六章 あるべき場所へ

クレイン家

 応接室には沈黙が居座っている。
 自らをクレイン家の者だと名乗った初老の男はカウチに腰を沈めて、従卒が用意した香茶を味わっている。男の挙措は上流貴族らしく実に優雅なもので、男の声が偽りであるとは疑わせなかった。ただし、必ずしも男を歓迎しているとは限らない。男と向かい合って座るのはブレイヴと横にはそのロベルトが、セルジュとロベルトの従卒はうしろに控えている。一人に対してこちらは大人数ではあったが男はそれを気にした素振りをみせず、また同行者たちの姿もここにはなかった。
 時刻は九つの鐘が鳴った頃で、他の者たちは男をのこして聖堂へと行ってしまった。
 クレイン家はイレスダートでも有数の貴族である。それと同時に敬虔なヴァルハルワ教徒の家系だということも、広く知られていた。
 男は並べられた焼き菓子にまでは手を付けなかったが、それでもこの時間をたのしんでいるかのようにも見えた。隣からはあきらかな苛立ちが伝わってくる。彼は昨日ほとんど眠っていないのだろう。もともと辛抱強いたちでもなければ短気を隠したりしない人だ。そこに疲労が重なれば当然かもしれないが、男の目的が見えないので待つしかなく、それがより彼を不快にさせている。
「私に用件があるのだと、そう伺ったのですが?」
 男はようやく茶器を長机へと置いた。
「ええ。そのとおりです。私は聖騎士殿に会いに来たのです」
 人好きのする笑みには敵意はおろか、嫌悪や欺瞞ぎまんといったものも見えない。時が時でなければブレイヴもおなじ笑みで返していた。
「もちろん、私だけではありません。クレイン家は皆、貴方たちに味方をするつもりでおります」
「私たちは叛乱軍です」
「存じております。最終的に決めたのはフレデリカさまでありますが、とはいえ私どもの意思は貴方たちとおなじところにあると、そう思って頂きたいのです」
 ブレイヴとロベルトは顔を見合わせる。出てきた名前がまったくの想定外とは言わないが、それでもこれに彼女が関わっているなどとは思わなかった。
「ちょっと待ってください」
 口を挟んだのはロベルトだ。話の意図がつかめずに困惑するのはブレイヴも同様に、もっと仔細が知りたかった。クレイン家の男は瞬きをひとつする。いまの言葉だけでなぜ足りないのかとでも言うように。
「借りがございますでしょう? 聖騎士殿もお若い将軍殿にも」
 今度はこちらがまじろぐ番だった。男の声が急に驕慢きょうまんじみたようにも感じる。けれどもやはり、男の主張はただしいのかもしれない。記憶を無理にたどらなくともブレイヴにはたしかに覚えがあった。クレイン家とフレデリカという女性と、このふたつの単語を結びつけるには六年の時を遡る必要がある。
「いや、失礼をしました。何も脅迫しているのではないのです。そもそも、これはクレイン侯爵の遺志であることをまず伝えるべきでした」
「しかし、侯爵は……」
「ええ。亡くなっております。あれから一年と経たぬ内に」
 不幸な事故だったと、男の唇がそう動く。けれども目はそれを認めてはいないとばかりに愁傷と怨嗟の両方をのぞかせる。六年前といえばブレイヴとロベルトが士官学校を卒業したばかりの頃だ。騎士の場所は何も戦場だけが仕事ではないので、貴人の家に身を置くこともある。フレデリカという女性と出会ったのがその家であり、つまりそこからクレイン家へと繋がっているのだ。
 ブレイヴは友の横顔をのぞく。上手く感情を隠しているようでも、見られたくはない過去を勝手に他人に見られているような、そんな複雑な表情をしている。二人はそこでたくさんのものを失った。人間としての心、騎士としての誇り、ただしさ、そして友を。
「私はお二人をよく覚えておりますよ。まだ若い、それから頼りない少年の騎士を。しかし、その目は死んではいなかった。だからでしょうね。クレイン侯爵は若い騎士たちに未来を託した」
 クレイン侯爵が亡くなったのは、ブレイヴたちが要因だったとそういう口吻をする。たしかに、あの頃の王都マイアは荒れていた言ってもいい。行われるはずだった休戦条約もなくなり、前王アズウェルは北の地で崩御する。王家の第二子であるソニア王女は失踪し、その悲しみと怒りのなかでアナクレオンは即位した。王都は国王派と元老院派で分断されて、そこに貴人たちが積極的に関与しようとする。つまり、六年前にブレイヴたちが介入したあの事件で命を落とした者は皆、マイアの犠牲者なのだ。この話をいまさら持ち出す者など誰もいない。ブレイヴもまた自分の心のなかだけに仕舞い込み、けれども一度だけ、オリシスのアルウェンの前で吐露したのはブレイヴの弱さからだった。
「顔をあげてください。恨み辛みを申しあげるつもりではないのです。生前のクレイン侯爵はこうおっしゃいました。何かあったときはアストレアの聖騎士殿を頼るようにと。いまがまさにそのときなのでしょう」
 ブレイヴはまだ声を返せずにいる。それだけでは判断するに足らないのだ。男はただブレイヴを見つめつづけていたが、そのうちに失望のため息がおりた。
「私の声が信用なりませんか?」
「そうではありません。しかし、先も申しあげたとおり、私は叛逆者です」
「承知の上でここまで来たのですよ? ここで追い返すおつもりですか?」
 要所を省いて勝手に話を進めるのはこの男の癖なのだろうか。どうにも呑み込みの悪い反応を見せるブレイヴに男の物言いが横柄になってくる。
「あなたたちが味方をする利点がない」
 横からはっきり言ったのはロベルトだ。男は一瞬だけ目を大きくして、それからまた元の笑みに戻った。
「利点はあります。クレイン家はとうに白の王宮を見限っています。侯爵はマイアに殺されたのですから当然でしょう」
「殺された……?」
「なるほど。聖騎士殿は何もご存じなかったのですね。これは失礼いたしました」
 男の声音も、柔和な笑みからも偽りや演技は見えずに、どうりで話がうまく繋がらないはずだ。そもそもクレイン侯爵の死因は病死とされていた。そこには事件性となるものは隠されてはいなかったと、ブレイヴも記憶している。しかし、男はブレイヴの思考を否定するように首を横に振る。
「いいえ。たしかに、侯爵の件だけならば私たちも疑わなかったでしょう。ですが、そうではないのです。クレイン侯爵には兄妹の他に従兄弟や叔父といった血縁者がいました。それがどういうわけか病や事故で若くして亡くなりました。これを不自然と考えるのが普通です。ええ。そうです。クレイン家は白の王宮にとって邪魔になったのです」
 そこで息を吐いてから男は再び茶器に唇を当てた。このまま男の声を鵜呑みにするにはあまりに信憑性に欠けるとしても、それなりに同情はする。
「あなたは、ちがうのですか?」
「私は傍系の者ですから爵位は継げません。嫡子はフレデリカさまのお子だけです」
 すこし話が読めてきた。クレイン家は協力関係にありたいのだ。叛乱軍に味方する代わりにまだ幼い子らを保護してほしいのだと訴えている。それこそ、クレイン侯爵が過去にブレイヴたちを助けたように。
「あるいは……、もうひとつ。イリアをクレイン家に返してほしいのです」
「イリア? ルーファス・クレインですか?」
 ブレイヴはきき返す。これは、失念していた。クレイン家に連なる者はもうひとりがいた。イリア・ルーファス・クレイン。王女の傍付きだった騎士だ。
「ええ。イリアは何も知りません。兄は病死したものだと思っています。イリアは王女の傍付きでですから、白の王宮もこれまで手が出せませんでした。しかし、いまは状況が変わっています。ムスタールに行ったはずのイリアからは何の連絡もありませんし、こちらから接触もできません。おそらくは囚われているのでしょう」
 にわかには信じがたい話だ。ブレイヴは開きかけた唇を閉じる。騎士はあのとき、ムスタールにて協力者がいると言っていた。それはおなじクレイン家ではなかったのか。
「残念なことにクレイン家にも元老院派がいましてね。よからぬことを企んでいたのでしょう。それも死んでしまっては、問い詰めることもできませんが」
「死んだというのは……?」
「あれは私の再従兄弟でしてね。王命は突然で、用意した王女の身替わりは私の姪でした」
 過去形で話すことから、その娘もすでに他界しているのだろう。無遠慮に落とされた嘆息はロベルトのもので、彼の頭は許容範囲をこえているのかもしれない。ブレイヴも混乱している。
「ああ、話が逸れました。つまり、私たちはあなたにイリアを救ってほしいのです」
 言葉尻は丁寧でやわらかくとも嫌とは言わせない。そういう目を男はしている。
「もちろん、あなた方にも利点はあります。クレイン家の影響はそれなりにあるでしょうし、そのうちに賛同者も現れるでしょう。何もせずとも兵力は増えます。それに我々は身ひとつでここに来たわけではありません。糧食も充分に備えております」
 そこまで言って男はにこりとした。偽りのない本当の笑みだった。
  









