六章 あるべき場所へ

王女と王妃

 幼子の顔はどれだけ眺めていても飽きることなく、それが血の繋がった甥っ子であるならばなおのこと、レオナが血色の良い頬を突いてみるたびに彼はきゃっきゃと愛らしく笑う。瞳は深海を思わせる青で父親とおなじ色、まだちゃんと生えそろっていない髪の毛は木漏れ日を集めた色をしていて、光そのものに見える。こちらは母親譲りだろう。
 口元や鼻筋なども父親とよく似ている。他にもそっくりだと感じるところはたくさんで、いつまでも彼を見ていたくなるし成長を追いつづけたくもなる。乳母や教育係によると、日に日に表情が豊かになっていくというのだから、どんなささいな話でもレオナはずっと微笑んでいた。他にも彼にまつわる話をいくつかきけば、やはり早く返してやりたいと、そう思った。彼にも、帰るべきところがある。
 我が子が生まれてまだ一度もその腕に抱いていない兄の元へ。おなじイレスダート内でも、王都マイアが遠く感じるのはどうしてだろう。レオナは彼のちいさな手に触れる。益体もないことばかりを考えても仕方がない。それよりも、このちいさな甥っ子が居るべきなのは母親の胸の中だ。
 レオナが義理の姉と対面したのは数えるほどだった。
 歳はレオナより四つ上、義理の姉との会話は短かったものの、その内容もはっきり覚えていないくらいに。差し障りのない挨拶だけ、あとは落ち着かない視線はレオナをちゃんと見ていなかったように思う。控えめで口数のすくないひと、レオナの記憶は間違っていないはずだ。
 マリアベルは身体の強くない人であったので、ちいさい頃にはよく熱を出したり、成人してからも無理をすると寝込んでしまうような人であった。
 子は一人を授かれば充分であると、だから周囲は大袈裟なくらい慎重に彼女を扱ったという。生まれた子は次の王となるのだから、男子でなければならない。その精神的重圧が彼女をどれほど苦しめただろう。それなのに、王は彼女を王都マイアから引き離し、このルダへと送ってしまった。たしかに彼女の身を案じてのことかもしれない。けれども、レオナはどうしても義理の姉に同情してしまう。ほんとうに、それは正しかったのかどうか。答えは今も出ないままだ。
 レオナは兄のことをよく考える。けれど、どれだけ思考を前向きなものにしてみても悪い方へと、嫌な方へと行き着いてしまうので、それ以上を追わないことにした。兄はいつだって先を読む人だった。その根底にはマイアがありイレスダートがあり、だからレオナは兄を信じることをやめずにいる。
 やがて、彼はレオナの腕の中で眠ってしまった。
 いつまでもこうして見ていたくとも、彼を再び乳母へと預けてレオナは彼女のところへと向かう。扉をたたく前にすこしだけ緊張したのはどのような顔を作ればいいのかわからなかったからだ。反応はなく、けれどレオナは肯定の意味だと受け取り扉を開ける。ルダはやっと太陽に恵まれたというのに一日中窓は閉め切られていて、光も遮っているために薄暗い。ただぼんやりと、外に視線を置いているその姿を認めるなり、レオナは安堵とも不安ともいえぬ感情を抱いた。
「マリアベル、ねえさま……」
 突然の訪問をこわがらせないような声を心掛ける。レオナの呼びかけはたしかに届いていたようで、彼女は視線をあげた。
「レオナ……さま?」
 虚ろな瞳はちゃんとレオナを映しているだろうか。
 産後の肥立ちが良くなかったという。けれども、彼女は身体の不調よりも心の不調の方が大きい。今日はまだ落ち着いている方で、ひどいときには幼子のような癇癪を繰り返すのだと侍女たちからきいた。不安定になるのも無理はない。ここには彼女の家族が誰一人として、いなかったのだから。
「はい、ねえさま。わたしは、ここにいます」
 レオナはマリアベルの前に膝をつき、それから彼女の手を包み込む。肉付きの薄い冷たい手だった。彼女の心といっしょで、冷え切っている。
「やっと、お会いすることができました」
 レオナは笑む。前に会話をしたのはいつだっただろうと、もう思い出せないくらいに前だ。何から話せばいいのか、レオナはすこしの時間を置く。
 マリアベルは未だに一日を寝台で過ごす日がつづいている。
 だから、義理姉はまだちゃんと自分の子を腕に抱いてはいなかった。きっと、我が子のことを知りたがっているだろう。それから王都マイアに、兄のことも。避けるべき話題であっても、ここに来た以上は紡がなくてはならない。彼女もまた、帰りたいと望んでいるはずだ。
「お可哀想に。貴女も、捨てられたのね」
 だから、レオナは彼女が発した言葉に目を瞠った。
「わたくしたちには、居場所なんてどこにもないのだわ」
