六章 あるべき場所へ

明日へ

「悪いが殴らせてもらう」
 一言断りを入れるところがレオンハルトらしい。再会の挨拶もないまま、いきなり胸ぐらを掴まれ鼻と鼻がぶつかりそうな距離でも、ブレイヴは抵抗しなかった。彼の気が済むまで殴ればいいと、そう思った。
「レオンハルト!」
 悲鳴のような声が響く。アイリオーネを制したのはセルジュだ。レオンハルトは愛しい妻女をちらと見たものの、拳を収めなかった。ブレイヴもまだ息を殺している。軍師が止めたりしないのは、できなかったのは、力では叶わないとわかっているからだ。
「レオン、おねがい。やめて……」
 レオンハルトの背に顔を埋めるアイリオーネの声は震えていた。そこでようやくブレイヴは解放された。しばらく呼吸に喘いでそれからまた彼の顔を見る。友は、怒っていた。
「あなたがそれで気が済むのなら、まずは私を殴ればいい」
「ほう……? それでは、お前が先に俺に殺されても構わないと?」
「レオン……っ!」
 許されなくて当然だ。グランの竜騎士団が間に合わなければ、アイリオーネたちを失っていた。
「よせ、セルジュ……。アイリオーネも、」
 肩で呼吸をしながらブレイヴは二人を止める。レオンハルトは舌打ちをし、こちらに視線を合わせずに去って行った。夫を追うアイリオーネの姿が消えるまで、ブレイヴは彼らを見つめていた。あのまま殴られていた方がずっとよかった。レオンハルトはブレイヴを責めたくてそうしたわけじゃない。もしも逆の立場ならば、ブレイヴだって力任せに友を殴っていた。
「公子、私は……、」
「傷はもういいのか?」
 隠そうとしても無駄だ。軍師のこの性格ではちゃんとした治療も治癒魔法も受けないまま、とにかく自分の仕事を優先させる。ブレイヴたちが氷狼騎士団の砦へとたどり着いたのは夜半頃、すでにここは混乱していた。ともかく負傷者が多い。生き残った者たちはこれからが戦いなのかもしれない。治癒魔法の使い手は限られているから重傷者が優先されるし、よしんば傷が治ったとしてもその先も戦えるかどうか。あまりにも犠牲が多すぎた。
 そう、その代償が大きすぎたのだ。
 ブレイヴの拳が震えていた。己の未熟さと無力さを嘆くのは、もう何度目だろうか。新兵たちは全滅した。しんがりを務めたオルグレムは戦死した。老将軍の麾下の騎士たちもおなじく、若者たちだけが生き残った。クライドとフレイアの傷は深く、クリスとシャルロットが付きっきりだった。難を逃れていたのはルダの魔道士たちで、もう一人の幼なじみとの接触があったことをブレイヴはまだ知らなかった。けれども彼女が無事ときいて安堵したブレイヴは、自分に堪らなく嫌気が差した。けっきょく、自分はそういう人間なのだ。
「私を恨んでください」
 同罪だと、すこし前にセルジュはそう言った。そのままそっくり返してやりたくなった。
「いつからだ?」
 ひかりとは、なんて重いのだろう。最初からオルグレムは託すつもりだったのかもしれない。セルジュという軍師が、それをもっとも嫌うことを知っていて、それでもなお選ばせた。すべては、未来のために。
「言ったはずです。立ち止まらないでください、と」
 軍師は常に最善の道だけを選ばなければならない。それが、どれだけ非情な策となろうとも、軍師は勝つために存在する。でも、その選択は失敗だ。オルグレムという老将軍を失い、この集団の士気は著しくさがっている。新たに加わった兵力も半分なくしてしまった。じきに白騎士団が氷狼騎士団の砦を包囲する。そのときが、終わりだ。
 セルジュの声はきこえなくなっていた。代わりにブレイヴの耳に届いたのはあのうただ。聖堂の扉の向こうから紡がれているそれは、鎮魂歌でも挽歌ともちがう。そういえば、ロベルトはいまでも戦場で星たちのうたがきこえると言っていた。友を、家族を、仲間を想って。あるいは戦いに疲れた自分のために口遊む。回廊にはたくさんの騎士が行き交っていたものの、聖騎士を呼び止める者は一人もいなかった。勇者や英雄などではない。死と嘆きを連れてくる死神のようだ。きっと、彼らの目に聖騎士はそう写っている。
