六章 あるべき場所へ

聖者の行進1

 山毛欅ブナの森を奥へ奥へと、ただまっすぐに進んでゆく。
 風が通り抜ける音に木々の葉が擦れ合う音、鳥たちのさえずりに、もっと耳をすませば水辺から心地良い音もきこえてくる。精霊たちに誘われてそのまま湖へとたどり着くのもいいけれど、それでは目的地から遠く離れてしまう。女神アストレイアに仕える精霊たちはとにかく悪戯好きだから、余所者を連れてきたと知れば惑わすこともあるかもしれない。
 ノエルはちいさい頃に母さんに教えてもらったおまじないを口のなかで唱える。大丈夫だよ。みんな、俺たちの仲間だから。そう付け加えて。
 早朝に降った涙雨はすでに止んでいて、いっそう濃い緑のにおいがした。懐かしさを感じる前にノエルはほんのすこし警戒心を抱く。女神アストレイアは争いを嫌うのだ。だからこれは歓迎としてよりも警告だと考えるべきだろう。厄介事を持ち込んだ敵だと見做されても当然だ。
 大役を任されてしまったな。それでも他に適任がいなかったといえばそのとおり、相棒のレナードは消えてしまって久しいし、地の利に明るいのはたしかにノエルだけだった。
 うしろにつづくのは新兵たちを含めてざっと数えても二十人、けっこうな数だ。
 次の戦いがはじまればルダの名だたる魔道士たちとおなじく、後衛部隊の主力としてノエルも戦う。大した出世じゃないか。きっと、相棒ならばそう言う。ちょっと荷が重いなんて考えてしまうのは、自分よりもっと弓の名手をノエルは知っているからだ。
 ともかく、これだけの人数を率いてアストレアの領域を侵すのだ。言葉を用いての主張など、どれだけ通じることやら。そもそも蒼天騎士団の団長トリスタンは平和主義であったかどうか、どの記憶をたどってみても怪しいものだし、騎士団長とノエルが交わした会話にしても数える程度だ。
 説得って言ってもなあ。ノエルは口のなかでごちる。公子も軍師も本気でそれが可能だなんて、思っているのだろうか。亡き公爵に代わってアストレアを預かるのはエレノアという人だ。アストレアの民は彼女を慕っているし、イレスダートの歴史に名を残す女傑だと信じている。その人が囚われているとなれば、彼女のためにアストレアの騎士はたたかう。そう。トリスタンはエレノアの騎士だからだ。
「そんなに緊張しなくてもいいよ。たぶん、君が考えているようなことには、ならないから」
 先ほどからずっと胴震いをさせている新兵に向かってノエルは言った。成人したばかりの新兵はノエルとおなじ弓騎士だった。でも、これではとてもたたかえない。冷静であれと、ノエルは自分に言いきかせる。敵の姿を認めて弓をつがえる。一瞬の迷いも許されない。新兵が震えるのも仕方のないことだ。小柄なノエルよりももっと細い肩をぽんとたたけば、やっと新兵は呼吸が楽になったらしい。
「アストレアは美しい国ですね」
 はにかんだような笑顔を見せた新兵にノエルもちょっとだけ表情を緩める。それも、ここまでだ。ノエルの記憶と勘が正しければそろそろ遭遇してもおかしくはない頃だった。はたして、蒼天騎士団はノエルたちに剣を向けるのか。そしてトリスタンはそこにいるのか。
「ノエルさん、ちょっと来てもらえますか?」
 呼んだのはオルグレム将軍のところにいた騎士だった。主を失ってもなお戦いつづけようとするし、ちゃんとノエルを部隊長だと認めてくれているから物言いも丁寧だ。
「なにか問題でもあったのですか?」
「それが……、罠かといえばそうかもしれませんし、そうではないのかもしれません」
「罠?」
 ノエルの返しにもどういうわけか言いにくそうに口を噤んでしまった。彼はノエルとそう年の変わらない騎士だったが、ノエルよりもずっと前に騎士になっている。
「なんていうか、妙なんです」
 考えた上での発言だったようでも、ノエルにしてみればますますよくわからなくなった。そこへ、彼が連れていた新兵と目が合った。こちらもまだ頼りなく上官を前に緊張している。
「あ、あのう……この先にアストレアの騎士がいたんです。えっと、蒼天騎士団ですよね? たぶんその人たちが……」
 こちらもまた憶測で物を言うので、ノエルは思わずため息を吐きそうになった。ただ、嘘は言っていない。そうしたところで何の利点も残らないし、なにより彼らの目をノエルは疑いたくなかった。
「わかった。ともかく行ってみよう。俺と、この三人だけでいいから。他の皆はしばらくここで待機。大丈夫。必要以上に近づかないよ。俺、目には自信があるから」