 それは、呪詛のように。静かに、冷たく、落とされる。しかし、どこか他人事のようにもきこえたのは、彼女がそれだけ絶望していたからかもしれない。誤解をしていてもおかしくはない。身重という、一番慎重になるべきときに王都から離されてしまったのだ。マリアベルは抗議の声など持たない。ただ、王の声に従うだけだ。
「いいえ、ねえさま。それはちがうの。どうか、わたしの声をきいてください」
 レオナは義理姉の目をしっかりと見る。もうすこしだけ手に力を入れて、心はここにあるのだと、マリアベルにわからせるそのために。
「兄上はわたしたちを守ってくださっていたのです」
「まもる? 何を、言っているの?」
 無垢な子どもの目をして、しかしマリアベルはレオナの声を否定する。嘘事を口にするのではなくとも、慎重に言葉を選ばなくてはならない。
「国を、イレスダートを守るためです。……いいえ、わたしたちを」
 それは、レオナが信じてやまないことだった。
 不安はある。けれど、それを声にすれば兄を疑っているのとおなじ、兄は間違えたりはしないと、レオナは何度も口の中で繰り返す。
 そう。あの日、レオナが最後にアナクレオンと会ったのはマイアの大聖堂で、兄はレオナに言ったのだ。その目で見て、その耳で見るべきだと。
 今になってやっと、兄の心がよくわかる。あれは、北の敵国ルドラスまたは城塞都市ガレリアの情勢だけではなくもっと大きなものを、すなわちせかいをその目で見なさいという意味だったのだ。白の王宮という限られた狭い場所だけがレオナのせかい、けれどもそこから一歩外へと踏み出せば、いろいろなものが見えてくる。戦争なんてどこか遠くで起きているだけの、レオナとは直接関わりのないのだと、現実を見ようとはしなかった。幼なじみが前線に送られたときだっておなじ、別の誰かが、レオナの知らないような誰かが代わればいいのだと思っていた。
 稚拙(ちせつ)な思いと愚かさを恥じたとしても、レオナはもう後悔をしない。
 イレスダートだけではなかった。ラ・ガーディアにグラン、レオナはすべてを見てきた。少なからず関わってきたものが、今はその手で直接触れようとしている。だから、幼なじみはあれほどまでに苦しそうな顔をするのだろう。やさしいひとであるから、あいしてくれるひとであるから。レオナをそこへと行かないようにと、いつだって手を繋いでいてくれる。
「かえりましょう? マイアに。戻らなければならないのです。わたしたちは」
 けれど、レオナはかえるためにその道を選んだ。それにはまだ、力が足りない。
「きいて下さい、ねえさま。わたしは、これまで守られてばかりでした。わたしが弱いばかりに、兄上を支えることができなかった。でも、そんなわたしを助けてくれる人はたくさんいました。かけがえのない仲間と、友と、それから……。今はもう、わたしはひとりではありません」
 レオナは呼吸を整えるための間を空ける。
 アストレアにオリシス、行き着いたサリタに、ラ・ガーディアにグランに。そこで出会った人たちも、苦楽をともにしてきた仲間たちも、皆がレオナに力を与えてくれた。
「わたしには守りたいものがたくさんあります。だから、わたしもまた戦います。そして、マイアへと。今度こそは、兄上をお助けしたいのです」
「でも、あの方は」
「待っています。兄上は、わたしたちを」
 兄を一人きりで戦わせたりはしない。今、イレスダートで起きているさまざまな混乱は、絡み合った複雑な糸がそうしているだけで、けれど王がもしも誤った道を行くというのならば、正しい方へと導かなければならない。妹として、ドラグナーとして。
「ですから、おねがいです。ねえさまもどうか一緒に。わたしたちに力を貸してください」 
 それが正しいことではないと、レオナはわかった上で声にする。マリアベルはレオナの言葉が終わるまで視線を外さなかった。ふた呼吸が空く。
「わたくしに、何をしろとおっしゃるの?」
 彼女が落ち着いているからこそ存外に冷たい物言いに、レオナは戸惑いつつも、王妃として置かれた立場を理解しているのだと、判断する。
「あなたの声を持って、説得して頂きたいのです」
「説得……?」
「はい。今、このルダにマイアの軍が押し寄せています。彼らを率いるのはオルグレム将軍。……ねえさまの伯父上です」
 途端に二人の間に距離が生まれる。今、話をしているのは義理姉と妹ではなく、王妃と王女だ。
「どうか、マリアベルねえさまの声を持って、彼らを止めて頂きたいのです。剣を収め、これ以上の争いから身を引くようにと、」
「やめて」
 悲鳴のように響く。マリアベルは両の手で耳を塞ぎ、かぶりを振った。
「ねえさま、まって。どうか最後まできいて」
