六章 あるべき場所へ

戦場へと赴くもの

 進軍が開始されたときに、空は再び重たい雲に覆われていた。ルダの王城に残った魔導師たちはいまも祈りの塔にて己の魔力をささげているのだろう。
 そのうちに空から雪が降ってきた。イレスダートは雨季を迎える頃で北方に位置するルダは長雨こそ降らないものの、やはり季節は夏へと移り変わる時期だ。
 ルダの魔導師たちがいかに優秀であるといっても、人間の魔力によって作り出された不自然なものはそう長くはつづかない。じきに雪は止み、それは敵の進軍の妨げにはならないのだと皆は言う。魔力を使いつづければ精神の疲労はそれだけ激しく、また体力の消耗もはやい。無理な力を酷使することは、やがてその人の寿命をおなじだけ奪っていくのだ。だからもう、ルダは本当に限界なのだろう。 
 レナードは本隊よりもやや後方の歩兵部隊に配置されていた。
 主要な街道などでは降り積もった雪はとっくに溶けていたが、しかしそこからすこし逸れてしまえば馬は雪に足を取られてしまう。レナードはずっと前に初陣を終えたものの、ここまで大規模な争いに参列したのはたった二度である。ラ・ガーディアでのウルーグとイスカとの戦いでは怪我をしたため参戦できずに残された。その次のグランのたたかいはまだ記憶に新しい。天空を翔る竜とそれを操る騎士たち。レナードは竜騎士たちの背に縋りついていただけではない。ちゃんと剣を持って、勇敢な騎士たちにつづいて戦ったのだ。
 そろそろ前線を任されてもいい頃じゃないか。
 子どもっぽい理屈をレナードは声にしない。たしかに騎士として主のすぐ傍で戦いたい気持ちは嘘ではなかったが、人には定められた役割というものがあることだって理解している。どうにも落ち着かないのはここがイレスダートだからだ。祖国アストレアを離れてから一年とすこし、皆おなじ思いでいるはずだ。
 進軍はつづく。しばらく無言でいたがそのうちに会話がきこえてくる。昨日差し入れに貰ったタルトが美味しかったとか、妹夫婦に子どもが生まれたから次の休暇に会いに行くだとか、髪が伸びてきたからそのまま伸ばそうか切ろうか迷っているだとか。とても戦場へと向かう声にはきこえない。そうしたひそひそ話は他でもしているのか、いろんな話が勝手にレナードの耳に入ってくるのだ。これは盗み聞きなんかじゃない。
 あまりに大きな会話だと上官からこっぴどく叱られてしまうのでちょっと小声をする。本当は上官たちにもきこえていて、だけど咎めないのはそれくらい許されてもいいからだ。
 彼らはここで死ぬわけではない。たたかいに行くのだ。
 他愛もないことばかり話しているのはちゃんと帰ってくるという証で、誰もこれが最後だなんて思っていなかった。
 彼らにはどこにも逃げ場がない。これが北のルドラスとの戦いであればきっと南からイレスダートの他の公国が助けに来てくれる。しかし、そうではない。相手はマイアの騎士だ。誰も助けてはくれないし、何よりルダがマイアの敵なのだ。仔細を知らないレナードには何が悪くて何が悪で、何が良くて何が正義かなどわからない。知っていてもただしい判断なんてきっと不可能だ。だからそういうむずかしいことは、考えるべき人がそうしたらいい。ただ、レナードは騎士であってもちゃんと人間だった。意思のない人形などまっぴらごめんである。
 また会話がはじまった。今度はレナードのすぐ後ろからだった。
