六章 あるべき場所へ

決意と証明

 すぐには部屋へと戻る気にはなれず、しかし行く宛てというものも特にはない。冷えた回廊には人の姿も見えず、ただ靴音だけが響いている。 
 階段を上りかけた足はやはり途中で止まり、ブレイヴはそのまま中庭の方へと進み出す。積み荷を終えた者たちが続々と中へと入ってきたものの、聖騎士へと掛ける声は特になく、彼らは会釈だけをした。それほどにひどい顔をしているのだろうか。ブレイヴは微笑する。
 その擦れ違った中にひとりだけがブレイヴを止めた。
 夜はさらに冷えるからとつづけた物言いは忠告よりも警告に似ていて、けれども声色はやさしかった。ブレイヴはそれに曖昧な返事をする。見覚えのある顔で、あれはたしかルダの公子の従卒《じゅうそつ》だった。自信のなさような目をしつつも、そのくせ他人を気遣うことをするところが良く似ている。ろくな反応をしなかったブレイヴにそれ以上の言葉をしなかったのは、アロイスに報告に行ったためだろう。なにしろ、ブレイヴはそうして小一時間も中庭でただ立ち尽くしていた。だから自分を見ていたのが従卒だけではなかったことに、気がつかなかったのだ。
 空が闇の色へと変わりはじめたが、ブレイヴはまだ戻る気にはなれなかった。背中に何かが当たったのはそのときだ。あまりにも不注意だったようで、その次には後頭部へと当たる。投げつけられたのは雪玉だろう。それほど力を込めずに作られた雪玉は当たればすぐに壊れてしまい、それでも狙いどおりだったことに彼女は満足そうにする。
「いつまで、そうしているの?」
 幼なじみの手には雪玉はもう一つある。今度はブレイヴの頬へと当たり、けれどもレオナはくすっと笑うだけだった。こんなことをするような人だったかな、とブレイヴは思う。
「王都でも、ずっと前にこんな雪が積もったね」
 その懐かしむ声にブレイヴはうなずいた。
「……レオナとディアスと。一緒に雪遊びをした」
 遠い日の記憶であっても、すぐ近くにあるみたいだ。そういう声を幼なじみはする。
「戻ろうよ? 手、こんなに冷たくなってる」
 レオナは自身の手でブレイヴの手を包み込むようにする。たしかにブレイヴの手は冷えていたものの、幼なじみの手の方がもっと冷たかった。きっと、ブレイヴがこうして外で己を見つめていた間も彼女はそこにいたのだろう。こんなにも近くにいたことを今頃になって知ったのは、ブレイヴがレオナのことをずっと考えていたからだ。
「そうだね。風邪をひいてしまってはいけないから」
 いたわるつもりが逆効果だったらしい。レオナはブレイヴの顔をのぞき込んでから笑った。
「ふふっ。風邪をひいたのはブレイヴよ?  忘れてしまったの?」
「そう、だったかな?」
「そうやって、ぼうっとしているから。忘れてしまったのね」
 その言い方はもうひとりの幼なじみのように聞こえる。もしかしたら真似ているのかもしれない。あんまり似ていないと言えば彼女は怒ってしまうだろう。ブレイヴは微笑みで返す。
「アストレアでは雪がこんなに積もることはないって。あなたが熱を出したときに、ディアスに教えてもらったの。わたし、そんなことも知らなくて。ううん、今だってそう。知らないことばかり。でも、わかるようになった気がする。きっと、見てきたからね。いろんなこと」
 幼なじみの手がブレイヴの頬へと触れる。
「ディアスがいなくて、さびしい?」
 たぶん、見抜かれているのだろう。心をぜんぶ預けたひとだから、弱さばかりを見せてしまっている。
「……ブレイヴ?」
「だめ。はなさない、まだ」
 衝動ではなく、そうしたいと思った。けれど声にしない時間が長かったようで、腕の中にいる幼なじみの瞳は不安そうな色をしている。
 聞いてしまっていたのだろうなと、ブレイヴは思う。
 責めるつもりはなかった。あんなにも目立つところで口論をしてしまえば、誰の耳に入ってもおかしくはない。ただ、彼女には聞かせたくはなかったし、それをまた彼女の口から聞きたくはなかった。先延ばしにしているだけだとしても。
「なかなおり、しよう?」
 やっぱり、そういうと思った。ブレイヴはレオナの額を己の胸に押しつけたまま、応える。
「あれは喧嘩じゃないよ」
「うそ。あんなに怒っていたのに」
「セルジュに対してじゃない。あれは、自分が不甲斐なかったからだ。やつ当たり、かな」
「じゃあ、やっぱりあやまらなきゃ」
 そのとおりだとしても、素直に従うにはちょっと面白くない。レオナがセルジュの味方をするならなおさらだ。