「やめて。わたくしに何ができるというのです? わたくしは、ただの女です。王から捨てられた惨めなだけの女。わたくしには何もない。あなたとはちがう……!」
 乱暴に振り解かれたレオナの手は所在なく宙を彷徨い、やがて下された。レオナを見るマリアベルの目はもう義理姉のものではなかった。嫌悪と反発、あるいは畏怖のようにも見える。
「ね、ねえさま。おねがいです。わたしは……!」
「出て行って。それから、わたくしの子を返して……! バルト、あの子だけがわたくしのすべて。それなのに、あなたたちはわたくしから、バルトを奪ってしまうのね!」
 こうなれば、もうどんな声だって届かない。
 泣き、叫び。己の感情をそのままに、マリアベルはレオナに掴み掛かる。この細い腕のどこにそんな力があったのだろうと、それくらいにたたきつけられた胸が痛む。無理やりに解けば今度は肩や腕に爪を立てられ、声をききつけた侍女たちが二人掛かりで羽交い締めにしてやっとレオナは解放される。最後に入室してきたのは初老の医師で、その表情は疲れ切っていた。医師の手首や手の甲には複数のひっかき傷や噛み傷が残っている。つまりは、そういうことなのだ。なにか刺激を与えれば彼女はすぐにこうなってしまう。
  話にはきいていたとはいえ、実際に見るとではまたちがう。
 レオナはただ立ち尽くすしかなかった。錯乱した義理姉は呪いの言葉を吐きつづける。医師の判断は速いもので、それから慣れた所作でその細い腕に鎮静剤を打つ。そこでやっとマリアベルは大人しくなった。気を失ったといった表現が正解でも、侍女も医師も、他に選択肢を持たないのだ。
 せめて、泣かないようにと、レオナはそれでもマリアベルから視線を外さない。
 次に目覚めたときには義理姉は今日のことを忘れているだろう。会話の内容も、レオナの言葉も、もしかしたらレオナを会ったことさえも覚えていないのかもしれない。時が解決してくれるのを待つしかないのだと、医師は言う。それでは遅いのだ。ルダはマイアに。その先を考えるのがおそろしかった。







「なぁに、辛気臭い顔してんのよ」
 部屋を出てすぐの声がそれだったため、レオナは取り繕う間もなかった。
「やめてよね。こっちまで暗くなるじゃない」
 辛辣な物言いは彼女の特徴であると知ったはいいものの、とっさに返すこともできず、しかし言葉とは別にアイリスはそこまで嫌な顔をしてはいなかった。
「そう、みえる?」
「私は世界で一番かわいそうです。そーんな顔をしてるわよ」
 ここまで明け透けなく言われてしまええばいっそ気持ちがいいくらいだ。レオナは微笑する。
「そう、ね。わたし、何ができるつもりだったんだろう」
 落ちた吐息は虚しいだけだとわかってはいても、勝手に出てきてしまった。これでは状況は何も変わっていない。むしろ悪化したのかもしれない。幼なじみとの約束も、それすら守れない自分が歯がゆくて仕方なかった。
「いいのよ、別に。期待はしていないから」
 けれど、アイリスは責める声をしなかった。怒りが這い上がってこないのは、当たりだったからだ。それに、アイリスの目は最初のときよりも、もうすこしやさしい。
「王妃であっても、あの方は普通の人には変わりないわ。それも子が生まれたばかりで不安定な状態でしょ。最初から、無理強いをするつもりなんてないわよ」
 レオナはそこでやっと理解した。皆の集まる場であるにもかかわらずアイリスが憤懣ふんまんを隠さなかったのは、為すべき立場にある人がそれを正しい方へと導くことをしなかったからだ。アイリスは民を、力無き者を何より大事にし、守ろうとしている。それは、レオナもまたおなじ気持ちだ。
「あなたに、はなしたいことがあったの」
 今なら素直になれると、わかり合えるのだと、レオナは歩み寄る。
「そ。私にはないわよ」
 それなのに、ばっさりと切られてしまった。どうやらアイリスは仲直りの機会もくれないようだ。レオナはちょっと笑ってしまった。謝らないというのならこっちも引かなくていい。あのとき、たたかれた頬はそれは痛かったのだ。アイリスの頬だって赤くなっていた。それならば、おあいこだ。
 強い人だと、思う。己の信念を曲げたりはしない。己の正義を疑ったりしない。アイリスはそういうひとだ。自分がおなじように立っていられるかどうか、レオナにはそこまでの自信がない。でも、せめて足手纏いにはならない。
「あなたのことは、ただのオヒメサマだなんて思ってないから。力を持つというなら戦ってもらうわ。ルダのために」
 そのつもりだ。これ以上の言葉は要らない。今はもう、無力さを嘆く必要もない。レオナには、その力がある。
 

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