 年の頃はレナードとそう変わらない、笑うとえくぼができる少年みたいな騎士だ。もうひとりも小柄で子どものように見える。訓練のときも積み荷をしているときも、ふたりはずっと一緒だったので兄弟だとばかりに思っていたがちがうようで、食事のときにふたりが幼なじみなのだと教えてもらった。酸っぱくて固い黒パンと水みたいに薄い葡萄酒で彼らは乾杯をする。正直者のレナードは感想を思わず顔に出し、けれども彼らはレナードの肩をたたいて笑っていた。
 しばらく寝食をともにすれば情が湧くのは自然だろう。ラ・ガーディアでもグランでもそうだった。往年の騎士たちは驕り高ぶったりせずに、しかし身体に残された消えない傷は名誉そのものだと言う。一番おおい壮年の騎士たちは戦争に慣れているからかしっかり落ち着いている。少年たちはやや不安そうに視線を行ったり来たりさせて、だけど年長者たちが少年騎士を守ってくれる。このふたりにはその心配は要らなさそうだ。でも、結婚をしていなければ恋も知らない少年たちだ。誰だって死なせたくはない。
 戻ったらまた不味い黒パンと葡萄酒で、それから乾酪(チーズ)もいっしょに乾杯をしようと約束をした。ふたりはいま、空を見ている。
 はじめにした天の唸りをレナードはきき逃していたのだろう。
 鉛色の雲の合間からひかりが見えた。まばゆい閃光へと変わったそのときに大地は揺れていた。彼らは鬨の声をあげる。イレスダートの北部に位置するルダはそもそも気候の変動が激しいために、こうした落雷はめずらしくはない。しかし、これはそうではなかった。レナードは歩兵部隊よりも、もっと後ろを見る。後方を守るのはルダの精鋭たち、魔道士の部隊だ。指揮を執るのはルダの公女アイリスと他にも何人か要人たちが控えている。そのひとりは、レナードもよく知っているひとだった。あれは、彼女が放った魔力だ。
 レナードは自分の腕が震えているのを認めた。緊張がそうさせたのではなく、ただおそろしかったのだ。人は雷をおそれる生き物だ。天の怒りは建物や自然を破壊する。それが意志を持ったものならばなおのこと、人間を簡単に壊してしまう。
 誰かに背中をたたかれていた。振り返れば最初に雑談をはじめた騎士だった。艶のない頬は荒れていて目尻には皺が見える。黒髪には白髪が目立っていて、それなりの苦労を感じさせる。なるほど。お喋り好きな年頃だ。黒髪の騎士はレナードに安心しろと言う。俺たちの勝ちだ、とも。 
 イレスダートの王女が旗頭となりこの戦いに参列するというのだから、それは彼らにこの上ない勇気を与えた。彼らは彼女を白の聖女と謳い、勝利をもたらす女神さながらに讃える。賛同を求められたときにレナードはちょっと笑って濁すしかなかった。たしかに彼女は王家の姫君であり、それから特異な力を受け継ぐひとではあるけれど、レナードの知るそのひとはふつうの人間と変わらない人だ。
 レナードの主君、彼女にとって幼なじみである人と話しているときは本当にしあわせそうに、すこし年下の者たちと接するときには姉のような話し方になるし、レナードにだって高圧的な物言いなんてしなかった。それどころか友達であってほしいのだと言う。でも、怒るとちょっとこわいところだってある。レナードが同郷の女騎士と口喧嘩したときなどは、おもいっきり強い顔をしてそのまま説教されたり、だとか。
 いっそ、彼らに全部を知ってほしい気もする。
 黒髪の騎士はレナードを置いて行ってしまい、少年騎士たちの姿もなかった。前方ではすでに戦闘がはじまっていたようだ。針葉樹の森に潜んでいた伏兵部隊とぶつかったのだろう。足止めにはちょうどいい。レナードは大地を蹴る。彼らとゆっくり話をするのはまた次の機会だ。