「それなら、レオナだっておなじだ」
「わ、わたしのことはいいの……!」
「よくない。レオナのときはみんなが見ていた。アロイスは泣きそうにしていたし、アイリオーネは怒っていた」
「それは、その……。もう、いじわる言わないで」
 思わぬ反撃だったようで、幼なじみは抗議の意味を込めてブレイヴの胸をたたいた。その手をブレイヴは絡め取る。
「レオナ」
 吐息が触れ合う近さよりも、もう少しだけ距離を空けてから紡ぐ。
「隠していること、なに?」
 ブレイヴが知りたいのはそれだ。幼なじみの瞬きが急に増える。
「かくしていることなんて、」
「してないって、言える?」
 目と目を合わせてしばし待つ。そうすれば圧に負けたのか、レオナは眉尻を下げた。泣き出しそうな目をしている。だから、やっぱり当たりだと、ブレイヴは思った。
「ね、わたし……わすれたこと、ないよ。ルーファスのこと、アルウェンさまのこと。サリタのこどもたち……、ルロイもキリルも」
「うん……」
「まもりたいものが、たくさんあるの。まもれなかったものばかりだから」
 ぽつりぽつりと、落ちてゆく言葉のひとつひとつが、まるで懺悔のようにブレイヴの耳には届く。実際、そうなのだろう。レオナはブレイヴを捜しにきたとしても、伝えたかった声はまだ別にあったのだ。
「たたかうって、決めたの」
 そうして、幼なじみはブレイヴが一番聞きたくなかったことを言う。
「でも、きみは、あのときラ・ガーディアへと向かう途中で、おそろしいって言った」
「あのときの言葉、嘘じゃないわ。今だって」
「それなのに、レオナは人を殺すの?」
 そうしてブレイヴもまた、レオナが一番言われたくなかったことを言う。伝わるぬくもりはこんなにもあたたかいのに沈黙が苦しくてたまらない。幼なじみの次の声は震えていた。 
「わたし、もう何度も人を殺してるわ」
「そうじゃない」
 ブレイヴはもうすこし彼女を抱く腕に力を入れる。この手を解いてしまえば、幼なじみがどこかへ行ってしまいそうでこわかった。
 「イレスダートは、わたしの国よ」
 静かに、それでも否定をさせない強さで落とされた声は。
「今のイレスダートは乱れている。その原因にあるのが、王だとすれば、わたしは……」
 ブレイヴに前を向かせようとしている。それは勇気を与えるためであり、あるいは叱責なのかもしれない。
「王家の者として、ドラグナーとして……。ううん、ほんとうは妹として、兄上を助けたいの」
 それに、と。レオナはちいさく言う。同じ竜の末裔たちの話を、幼なじみはあれから一度だって口にはしない。あのとき、幼なじみは彼らから何を聞いたのか。ブレイヴが知らない真実を、なぜ教えてはくれないのか。これではまるで、レオナがひとではないと言っているのとおなじだ。
「それでも、俺は」
「いっしょに、かえりたいの。あなたといっしょに。王都に、わたしたちのマイアに」
 だから、信じてほしいのだと、幼なじみは言う。
 あいしているから信じている。けれどもあいしているからこそ、離れてしまうのがおそろしい。この手は、いつまで幼なじみを、守ることができるのだろう。
 









 マイアの軍幹部、それも中枢を担う白騎士団の団長ともなれば、いかに士官学校を首席で卒業した名門貴族の騎士であろうとも、二十代の半ばでその座に就くのは異例中の異例ともいえる。
 たしかにイレスダートの、それも王都マイアにおいて混乱つづきの近年にあり、経験豊富にある往年の者たちがことごとく戦死し、後に残ったのが若者たちばかりであった事実は否めない。だとしても、フランツ・エルマンという人でなければ、とてもこの重圧に耐え切れず、戦場で果てるよりも前に精神を病んでしまっていただろう。
 国王と元老院と、それから彼の下に就く何千とも数の騎士たち、それらの板挟みとなるのは必然のこと、人間の感情というものをどこかで殺してくるか、あるいは母親の腹の中で捨ててきたか、そのどちらかでなければとても務まらないほどに。前の団長であれば後者であっただろうが、はたしてフランツ・エルマンはそのどちらであるか。
 イレスダートでは早くも雨の季節を迎えている。
