六章 あるべき場所へ

ワイト家

 もとより短絡的な思考であるために、物を見る目が備わっていないだけならばまだしも、他人の言うことなどまったく耳を貸さないような男である。 
 しかし、三十年近く生きてきてそうした気性は直しようもないもので、それが余計に父子の溝を深めているらしい。もとより厳格な性格である父親は、それが血の繋がった息子であればことさら厳しくするような人間である。はじめからまともな話などできるはずもなかった。
 ホルストは荒々しく扉を閉めた。こちらは鼻息荒く舌打ちまでしたものの、扉の向こうではまだ怒鳴り声が聞こえている。医者から血圧のことでうるさく言われているというのに、あれではまた突然倒れてしまうだろう。固陋ころうなところはホルストも父親もよく似ている。もっとも、ホルストはそれを認めていなかったのだが。
 ホルストは声を無視して回廊を歩き出す。こうした父子のやり取りは日常にてよくあることで、従者や侍女たちは関わり合いにならないようにひそりと身を隠している。それは正しい選択だ。なにしろ、ホルストは目が合っただけで胸倉を掴みかねない。当たり散らされるならばまだいいとしても顔が腫れるまで殴られる、あるいは凌辱を受けても侍女たちは耐えるしかなく、理不尽な仕打ちに逃げた者の数は少なくはなかった。
 このようなことが続けば民の心は離れていくばかりだが、実際そうはならない。ランツェスの公爵家は貴族の中でも名門中の名門であり、それこそ始祖はかのマイア王家と同じくらいに古い。豊かな土壌と鉱物が取れる場所には人が多く集まるもので、位置はイレスダートでも北よりであるために冬はそこそこに寒くとも、もっと北の城塞都市ガレリアやルダよりははるかに過ごしやすい国だ。
 千年以上も前に、それこそまだ竜がこのマウロス大陸を支配していたことから人々は牛や馬を育てる傍らで、鉱物を売って富を増やしてきた。そもそもが豊かな国であるために、自尊心が高い人間ばかりが目立つのもこの国の特徴、彼らの多くは燃えるような赤の色を髪に宿し背丈も高く、丈夫な身体を持った者たちばかりだ。
 はじめにランツェスという国を作った者もやはり貴族の出身で、彼は神より与えられし剣を持ち、竜と戦ったという。
 公爵家はその血を受け継ぐと同時に、神剣もまた城の地下深くに隠されているというが、その真偽は明らかではない。扱える者がいないという噂と、過去に王家の者によってその剣は封印されたという噂が勝手に伝え歩きしているだけだ。
 ともあれ、長子であるホルストが常日頃から放埓ほうらつな行いをしようとも、やはりランツェスの人々にとって公爵家はなくてはならない存在であり、その信頼は厚い。ただし、嫡子がこれでは民の不安は募るところで、ランツェスの明日を嘆く者もいるという。イレスダートは戦争を続けているからこそ、余計にそうなるのだろう。
 だから、人々の目はその次兄に向く。ホルストと弟は母が違うので似ている要素がまず見つからない。髪の色にしてもホルストが茶色に赤を混ぜたような色をしているのに対して弟は赤銅の色を、それから決定的に異なるといえば弟は誰もが見惚れるくらい整った造作ぞうさくをしているところだろうか。それだけで、おのずと劣等感を抱くのかもしれない。兄弟の仲はけっして良くなかった。
 自室へと戻ったホルストはソファーに深々と身体を沈めた。そのまま葡萄酒ワインの一瓶でも開けたいところだがそうもいかない。今日は妻の父親、つまりは義理の父の命日であるからさすがに自重した。ランツェスではそれほどヴァルハルワ教徒が多いわけではなかったが、妻の家はそれであり、こういった日に酒を飲む行為を特に嫌う。湿っぽく鬱々とした会食、それもこの日ばかりは肉や魚を避けた質素なものばかりが、あとは白パンとチーズを水で流し込み、その間の会話などは一切なく、ただひたすらに死者を悼むための儀式だ。
 ホルストは爪を噛む。苛立っている時に出てくる悪い癖で、幼い頃から幾度となく注意されてきたものでも、もうこの年になると治らないものだった。