 

 腕の中で我が子は穏やかな寝息を立てている。笑っていたかと思えばむずがったり泣いたり、幼子の表情はとにかくころころと変わる。我が子をあやすマリアベルの手つきはちょっと危なっかしいけれど、これでもずっと慣れた方だ。王子の乳母も王妃の従者も涙ぐむような仕草を見せる。
 本当は片時だって離れたくはなかった。お腹を痛めて産んだ子であるから当然のこと、しかしマリアベルの体調がすぐれないときや精神的に不安定なときに、それは叶わない。マリアベルはいつも弱い自分を責めていた。かなしいのか、くるしいのか、それともいかりだったのか。マリアベルにはわからない。誰かのせいにできないのなら、自分の心の脆さを嘆くしかなったのだ。 
 このところそれが落ち着いていたのは、義理の妹が毎日のように来てくれたからかもしれない。乳母や傍付きなど、王都からマリアベルに付き従っている者はいても、そのなかで心許せる者といえばいないも同然だ。だから、マリアベルは長い間、笑うということを忘れていた。ほんのすこし、けれどもたしかに見せたぎこちない笑みは、レオナがいつも笑顔でいてくれたからだと、マリアベルはそう思う。
 しかし、その人はぱったりと姿を見せなくなった。
 ひどい癇癪を起こしてしまった日をマリアベルは覚えている。制御できない自身の感情をそのままに彼女へとぶつけてしまった。ちゃんと謝りたくても、なかなか勇気が持てずに時間だけが過ぎてしまっていたのだ。何もなかったかのようにレオナが接してくれたから余計に甘えてしまう。マリアベルは自分が嫌でたまらなかった。
 そんな王妃はいまルダが危機的状況にあることを知らない。毎日部屋に篭もりきりの時間も長かった上に、周囲の者たちはマリアベルの耳に届かないようにと、それを遠ざけていたためだ。過剰な気遣いがマリアベルを気鬱にさせているのも事実、だからこの日のマリアベルはちょっとだけ自分に勇気を持つことにした。侍女も傍付きも伴わずにルダの城内をひとりで歩く。乳母へと王子を預けるとき、眠っているはずの息子が笑ったような気がした。
 マリアベルの行動範囲はさして広くはない。
 城内でも離れの塔とちいさな庭園だけがマリアベルに許された場所だ。普段からそう人のおおくないところではあるもの、今日は誰の姿も見えずにそれがすこしマリアベルを不安にさせる。回廊の向こうから義理妹は来てくれるのに、今日もいつまで待ってもみても時間だけがただ過ぎてしまった。この日、マリアベルを行動的にしたのは、きっとさみしさからだったのだろう。マリアベルはひとりで回廊を歩いてみる。しかし、どれだけ進んでも人の気配はとんとなく、城のなかが空っぽになってしまったみたいだ。
 回廊が終われば次は螺旋の階段が見える。そこそこに広い城内であるから底冷えがして、マリアベルは外套を着込んでくるべきだったと思う。ちょうどこのとき、空からまた雪が降っていて、それがルダを守るための雪であることを、やはりマリアベルは知らなかった。
「マリアベル殿下……?」
 たしかめるように問うた声はちいさく、それでもマリアベルの足を止めた。視線の先にはマリアベルよりも背の低い少年がいる。彼は、たしかルダの公子だ。
「お、おひとりですか? だれか、ほかに供の者は、」
 彼は信じられないといった顔をして慌てた。
「あ、あの、待ってください。わたくしは、ひとりです。すこし、歩いてみたかっただけで」
 だから、これ以上大事のようにされては困るのだ。彼に大きな声を出してほしくないとマリアベルはそういう目顔をする。
「でも、おひとりでは、」
「えぇ……、そうですね。ですから、あなたが来てくださらないかしら?」
 それはちょっと意地悪な声だったのかもしれない。彼の瞬きが急に増えた。まだ少年でも彼はルダの公子で多忙にあることは知っているし、かといって断れないということも知っている。彼はしばし躊躇った後に騎士のような所作でマリアベルの手を取った。マリアベルとそう変わらない大きさの手は、それでもすこし頼もしかった。
 似ていると感じたのは最初に会った日だ。彼は人と話をするときにまっすぐに目を見ない。マリアベルとおなじだ。それから、他人の顔色をうかがうところも。
「あの、実は妹を捜していたの」
 アロイスは再び瞬きをする。マリアベルの姉妹は王都マイアにいるから、そうではないことをわかっている目の動きだ。彼はすぐに理解して後ろめたそうな表情に変えた。
「レオナさまは、まだしばらくは戻らないでしょう。ですが、心配は要りません。きっと無事に帰ってこられます。姉上も一緒ですし……、聖騎士さまもいます。本当は僕も行きたかった。でも、ちゃんとここで、待つことにしました。信じているからこそ。きっと、大丈夫です」
 やや早口で紡いだ彼の言葉はまるで自分を安心させるみたいだ。けれど、マリアベルはきき落とさなかった。
「無事って、なんのこと……?」
「えっ、それは……」
 彼は急に視線を逸らした。それが、禁忌を口走ったかのように顔がこわばっている。
 マリアベルはなにも知らなかった。いや、それは嘘だ。あのとき、彼女はなんて言ったのか。どうして自分は耳を貸さなかったのか。最初にきたのは悔恨だ。取り返しのつかないことをしてしまった。誰もマリアベルを責めないのはただの女だからだ。
 ちがう、と。マリアベルの唇が動く。わたくしは、イレスダートの王妃。なんにも知らないただ震えているだけの女でいて、いいはずがない。
 彼女のこえがきこえる。かえらなければならないと、言った。力を貸してほしいのだと、願った。それなのに、自分を守るために拒絶したのはマリアベルだ。無力でかわいそうな女を演じていれば逃げていられると、そう思っていたからだ。
「王妃さま。落ち着いてください。大丈夫です。なにも、」
「いいえ」
 心配は要らないのだと、彼の声を遮る。マリアベルはちゃんと彼の目を見た。そこにあるのは虚勢だった。
「ぜんぶ、話してください。わたくしはもう逃げません」
 知らないままに、すべてが終わった後に迎えに来た伯父の前で感情のない人形みたいにしていられたら、きっと楽だっただろう。オルグレムはマリアベルをこれからも守ってくれる。けれど、マリアベルをこれまで守ってくれたルダの人たちを失うことになってしまう。それこそ背信ではないのか。裏切りは罪にしかならない。
「それから、連れていってほしいのです。わたくしを。あるべきところへと」
 マリアベルは罪を償うだけの勇気も強さも持たない。ただ、たいせつなひとたちを守るだけの声を持っているだろうか。まだ、間に合うというのなら。マリアベルは、はじめて自分の意思でそれを選ぶ。
 

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