 さあ、責任重大になってきたぞ。けれどもまだ落ち着いているから何の問題はないと、ノエルは自分を励ます。こういうときにレナードならなにも考えずに直感を信じるんだろうな。そんなことを思ってしまった自分が、ちょっと悔しい。帰ってきた相棒に話したならば、きっと大笑いするだろう。
 ノエルはさらに森の奥深くへと進んでゆく。他の騎士たちの緊張が嫌でも伝わってくるので、なにかの冗談でもひとつ飛ばしてやろうかと思った。けれども、その足は止まる。ノエルの目が認めたのはたしかに蒼天騎士団だった。イレスダート人には青髪が多いのは誰もが知っていて、それは特に身分の高い貴族の人間に多い。はじめから貴人の子でなかったノエルやレナードが青髪ではないのもそのためだ。ノエルは瞬きを二度してそれから考える。これはいったい、どういうことなのだろう。
 先に知らせてくれた二人も新兵も、黙りこくっている。
 なにかの罠だと思う方が自然だろうか。そこには青髪の騎士たちが倒れている。その数はざっと見たところ、二十は超えて。蒼天騎士団はやはり叛乱軍討伐を命じられていたようだ。アストレアを奪い、エレノアというひとを閉じ込めたランドルフという男によって。
 数呼吸が空いて、それから突然ノエルは駆け出した。跪いたのは栗毛の騎士の前だ。アストレアにいた頃は新米騎士だったノエルが知っている顔といえばそう多くない。見覚えがあったのは騎士がノエルと同期だったからだ。
 名を呼んだところで返事はなく、ノエルは騎士の胸に耳を押し当てる。規則正しく動いている心臓の音がちゃんときこえて安堵する。視線を仲間へと戻せば彼らはまだ不安そうな目をノエルに送っていた。
「大丈夫。みんな眠っているみたい」
 三人はほとんどおなじ反応を見せた。ノエルはちょっと笑う。自分だっていまこの状況を信じられないような気分だ。けれども、他の蒼天騎士団の者たちにしても、ここまでノエルたちが近づいているというのに、まったく動きがない。そのうちの一人がいびきをかいているのを認めて、新兵が吹き出した。
「ほんとう、ですね。でも、どうしてこんなことに?」
「そうだね。これじゃあ、罠を疑うのが普通だよね。でも、それにしては不自然だし、このままどうぞ捕らえてくださいって言ってるみたいだ」
 ノエルは一番理解が早そうな騎士を見た。ずっとオルグレム将軍に付き従っていた騎士はただうなずいて、そこから去って行った。軍師にこれを知らせてほしい。ノエルは目顔でそう頼んだのだ。
「俺たちも一度戻ろう。こんなに熟睡しているんだもの。きっと二時間は目覚めないんじゃないかな?」
 そのあいだに蒼天騎士団の身柄はこちらで確保する。戦わずに勝つだなんて上手く行きすぎているし、まるで誰かが用意した脚本みたいだ。
 ノエルは疑心を消さないままだったが、しかし懐かしい仲間たちを見てどこかで安堵していたのかもしれない。自分たちより離れた場所で、視力に自信のあるノエルからも見えないそこで、一人の騎士が見ていたことを気がつかなかったのだ。
 イレスダート人に黒髪もまためずらしくはなかったが、騎士を異端に見せるのは顔を覆っている仮面だ。ノエルたちの増援が来て、眠ったままの蒼天騎士団が連れて行かれるそのときまで、じっと見守るかのように仮面の騎士はそこから動かなかった。
  










 彼女は、そのときをただひたすらに待っていた。
 王命を受けたのはこれよりひと月も前、オリシスがすぐに従わなかったのは最後まで公爵夫人であるテレーゼが反対したからだ。しかし、それだけではない。彼女は時宜をはかっていた。それだけのことだ。
 義理姉の声はいまも彼女の耳に残っている。普段は大人しい気質のテレーゼが、あれほどまでに厳しく強い言葉を吐いたのもこれがはじめてだった。さすがに王都マイアからの使者がかの元老院であったので、追い返しはしなかったものの、はっきりと記された王の証を見てもなおテレーゼは信じようとしなかった。
 冷静でありなさいと、義理姉は言う。それはあなたの方だと返すのも面倒だったので、けっきょくオリシスを立つその日まで、義理姉と声を交わすことはなかった。
 あのひとは、なにもわかってなどいない。
 テレーゼは幼い時分からオリシス公爵家に嫁ぐことが決まっていた人だ。公爵夫人としてふさわしい教養を身につけていたし、母をほとんど知らない彼女にとってテレーゼは姉でもあり母のような存在でもあった。定められていた政略婚、それでも二人の絆はたしかなもので、結果として兄がテレーゼを選んだのだと彼女は疑わなければ、それは運命であったとそう思ってさえもいる。だが、彼女とテレーゼとの関係はいまは壊れてしまっていると言ってもいい。アルウェンという人を、失ってしまったその日から。なにもかもが変わってしまったのだ。
