いきや、上体を地へと押し付けられていた。ほぼ同時に月鬼を斬りつけるのは鉤爪による攻撃。これを得意とする人物を朔耶は知っていた。どうやら、ようやくおでましのようだ。
「まったく。あんたは、隙だらけなのよ!」
 皮肉をたっぷり込めた娘の声にはいささかむっとしても、この状態であれば反論の余地などあるわけがない。
「いいから。とにかく、こいつを片付けるぞ」
 朔耶に顎で指図されたのが気に食わなかったのか、たちまちに娘の顔に皺が出来る。それでも状況を考えれば従うしかなかったのだろう。
 娘は後ろから女童の両腕を抑えて朔耶から引き離す。女童は激しく暴れるものの、もはや自由は効かなかった。女童の背中から月鬼が姿を見せ、色が薄まっている。厄介なことになる前に朔耶は月鬼に向かって刀を下ろした。
 はあ、と息をつきたいところだがまだ早い。月鬼はもう一匹残っている。
 朔耶の蹴りを喰らって、そのまま倒れていた男人が腹を抱えたまま呻いていた。痛めつける趣味はなくとも致し方ない。朔耶は男人の腕を本来とは反対の方へ思い切り曲げた。男人が叫びを上げれば、月鬼が実態を現す。そうして、やっと終わりになったのだ。
 朔耶はその場にどっしりと座り込む。痛みよりも疲労の方が先だった。肩で大きく溜息をついて、朔耶は仁王立ちの娘をちらりと見る。
「遅いんだよ。皐月サツキ
 朔耶の愚痴に娘の口がへの字に曲がった。


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月に叢雲、花に

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