好機は他になかったはずだ。ここで退いたのならば、何らかの理由があったのだろう。白騎士団団長フランツ・エルマンの命令は絶対で、それを無視してまで王都へと引き返すほどのなにかが。その答えは一人の竜騎士が教えてくれた。
「ユングナハルが動き出した、だと……?」
レオンハルトの唸る声に若い竜騎士は首肯する。王都の情勢を知る方法は多々あるものの、旅商人や情報屋を通せばそれだけ時間がかかる。たしかに竜騎士を使えばそれらが早く済む。危険が伴うのも承知の上で、なによりこちらの動きも読まれてしまう。しかし、竜騎士はこうして無事に帰ってきた。つまり、蝶者を捨て置いてまで優先すべき事態が起こっているということだ。
「なるほど。白騎士団はそこに専従しているわけか。それにしては早いな」
「フランツ・エルマンは我々だけではなく、常に北や南を警戒していたはずです。ユングナハルの一部族の動きというなら、すでに制圧しているのでしょう。叛乱軍討伐の指令を受けながらも退却したというのも、おそらくは指揮官の独断と考えられます。王都の守りが手薄になると、焦ったのでしょうね」
「なかなか抜け目のない奴じゃないか。もう一人の聖騎士は」
セルジュの返しにレオンハルトが嘲笑する。揶揄を受けてもブレイヴの表情は変わらぬままで、視線は机上の地図へと注がれている。国土の大半を砂漠に覆われているユングナハルは、沃土に恵まれたイレスダートを欲している。北のルドラスとの戦争に明け暮れたイレスダートを狙っているのは、南のユングナハルに留まらず、山脈に隔たれたさらに東の国だってそうだ。とはいえ、実際に表立ってイレスダートに戦争を仕掛けるほどの国力はないために、こうした動乱に乗じてのこと、本気でイレスダートを
「でも、それにしてはおかしいじゃない。ユングナハルの王サマっていまは女王でしょ? そんなに好戦的な人間だったかしら?」
指先で長机をたたいているのはアイリスだ。仕草や言葉とは別に、声はどこか面白がっているようにもきこえる。
「平和主義とまでは言いませんが、たしかにそうですね。それならばいまではなくとも、好機はいくらでもあったはずです。イレスダートを挑発するにしてもあまりに
「では……味方したとは考えられませんか? いえ、白の王宮ではなく、私たちに」
皆の視線が一斉にセシリアへと向かう。
「だとしたら、ユングナハルは俺たちの救世主だな」
「兄上は黙っていてください」
兄妹のやりとりにちいさく吹き出したのはノエルで、アイリスは急にこの話題に飽きたらしく欠伸をする。ルダの軍師が公女を諫めるも、うるさいわねえと拳で小突かれてしまった。ブレイヴの隣ではセルジュが黙考し、最初の緊張が嘘みたいに他の者たちも勝手に喋り出している。しかし、彼だけは無表情のままだった。
「いや、それはない。ユングナハルの王はイレスダートに興味がないし、基本的に王都ナナルの外には関心がない」
ブレイヴはクライドを見た。ここにはイレスダート人の他にもグランの兄妹がいる。そして、他国の人間ならば彼もそうだ。褐色の肌は砂漠の民ユングナハルの証、一番情勢に明るいのも彼だった。
「この一件に女王が関わっていないと、あなたはそう言いたいのですね。ですが、証左はどこにありますか? 大した武力も持たない人間がどうイレスダートと戦うつもりで、」
「あんたも言ったじゃないか、セルジュ。あれは一部族の動きだったと」
軍師の眉間の皺が濃くなった。クライドはひとつ息を吐く。
「別に、あんたを否定するわけじゃない。ダビトはそういう奴なんだよ。本気でイレスダートを狙ってるわけじゃなくても、あいつは馬鹿じゃない。ただ自分の力を誇示したいだけだし、他の部族を焚き付けている」
「……何のために?」
冷えた目がブレイヴを射抜いた。
「決まってる。ナナルを自分の手に奪い返すためだ」
なかなか図太い人間のようだ。己の欲のためにイレスダートを利用するなど、普通の神経では考えられない。それにしても――。
「まるで知り合いのように言いますね、そのダビトという人間を」
「ああ、俺の兄だ」
セルジュが唇を閉じ、他の者もそろって動きを止めた。
「悪いが、これ以上を話す気はない」
クライドは最初から他人事みたいに話していた。血の繋がりがあっても自分とは無関係とばかりに、そういう顔をする。過度な詮索を彼はもっとも嫌うたちだ。
「ともかく、ユングナハルは白騎士団が抑えてくれる」