 軍師が何かをささやいている。アストレアの蒼天騎士団が動き出したのだろう。はじめからアストレアなどあてにしていない彼女は、むしろ奴らが裏切るつもりで見ている。蒼天騎士団と合流するなどという軍師の策には耳を貸さなければ、ランツェスを待つ気もなかった。いまこそが好機なのだ。
「なりません、ロア様!」
 ところが軍師はなおも彼女を止めようとする。周りは軍師を有能だと認めているがロアは逆で、どうにも臆病なたちの軍師などお荷物でしかなかった。オリシスは軍師の失策が原因で大敗を喫した苦い過去がある。軍師が病的なくらいに慎重になるのもそのためだ。
 失敗は、二度と許されない。そう老者はうそぶく。戦場で戦えなくなった兄を見限ったのは白の王宮のくせに、必要とあらば求めてくる。以前のロアなら傲慢さに腹を立てたかもしれないが、いまは好都合とさえも思っている。そうだ。これは私がやらなければならない。生前の兄はムスタール公爵ヘルムートを友と認めていると同時に、騎士としての素晴らしさを良くロアに語ったものだ。そのムスタールでさえも叛乱軍を逃してしまったのは、白の王宮としても想定外であったのだろう。だが、彼女は安堵していた。聖騎士の首を取るのは、己のこの手でなければならない。
 軍師の呼ぶ声がきこえなくなった。
 いや、軍師の声だけに留まらず側近や侍従、あるいは近しい親者の声すらもロアはもうまともにきいてはいない。お前はどこか向こう見ずなところがある。成人してもなお諫めるのは兄だった。そのアルウェンはどこにもいないというのに、誰がロアを止められるというのか。いまこそ、守らなければならない、兄の意思を。いまこそ、示さなければなるまい。兄のただしさを。
「おや、火のなかに飛び込む虫がいたぞ」
 きき覚えのない女の声がした。いったい、どのくらいのあいだ正気を失くしていたのだろう。振りかぶったときにはもう遅く、ロアの剣は鋼の剣によって阻まれた。ずいぶんと重い。女の手でこれを扱うなどにわかには信じがたいが、しかしその女は余裕の表情でロアを見おろしている。ロアは馬の腹を蹴り、間合いを取った。目を瞠り、現実を知るまでの時間はそう長くはない。囲まれているのだ。軍師も麾下も、すべてを置き去りにしてロアはただ己の声だけをきいていた。
 なんということだろう。女は軍服ではなく、見慣れない装束を纏っていた。異国人と認める要素は黒髪と褐色の肌、そして、ロアは彼らが掲げる旗を見た。
「四葉……? ラ・ガーディアか!」
「いかにも、私たちは西の国から来た。が、こんなところに小娘が飛んでくるとはな」
「黙れ! 我らが聖戦に貴様らのような蛮族が介入するというのか!」
 ロアはもう一度、女に剣を突きつける。しかし、異国の女はひとつ瞬きを落とし、それから声をあげて笑った。
「なにが可笑しい!」
「面白いことを言う小娘だな。私たちを獣呼ばわりするつもりか」
 人間の行いとはほど遠い、これが獣のすることでなければ他になんと言うのだろう。異国の女の背後に掲げられた旗はたしかに四葉と獅子が描かれている。あれは、イスカの黒旗だ。兄アルウェンを屠った聖騎士が西の国へと逃げたのは一年前。愚かな大罪人は西の蛮族どもを味方に付けていたようだ。
「きけ、小娘。私は友との約束を果たすためにここまで来た。お前の言う聖戦などには興味はないが、しかしこれでは約束の時間に遅れてしまう。剣を捨てろ。さすれば、お前の部下たちも無傷で返してやろう」
 ロアは歯噛みする。ここで戦わずとしてどうして兄に顔向けができようか。剣を持つ手に力を入れ、呼吸を整える。だが、女の剣の方が早かった。舞ったのは兄とおなじ色をしたロアの赤髪だった。オリシス公爵家の娘は温室ではなく戦場で育つ。長い髪は邪魔になるのでロアの髪はいつも短く、しかし兄を亡くしたその日から伸ばしつづけていた。
「ほう……? まじろぎすらしないとは、さすがは騎士だな」
 嘲笑とはまた別の、異国の女はそういう笑い方をする。ロアは女の目だけを見ていた。黒曜石のようなその瞳に映るロアは希望を失ってなどいない、騎士の挙止をしている。たとえ己の命がここで果てようともこの女さえ落とせば、それでいい。ところが――。
「悪いな、小娘。私は騎士ではなく戦士だ」
 異国の蛮族たちの弓はロアへと向いている。降伏の意に従わなければ騎士としての矜持を失う。それはただの死だ。ロアは目を閉じた。



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