 当てもなく彷徨ううちに東の塔へとたどり着いた。
 偶然、それとも見張っていたのだろうか。ロベルトの扈従こじゅうが上の階へとつづく扉を、ただ黙って開けてくれた。ブレイヴは螺旋の階段をひとつ一つたしかめるように歩いて行く。施錠されていたのは、以前ここで自害した者がいたからだ。うら若い未亡人の女性は夫を失った悲しみから逃れらなかったという。敬虔なヴァルハルワ教徒は自ら命を絶つことが許されないが、謂われのない理由で命を奪われた夫の元に行きたかったのかもしれない。
 空は昨日の雨が嘘だったみたいに晴れている。イレスダートの夏の訪れだ。
「そこから飛び降りれば、楽になれるぞ」
 冗談なのか本気なのか。どちらでもないような彼の声に、ブレイヴは笑って応える。ちゃんと笑えていたかどうかなんて自信はない。ロベルトが表情を変えないからなおさらだ。
「もう、いいじゃないか」
 ブレイヴはまじろぐ。いったい、彼は何を言いたいのだろう。
「ここに集まっているやつらのことなんて考えなくていい。おまえがいなくなれば、またちがう別のやつを探すさ」
 そういうことか。相変わらず人を慰めるのが下手な人だ。ブレイヴは笑みをそのままにする。でも、そうじゃない。彼の、ロベルトの言いたいのは、きっと誰も言ってくれないことだ。
「おまえが、ひとりで背負う必要なんてないんだ」
 一人で背負っているわけじゃない。それなのに、声に出せないのはどうしてだろう。
「ここに、正義を謳っているやつなんてどれだけいる? 騎士の矜持? 知ったことか。自分を信じてくれるひとがいる? だったら、そいつはおまえの選択をわかってくれる。失望するなら勝手にすればいい。そんなもの、ただの押しつけだ」
 いつになくよく喋る。こういうときのロベルトは怒っている。
「逃げたっていい。誰にもおまえを責める権利なんてないし、それならそいつがたたかえばいい」
「俺は、ただ、」
「姫さまのためか? 言いわけにきこえるな、おれには」
 前にもおなじことを言われた気がする。ずっとその繰り返しだ。早口で喋りつづけたせいか、ロベルトが疲れているようにも見えた。彼らしくない。そう、思った。
「そうだよ。逃げればよかったんだ。西のラ・ガーディア、それにグラン。せっかくイレスダートから離れられたのに、どうしてそうしなかったんだ?」
「そんなことは、望んでなんかない」
 自分も、そして彼女も。
「ばかだな、おまえ。正直で、素直で、でもどうしようもなくばかなやつだ、おまえは。むかしからそうだった」
 腹が立たなかったのは、彼が笑んでいたからだ。呆れられていたとしても、それでもよかった。いま、ブレイヴをちゃんと叱ってくれるのはロベルトしかいない。あの軍師ですら顔色を窺うような目をしていた。
 息を吐く。しばらく止めて、また呼吸をする。だいじょうぶ。冷静だ。だから、これからどうするべきなのかも、ちゃんとブレイヴはわかっている。
「できない」
 失望のため息がきこえた。ブレイヴはもう一度、言う。
「できない。俺は、イレスダートの聖騎士だから」
「そう言うと思った」
 視線を外して空を仰ぐ彼の目は、いま何を見ているのだろう。過去か、それとも明日か。二人とも大人になったし、騎士になった。最後に別れたときに交わした約束は守れなかった。でも、まだ終わりじゃない。
「やっと、たどり着いたような気がする」
 なにをと、きき返す前にロベルトは笑みで応えた。
「おれは誰かのために剣を持っているわけじゃない。でも、戦場で戦ってたたかって、ずっとそうしてきた」
 ロベルトは左手を開いては閉じ、それをまた繰り返した。
「そのうち、おれよりも若いやつらがおなじ部隊に入ってきた。ひかりしか見たことのないような目をして、馬鹿みたいに理想を語ってばかりだった。とにかく危なっかしくて、でも自分より年下のやつを死なせたくなかった。そうやって生き延びて、気がついたら氷狼騎士団ができていた」