 グラス一杯くらいならと、しかしホルストの妻は見逃さないだろう。ランツェスの女は気位の高い者が多く、妻も例外なくそれだった。あの甲高い声で喋り続けられてはたまらない。神などまるで信じていないホルストである。ヴァルハルワ教徒は離婚が禁止されているといえ、顔がうつくしくなければとうに城から追い出しているところだ。
 苛立ちが混じった溜息を三度吐いたところで扉をたたく音が聞こえた。ホルストは入室の許可をしない。にもかかわらず扉は開かれ、ホルストは目だけをそちらに寄越した。
「何の用だ?」
 それが、実の弟であろうともこの口調である。ただし、弟の方もホルストとまったく同じ顔を作っている。
「話がしたい」
「俺にはない。出て行け」
 このやり取りは五度目であったが、一度たりともこれ以上続いた試しがない。
「俺にはある」
 ところが、ディアスはホルストの許しがないままにその一歩を踏み入る。普段ならばここで退くはずの弟にホルストは舌打ちした。兄と弟の視線が交わることはなかった。
「王都からの要請が来ている。あなたは、これをこのまま無視し続ける気か」
 弟がホルストを兄とは呼ばなくなってからもう何年もたつが、それがいつからなどとホルストは覚えてもいなければ、気にするところでもなかった。
「それがどうした?」
 ホルストは顎で促す。出て行けの意味ではあったもの、弟は微動たりともせずにいる。
「我がランツェスは北との同盟を結んでいる。兵など一兵たりともマイアのためには動かさん」
「……っ、それが国王陛下に、マイアに背くということがなぜ分からない!」
「ふん。俺はあんな傾きかけた国と心中するつもりはない」
「ふざけるな、それではランツェスはイレスダートの敵となる……!」
 感情を剥き出しにした口吻こうふんをする弟はこと稀であったが、ホルストは取り合うことをせず、ただ嗤笑ししょうする。そもそも、国にも王家にも敬意など持ったことがないホルストである。内部が腐ったマイアなど外からいくらでも隙ができるものだ。今のランツェスが実にそうで、もっとも独断で北との交渉に応じたのはホルストであったのだが。
「お前こそ分かっているのか? マイアは兵を欲している。反逆者たちを処するためにだ。つまり、お前は自らの手で幼なじみたちに剣を向けることになる」
 いかにも大儀そうにやや上体を起こしながら、ホルストは言う。言葉とは裏腹に声色は実に愉快そうに落ち、しかしその沈黙はほんの一拍だけだった。
「……それで、ランツェスが守れるのならば。何より、父上がそれを望んでいる」
「はっ! 見上げた友情だな。そこまで言うなら勝手にしろ。俺はこの件に関わらん。だが俺の前で小細工などできると思うなよ。ランツェスがマイアに与するのは形だけであっても、逆賊どもは始末しろ。必ずだ」
 そこまで言うとホルストは今度こそディアスをそこから追い出した。けっきょく、それ以上部屋には入らせなかった弟であったが、入れ違うようにホルストの元へと訪れたのは北からの使者であった。取り次ぐような声は聞いておらず、この使者はいつだった神出鬼没に現れる。
「ずいぶんと兄弟仲がよろしいようで」
 揶揄に応じずホルストはやおら立ち上がった。
「要件はなんだ?」
 それが北との間を取り持った使者であろうとも、ホルストは特別に取り繕うような真似をしない。動いたのはそろそろここを出るため、それでも使者は艶美な笑みをする。
「我らが王に話は通してきました。ランツェスがどう動こうとも、気になさってないご様子でしたよ」
 ホルストは相好そうごうを崩さない。北のルドラスとの同盟を結んだのはホルストの独断での行為であったものの、しかしすべてを北に委ねたわけではなかった。あの日、城塞都市ガレリアが落ちた時に、ホルストに交渉を持ちかけたのはこの使者だ。それがたとえばかの聖騎士であったなら、もしくはその上官であるランドルフという男であったならば、甘美な声には耳を貸さずにガレリアと共に運命を共にしたことだろう。
 ホルストはこの使者に見覚えがあった。正確にはその容貌にだが、透き通るように流れる白金の長い髪と薄藍の瞳を持つのは、かつてイレスダートで名を馳せたある一族の者に現れる特徴だ。すなわち、それは偶然などではなく、使者は時宜じぎを待ってホルストに接触したのだろう。
「ワイト家は貴様のような老獪ろうかいな者ばかりなのか」