 この時期の長雨はめずらしくはないものの、しかしながら昨年の例があるために民は不吉の前兆であると、いらぬ噂を騒ぎ立てる。王都ではそれほど大きな被害はなかったとはいえ、北の城塞都市ガレリアにつづいてムスタールやランツェスも水害の被害はあり、こうも毎年のように起こればたしかに自然と不安は抱くものかもしれない。その上、イレスダートと北の敵国ルドラスとの緊張状態はそのまま、いつ本格的な戦争になってもおかしくはない状況である。
 とはいえど、その城塞都市が落ちたというのに、ルドラスの侵攻はそこから南へはなかった。血気盛んな要人たちはこの機を逃すべからずと、ルドラスとの戦争を一気に進めようと声を大にする。されど、マイアは今、また別に敵を迎え撃たんとしていた。
 通常、白の間が開け放たれるのは明るい時間のみで、それも白騎士団ならびに麾下《きか》の騎士たちが一同に集まるなど何かしらの式典以外にはなかった。そこに並ぶのは錚々《そうそう》たる顔ぶれの他にもまだ若い、それも少年の面差しの者さえいる。さらには上流貴族から下流貴族に至るまで、後者など本来ならば真紅の絨毯を踏むことすら許されていないというのだから、彼らはもうそれだけで胴震いをさせている。玉座に座るのはイレスダートの王アナクレオン。その姿を眼《まなこ》に映すことがまるで禁忌であるかのように、彼らの視線は右へ左へと落ち着きがない。自分の呼吸すら支配されているような緊張の中で、王はただ静かに声を落としてゆく。
 しかし、その途中でざわめきが起こった。
 声を発したのは若い騎士たちではないだろう。とはいえど、誰しもがそれなりの動揺をしたのはたしか、王の言葉に耳を疑ったのはフランツもまたおなじだった。だとしても、凝然《ぎょうぜん》と立ち尽くす他はない。アナクレオンの声はまだつづいている。
 それらがすべて終わるまでにそう長いときではなかった。そして、王は皆を下がらせる。そこに白騎士団団長であるフランツただひとりを残して。
 声を返すように求められたときに、そこではじめてフランツは王の顔を見た。
 頬が痩せたように見えるのも無理はない。王はしばらく床に伏せており、執務が行えないほどに健康状態が芳しくなかったのだ。いつ身体を壊してもおかしくはないほどに王は多忙な身であったが、理由はそれだけではなかったはず、だがフランツはその目ではっきりと見たわけではないために、事実を追うことはできない。投獄されたのはムスタールの公爵ヘルムート、その公爵を庇い立てたのは元老院にあり、また王であるからには容喙《ようかい》すべきことである。
 フランツは無意識に拳を固くしていた。
 ヘルムートはすでに釈放され、王の命令により自国へと戻ったというのだから、それに依存を唱えるわけではなかった。ただ、ヘルムートという人を知っていれば、どうしても違和は残るものだ。そのフランツのわずかな心の動きを読み取ったのだろう。王はそれを繰り返す。
 お前は王の盾であるのだと。
 ここまで和を望んでいた王であろうとも、これほど逼迫したときであればまた話は異なる。ルドラスの兵など一兵たりともガレリアより南へと踏ませるわけにはいかないのだ。
 だが、王は敵はルドラスではなく、ルダならびにアストレアにあるという。このイレスダートの危機のときに逆臣を野放しにしてはおけないのだと、王は言う。こうしたことはイレスダートの長い歴史の中でめずらしくはない事例であるもの、しかしながらこのようなときにこそ、兵力をそこに割くのが正しいといえるのか。
 フランツは求められた言葉をそのままに口にする。他の声など用いてはならず、拳の中には汗が溜まっていた。
 もしもここに、白騎士団副団長でありともに聖騎士であるカタリナ・ローズがいたならば、彼女はフランツを叱責しただろう。これでは以前と逆のようだと、フランツは意識して息を吐いた。アナクレオンは終始相好を崩さなかった。
 団長室へと戻るよりも前にフランツは要人たち、麾下の騎士たちに詰問のような声をされたものの、フランツは緘黙《かんもく》を通した。それが騎士として正しい在り方だっただろう。されど彼らはそうではない。忠誠、信念、または矜持。人はそこにすこしでも闇が落ちれば揺らぐ生き物だ。彼らには証が必要なのかもしれない。王の盾であること、その重みだけでは足りないというのか。彼らの耳には誰の声が届いていたというのか。
 フランツは持ったのが疑心ではなく不快感であると認めてはいたが、それらすべてを捨てた。あれは《《たしかに》》アナクレオン・ギル・マイアの声であった。
 

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