 自分は指揮官になんてなりたくなかったし、将軍の地位だって欲しくなかった、そう言いたげな声だった。似ているな、とブレイヴは思う。彼自身もそれを認めているのかもしれない。一度だって、友とは呼べなかったあのひととおなじ。
「そうだよ。きっと矜持や大義や、自分の理想とか、そういうものじゃなかったんだよ。何のために、誰のために自分がここにいるのか、わからなかったんだと思う。あのひとも。仲間がいて部下がいて、家族だっている。そうしたものをぜんぶ失いたくなかっただけで、そこにいる理由なんてなかったんじゃないかって」
「ロベルト……」
 彼はひと呼吸を置いて、かぶりを振った。
「いや、忘れてくれ。おれのことなんて、どうだっていい」
 やっぱり不器用な人だ。急に居心地が悪くなったのか、ロベルトはブレイヴを残して螺旋階段をくだって行く。人を励ますのも慰めるのも、あるいは説教するのだって彼は昔から苦手なたちだった。明日、彼の前でこれからのことを語ったならば、またおなじ声をするだろう。ばかだな、おまえは。










 朝が来て、夜が来る。昼なんてあっというまで、また闇の時間が訪れる。最初の三日はそう過ぎていった。
 みんな疲れた顔をしていても、けっして声には出さなかった。レオナもおなじだった。治癒魔法の使い手は休む暇もなく、己の精神と魔力の限界まで力を使う。氷狼騎士団の砦に逗留していたヴァルハルワ教の司祭たちは、あれからずっとここに留まっている。ベルク将軍の扈従が彼らに金貨を握らせたというのは本当かどうか、レオナにはわからない。
 殺気立っている大人たちを怖がって、子どもたちは母親から離れようとしなかった。それでも四日目の昼には退屈しはじめたらしく、ぐずったり他の子どもと喧嘩したりを繰り返している。叱りつけるのは逆効果だから、ちょっと手が空いた娘たちがうたを口遊む。ああ、このうたは最初にここに来たときに耳にしたうただ。
 レオナはしばらくソプラノの音色をきいて、それからまた回廊の奥へと進み出した。
 九つの鐘が鳴ったあとのすこし落ち着いた時間になってから、レオナは義理姉のところへと向かう。王妃の部屋の前にはいつも侍女が控えていて、扉をたたくよりも前にマリアベルの様子を教えてくれる。気分が優れなかったり熱を出したりの繰り返し、またあとで来ますとレオナはこの日も侍女にそれだけを伝えた。
 王妃の隣の部屋からは幼子の笑い声がきこえてくる。まだちいさいレオナの甥っ子はようやく傍付きに懐いてくれたらしい。ここは、きっとだいじょうぶ。レオナはまた歩み出す。
 アロイスたちを守ってくれたのはグランの竜騎士団だ。けれどもレオナはまだレオンハルトに会っていないし、アイリオーネともすこし話ができただけだ。いや、会えずにいるのは他にもいる。レオンハルトが幼なじみに詰め寄ったときいたとき、レオナはすぐ彼のもとに行きたかった。そうしなかったのは、できなかったのはなぜだろう。レオナのねえさまはそんな義理妹の心のなかなんてお見通しだった。わたくしのことよりも、いまは彼の傍にいてあげなさい。
 オルグレム将軍は帰ってこなかった。叔父を失ったマリアベルはずっと泣いていた。そうして体調を崩したあとも、彼女は幼なじみや軍師を責める声をひとつもしなかった。いま、氷狼騎士団の砦はかなしみに包まれている。老将軍の元にいた騎士たちも、ルダの魔道士たちも、あとから加わったマイアの騎士たちも、みんなが失ったものの大きさに打ち拉がれている。まもなく王都マイアの白騎士団がこの砦に攻め込むだろう。たたかうのか、それとも降伏するのか。そのとき、わたしはどうあるべきなのか。
「これは、レオナ殿下」
 はっとして振り返れば、初老の男が笑んでいた。
「あなたはクレイン家の……」
「ええ、そうです。殿下の傍付きであったイリアとおなじく」
 レオナは傍付きを忘れたことはなかったものの、その名前をひさしぶりにきいた気がする。そういえばイリア――ルーファスは、自分をクレインの娘だとあまり口にしなかった。
「お一人でどちらに向かわれるのですか? よろしければ私がご一緒いたしましょう」