 話に乗ったのはホルストであっても、手の上で転がされているとあればいささか気分は悪い。それには少しばかり意外そうな表情をし、けれど使者──エセルバートはすぐに元の笑みをした。
「古い家名ですね。今はもうどこにも存在しないというのに、知るだけ無駄というものでしょう」
 あくまで協力関係に過ぎない者同士、最初から馴れ合うつもりはなくとも顔を合わす機会は多い。その薄っぺらい微笑みの仮面を剥いでみたくもなるものだ。使者はホルストの口の中の言葉を読み取ったのか、話題を変えた。
「そうそう。妹君ですが、息災でありましたよ。立場上、窮屈な思いをさせてしまいますが、ご心配に及ぶようなことはありません」
 その物言いはこそおだやかであってもこれは紛れもない警告、ホルストは笑みを返さぬままに、会話をそこで終わらせた。










 三回目のくしゃみをした時に、後ろからくすっと小さく笑う声が聞こえた。
 イレスダートの北は寒さが厳しい場所だと伝え聞いていたが、さすがにこれほどとは思わなかった。鉛色をした重い雲からはずっと雪が降り続けているために、もう十日も太陽を見ていない。砂と熱気ばかりの故郷とは大違いだ。四度目のくしゃみをしたところで、クライドはようやっと後ろを向いた。今度は声が漏れないようにとくすくすと笑っていたらしい。
「風邪をひいてしまいますよ?」
 大きなお世話だと言いたいところだが、本当にそうなってしまいそうだ。クライドは雪を見たのはもう何度目かにはなるものの、それでも朝から晩まで降り続ける上に、身体を芯から凍えさせる冷えには慣れない。こんな劣悪な環境の土地でよくもまあ生活をしているものだと思う反面、そこがこの国の人々のとっての場所であると、それこそ自身の故郷でもそうだったのを思い出す。と、同時に記憶から蘇ってきたのは、彼とはじめて会った時のことだ。
「……あんたは、慣れているみたいだな」
 思い掛けない一言だったようで、クリスはきょとんとした。
 別に他意があったわけではない。クリスはラ・ガーディアのフォルネという国の聖職者であり、しかしラ・ガーディアの南に位置する国ならば冬の寒さもそこまで厳しくはないはずだ。だから暖炉から離れられないクライドのように、までとはいかなくとも
さも順応している表情には違和があるのだ。
「私の生まれは寒いところでしたから」
 どうやらクライドの推測は当たっていたらしい。
「それは、イレスダートのどこかなのか?」
 クリスの瞬きの回数が増えた。見当違いな発言ではなかったと、クライドは思う。ただ、聞いてはならないことだったのかもしれない。
「あ、いや……、そんな特別な意味で訊いたわけではない」
 もともと他人にそれほど興味も関心も持たないクライドだ。こうして自分から話題を振るのさえ滅多にないことで、クリスは戸惑っているのだろう。
「いいんです。それは、間違ってはいません。隠しているつもりもないですし」
 普段の声音よりもう少しだけ低く、そして微笑みにしてもどこかぎこちない。やはり訊くべきではなかったと、クライドが後悔しかけたところで声は続いた。
「ちょっとした、昔はなしを聞いてくださいますか?」
 きっと、いつものクライドならば断わったはずだ。けれども踵を返さなかったのは後ろめたさが勝っていたから、それ以上の意味はない。
 応接室のソファーにクリスは腰掛けてもクライドは立ったまま、いつまで待っても隣には来てくれないのでクリスは微笑した。
「あなたのおっしゃるとおりです。私は、イレスダートの生まれでした」
 自身の過去なのに人の話のように言う。
「私の、この髪と瞳の色は、イレスダートではめずらしくありません。とある一族の証だともいえるもので、彼らの多くは王都に、私の父はそれほど力を持たない側の人間のようでしたから、王都からは離れていましたけれど。王都マイアよりはもっと北に、ムスタールとの国境近く……といっても分からないでしょうね。」
 クライドはクリスの容姿をまじまじと見る。絹糸を思わせる白金の髪と清冽な印象を受ける薄藍の瞳は、特徴的といえばそうかもしれないが、イレスダートの人間ではないクライドにはそこまで重要なものだとは思えなかった。ただ、この言い方からすれば、さぞイレスダートでは影響のある貴族だったのだろう。