話題を戻すためにブレイヴはあえて声にする。叛乱軍討伐の王命を受けてオリシスもアストレアもほとんど兵力が空な状態だ。国を守ってもらうには白騎士団しかいないなど、矛盾していると思わなくはないが、しかし白の王宮もオリシスとアストレアを失うのは惜しいはず、頼れるものは何だって使う。そして、これはブレイヴたちにとっても好機だ。
「なにを迷っている?」
そう見えたのだろうか。挑戦的な目をするのはレオンハルトだけではなかった。アイリスもセシリアも、腕組みをしてふたたび沈黙を守るクライドも、彼の向かいに座っているノエルも、それからセルジュも。皆がおなじ顔をしている。ブレイヴは深く息を吸い込む。ふたつ呼吸を置いて、ゆっくりと吐き出す。自分はこれまで失ってばかりだと、そう思っていた。いつも何かに、誰かに守られていて、そのたびに犠牲を悔やんできた。無力な自分を呪ったところで、先にあるのは闇だけだ。そこから堕ちてしまえばたしかに楽になれる。でも、そうしなかったのはなぜだろう。決まっている。ブレイヴにはひかりが見える。彼女は、幼なじみはいつだってブレイヴをあたたかなひかりで守ってくれた。守るつもりが守られていただなんて、騎士失格なのかもしれない。それでも――。
ブレイヴは皆の顔を順繰りに見つめる。
グランの兄妹にルダの要人たち、オルグレム将軍の騎士たち、それからずっと長い旅をともにつづけて来た仲間と軍師と。ここにいる誰一人としてブレイヴを疑ってはいなかった。だからきっと、皆はイレスダートの聖騎士ではなく、ブレイヴ・ロイ・アストレアを見ているのだろう。
北方に位置するルドラスの領内は夏であっても夜はそこそこに冷える。
静まりかえった夜の回廊を彼女は靴音を鳴らしながら行く。侍女や扈従の申し出を断った理由はふたつ、彼女がこの城で暮らして慣れ親しんでいたこと、それから単に煩わしかっただけのことだ。
ルドラスの王女エルレインはけっして短慮な人間ではなかったが、しかし近しい身内が相手となると感情が抑えられなくなる性分のようだ。きっかけは、一人の少女の泣き声だった。
「そこでなにをしているのです?」
この台詞も一度や二度ではなく、そのたびにエルレインは憐憫と
「なんでも、ありません」
最初はなにがあったのかを皆まで吐かせた。二度目はその言葉だけで少女を逃した。そして、この日は――。
白皙の肌、それから髪や瞳の色にしてもすべての色素が薄いルドラス人のなかにいれば、少女の栗毛は特に目立つ。宝玉を埋め込んだような赤い瞳もまた異端に見えるらしい。はじめは言葉による暴力だった。もともとが大人しくて控えめな性格のウルスラは、自身の置かれた立場をちゃんと理解している。どんな心のない悪口にだって、ただ耐えていた。エルレインが自分の妹を引き合わせたのは単に少女に同情したからで、けれどもそれは逆効果だった。年の近い娘同士ならば余計に遠慮のない声をする、いや血の繋がった妹をよく知っていながら、それでも頼りとしたエルレインの失敗だ。
あの娘には関わるなと、騎士の忠告には従った。そのつもりだった。
ウルスラが不自然に右手を隠したときも、エルレインは後悔をした。私が誤って香茶を零してしまったのです。それならば、少女は隠れて泣いていたりしないし、火傷をそのままにはしなかった。そしてエルレインがもっとも怒りを感じたのは、ウルスラに侍女の仕事をさせたことだ。
エルレインが妹を詰問しなかったのは、少女の目がそれを訴えていたからだ。どうか、オリエッタさまを叱らないでください。頬を赤く腫らしてまた泣いていたときも、少女はおなじ声をした。
南の離宮には侍女や他の使用人たちが大勢控えているが、王女を止める者はいなかった。
子ども同士の喧嘩でしょう。諫めた執事長を馘首した。ルドラスとイレスダートは戦争をしている。だとしても、人の尊厳を傷つける者をエルレインは許さない。
扉をたたくことも、入室の許可もないままに妹の部屋へと押し入った。
オリエッタの髪や肌の手入れをする侍女たちが、エルレインの姿を認めて動きを止めた。若い侍女たちはエルレインを恐れているが、妹の乳母を務めた老女だけはちがう目をしている。
「これはエルレインさま。いかがなされましたか? 姫様はもうお休みになるところです。いかに姉君とはいえど、」
「お前たちは出て行きなさい」
老女の顔が醜く歪んだ。自分は絶対にこの城から追い出されないという自負があるためだ。二度は言わせない、そういう目顔をエルレインはする。姉と妹と、二人きりになっても未だにオリエッタは姉の顔を見なかった。視線が合うのは鏡越しからで、オリエッタの唇はずっと嘲るような笑みを描いている。
「いやだわ、お姉様ったら。そんなにこわい顔をなさるなんて。まるで敵でも殺してきたみたい」