「いえ、わたしは……、ひとりで平気です」
 ここでレオナがイレスダートの王女であると知っている者はすくなくはない。でも、皆はレオナを王女扱いしないし、ちゃんと対等に見てくれる。外部の者からすれば異端に見えるのかもしれない。王女が傍付きを伴わずに一人でいるなんて、白の王宮では稀なことだ。
「ああ、でもこれは好都合です」
「えっ……?」
 急に男の声が変わった。
「殿下と聖騎士殿は幼なじみでしたな。どうか、殿下の声を持って聖騎士殿に伝えて頂けませんか? この戦いを、けっして止めないと」
「どういう、ことですか……?」
 その穏やかな笑みはそのままなのに、冷酷で驕慢な光が瞳の奥に見える。
「ええ、言葉どおりの意味ですよ。聖騎士殿にここで立ち止まられては困るのです。何が起ころうとも、誰を犠牲にしようとも、あなた方には王都へとたどり着いて頂かねばなりません。そして、イリアをムスタールから救ってもらわねば」
 勝手なことを。知らないあいだに作っていたレオナの拳が震えていた。みんなそうだ。けっきょく、おなじなのだ。彼に、幼なじみにぜんぶ押しつける。
「あなた方は彼を信じて、ここにいらしたのでしょう? でしたら口出しは無用です。それに……、ルーファスは騎士です。自分の身に何が起ころうとも、彼女は己の手で未来を切り拓きます」
 男の返事を待たずに去ってしまったが、これでよかったと思う。あれ以上声をつづけていればもっと感情のままに言葉を紡いでいただろう。それはきっと、王女としてただしくない方法で。
 もう一度、王妃の部屋を訪れてみれば眠ったあとだと侍女が教えてくれた。
 今日はいつもよりもうすこし食事も取れたと言うから、これならゆっくり眠れるはずだ。王妃の隣の部屋は静かで、アロイスは王子と一緒に眠ってしまったのかもしれない。一人前の男になる前に子守が得意になってしまったと、アイリスは怒るだろう。それからまたクリスたちのところへと戻る。アイリオーネとシャルロット、それにクライドの姿が見えない。眠るフレイアの傍でクリスが艶麗な笑みを見せる。あなたもすこし休んでくださいね。
 そろそろ戻らないと、きっとルテキアが心配している頃だ。レオナは早足で回廊を進んでゆく。人の姿もまばらで、娘たちのうたも祈りの声もきこえなくなっていた。そのときだった。
「レオナ?」
 呼び止めた彼の方が驚いた声をしていた。
「ブレイヴ……、まだ、やすめないの?」
「斥候部隊が戻ってきたんだ。これから軍議がはじまるから」
「こんな時間なのに?」
 涙が零れてしまいそうになる。ちゃんと眠っているの? ちがう。ききたいことも伝えたい声も他にあるのに、幼なじみが無理に笑おうとするから心が苦しくなる。
「レオナは、早く眠らないと……」
 頬に触れるその手が愛おしくてたまらなかった。だから、手離したくなかった。急いでいるはずなのに、彼は胸のなかにいるレオナをただ抱きしめてくれた。だいじょうぶだよと、声がする。だいじょうぶじゃない。レオナはそう繰り返す。
「だいじょうぶじゃないときは、ちゃんと言って? ひとりじゃないって、言ってくれたのはあなた。隠さないでぜんぶはなしてって、そう言ってくれたのは、ブレイヴよ?」
 どうすれば彼をまもれるだろう。ずっと考えてもこたえが見つからなかった。いま、レオナにできるのは幼なじみを送り出すことだけだ。口づけをひとつ頬に残して、それからそっと幼なじみから離れる。泣き顔なんか見せたくない。ちゃんとした笑顔でなくてもいいから、ありのままの自分で、レオナは言う。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
 ひかりが見える。レオナはいつだって幼なじみといるときに、ひかりを感じる。きっと皆もおなじなのだろう。彼が聖騎士だからじゃない。暗闇のなかで光を求めるそのときのように、夢も願いも希望も、明日へと届ける祈りに似ている。

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