「イレスダートではこの一族を知らないという人は、そういないでしょう。でも、それは過去の話。ある時を境に一族は離散してしまいました」
 名のある貴族が没落するなど、どこにでもある話だ。政治が絡んだ失脚、もしくは事業に手を出して失敗したか、他には……と詮索しかけてクライドは止めた。
「父と母は、私を遠縁の親戚に預けて姿を消しました。その時の私はまだ幼いこどもでありましたが、両親が迎えに来ないことは分かっていました。でも、私はそこで殊の外可愛がられて、不自由することなく育っていきました」
 クリスは呼吸のための間を空ける。
「それなのに、私はいつだって人の顔色を伺ってばかりのこどもでした。いつまでたっても背も伸びずに細っこいままで、でも旦那さまはそんな私を実の息子のように可愛がってくださいました」
 まるで物語を読む時みたいな、歌うような声だ。
「私は成長が遅いこどもでありましたし、何より人を疑うことは罪だと教え込まれていました。だから、すぐには気づけなかったのです。旦那さまは私を息子ではなく娘のように扱っていたことも、綺麗なドレスや髪飾りなどを与えらえるままに、それが持つ意味を、」
「もういい、それ以上は言わなくていい!」
 クライドは思わず叫んでいた。クリスは驚いたのか一瞬だけ目を大きくし、しかし次にはもとの笑みに戻っていた。
「あぁ……。すみません、ご想像されていることにはなりませんでしたから」
「そ、そうか。……大きな声を出して悪かった」
「いいえ、こちらこそ。でも、そんなことになる前に、私は逃げ出したのです」
 クライドは唇を閉じた。その造作と物言いからしてそこに結びつくのは自然だが、なんとなくきまりは悪い。居心地の悪さを読み取ったのか、クリスはもう少し間を空けてから紡いだ。
「ですが、逃げたところで行く宛もなく、途方に暮れていたところで出会ったのがあの方でした」
 一度は下げた視線を戻してみれば、薄藍の目とぶつかった。あの方というのは、フォルネの王女――フレイアのことだろう。他国の王女がイレスダートに身を寄せていた事情をクライドは詳しく知らない。だから、つい怪訝な表情をしてしまった。
「その頃のフレイア様は複雑な状況にあって……、でも、そうですね。話が少し逸れてしまいますが」
「いや、あいつのことはいい。悪いが過去を聞いたところで興味はない」
「そうですね……」
 クライドは息を吐いた。みなまで聞いたというのに、その言い方は冷たかったかもしれないが、そもそもクライドは他人を気遣うような声をしない。だが、クリスはまだ話し終えた顔をしていなかった。むしろ、ここから先が本当に聞いてほしかったかのように、クライドの反応を待っている。
「フレイア様は私を見つけてくださいました。ですから、あの方の傍でずっとお仕えすることだけが、私にできる唯一の恩返し」
 祈りのように言う。あるいはそれこそが希望のようにと。それは忠誠心よりも信仰心に近い。
「でも……、私は。ほんとうは、マイアには戻りたくはないんです。行きたくは、ありません」
「なら、行かなければいい」
 思わずつぶやいていた。視線は再び絡み合う。
「いいえ。だめです。だって、あの方が望むならば、どこにだって行きます。あの方が望むことは何だって叶えてやりたい。それが、私の願いでもあるのですから」
 ざらついた掠れた声が耳の奥まで残る。神を崇めるどころかその存在すら信じていないクライドは、こうして敬虔な教徒と関わることさえなかったことだ。それゆえに、分からなくなる。聖職者である彼は神を崇拝しその存在を疑わないのはたしか、しかしこれではまるで彼女フレイアがそれであるかのように、言う。恩人であるならば、主と従者の間柄でもそれ以上の感情を持つこともあるだろう。ただ、そこに男女の情がないだけ、彼にとってあのフォルネの王女こそが、生きるすべてのようにも聞こえる。
 次にクライドがクリスを見た時には、もう元の笑みに戻っていた。だが、気のせいではなかったはずだ。クライドは不安視する。その感情こそが、もっとも危ういものではないのか、と。
 

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