四つ下の妹をここまで甘やかしてきたのは兄たちだ。その兄妹も戦争や病気で他界して、ルドラスの王家に残されたのはエルレインとオリエッタのみである。象牙色の肌も長い銀髪も、硝子玉のような碧眼もよく似ていて、父と母をおなじとするのはこの姉妹だけだった。
「ねえ、早く出ていってくださる? お姉様とちがって忙しいの。明日だって朝から、」
「返しなさい」
鏡の向こうでオリエッタは瞬いた。エルレインはもうすこしだけ、妹へと近づく。
「あの子の髪飾りを返しなさい。お前が奪ったのでしょう?」
「いやだわ。なんのことかしら?」
やっとこちらを向いたかと思えば、妹は退屈そうに銀髪を弄りだした。惚けようとも無駄だ。オリエッタはいつも嘘を吐くときにこの仕草をする。エルレインは鏡台に座る妹を無視して、小棚を探しはじめる。抽斗には銀細工や宝石が所狭しと並んでいて、名だたる諸侯の贈りものであったり、あるいは父王に強請って他国から取り寄せたものだった。
「やめて! 勝手にさわらないで!」
悲鳴とともに駆け寄ってきた妹の手を振り払ったそのとき、エルレインは目を瞠った。そうでなければよかった。妹を真っ先に疑ったのはエルレインでも、心のどこかでは信じていたかったのだ。
「……拾ったのよ。あの子が鈍臭い子だから、落としてしまったんだわ。この私が、せっかく届けてあげようと思っていたのに!」
「黙りなさい」
びくりと、肩を震わせたオリエッタに、いま自分はどんな顔をしているのだろうか。
無くしてしまうといけないからと、ウルスラは兄がくれた髪飾りを普段は身につけていなかった。愛おしそうに、それを見せてくれたとき、この少女の心はランツェスにあって希望を捨てていないのだと確信した。どんな声を持って孤独な少女を誑かして、そうして奪ったのだろう。
「今夜はもう遅いわ。明日、これをお前の手でウルスラに返しなさい」
異国の、それもイレスダートの人間など敵だ。ましてや人質として連れて来られた娘に頭を下げるなど、オリエッタにしてみれば屈辱以外の何者でもないのかもしれない。ちいさな拳が震えている。碧の双眸には涙が滲んでいる。不当な仕打ちだとオリエッタは怒っているのだ。
「イレスダート人って、ほんとうに野蛮な人たちね! お姉様に言いつけただけではなく、この私を泥棒扱いするだなんて!」
その刹那、エルレインは妹の頬を張っていた。生まれてこの方、一度だって力で己を戒められることのなかった妹は、はじめなにが起こったのかわからないという風にまじろいだ。しかし、頬に走る痛みと熱は本物だ。硝子玉のような碧の瞳から涙がこぼれた。
「なによ、偽善者……」
呪わしいものを見る目ときのように、オリエッタは姉を見ている。
「そうよ。偽善者だわ。あんな、イレスダートの穢らわしい子なんて、どこかに閉じ込めて仕舞えばいいのに……! 大嫌い、だいきらいよ、あんたなんて! 大っ嫌い!」
ひどい癇癪持ちの妹が一度こうなってしまえば手につけられないことなんて、姉であるエルレインが一番わかっていたはずだ。部屋へと駆け込んできた侍女や執事たちがオリエッタをとにかく鎮めようと必死になる。腫れが残らないようにまずは冷やしましょうね。ああ、お可哀想に。姉君は疲れているのですよ。オリエッタ様はなんにも悪くありません。妹の乳母が迷惑そうな目顔をする。エルレインはひとつため息を吐き、部屋から出て行った。
「忠告したはずです。あの娘に、関わるべきではないと」
いつのまに帰っていたのだろう。銀の騎士は城塞都市ガレリアと、ルドラスの王都への行き来に忙しくしている。王の
「父は、あなたに何を言いましたか?」
忠告などではなくこれは説教だ。だから、エルレインは騎士の声を無視して問う。銀の騎士ランスロットは相好を崩さない。
「陛下のお心は変わりありません。しかし、機は間も無く訪れるはずです」
「イレスダートの動乱に乗じて侵攻するなど……、お前は正しいとでも思っているの?」
「それが王命であれば従うまでです」
どんな言葉を用意して詰ったとしても、拳を振りあげたとしても、騎士の心は揺らがないしエルレインの納得する声を返してなどくれない。これは、ただの独善だ。そんなことはわかっていても認めたくはなかったし、彼にだけはそうしてほしくないとエルレインは思っている。そうだ。綺麗なものなんて、ない。妹の言うとおりかもしれない。誰かが用意した脚本など従わなければいい。
「わたくしはあの娘をランツェスに返します」
エルレインの声に騎士はひどく疲れた顔をしていた。