 

 一堂に会した要人たちはいずれも白の法衣を身に纏っている。
 白という色は神聖なる存在の象徴であり、彼らは己が聖王国の王さながらに振る舞う。王都マイアの民は彼らを元老院と呼ばわり、そこには畏敬と同時に畏怖をのぞかせる。だが、白の間の玉座にいるのは真の王であり、彼らは支配者に過ぎない。白騎士団団長フランツ・エルマンはそう思う。
 長机には次から次へと贅を凝らした料理が並べられてゆく。焼き立ての鶏肉のパイに、無花果のスープ、羊肉とレンズ豆の煮込みに、今朝仕留めたばかりの猪肉は炙り焼きにする。年代物の葡萄酒ワイン蒸留酒ウイスキーが数種類と、上流貴族たちは庶民が好む麦酒エールなど口にしない。バケットと卵料理が運ばれてもまだ足りないとばかりに、執事や侍女たちが慌ただしくしている。
 フランツのグラスが減っていないことに気がついた執事が声をかけてきた。
 葡萄酒の代わりに林檎酒シードルを注ごうとするので慇懃な声をして断った。酒は嗜む程度にしか飲まなければ、この場で楽しみたいとも思わずに、フランツの前には前菜を載せた皿が残っていた。
 血気盛んな青年貴族たちは口論に忙しくし、老人たちも負けじと唾を飛ばす。いがみ合い、罵り合いは数時間が過ぎても熱が冷めるどころか収まらず、酒が進めばそのうちに殴り合いがはじまりそうな勢いである。罵詈雑言の嵐はいつもよりももっと酷く、次にため息を落とした者に矛先が向かう。元老院はそれだけ焦っているのだ。彼らは聖王を玉座から引き摺りおろすことに躍起になっていた。ところが彼らが厄介者だと称したアナクレオン・ギル・マイアをこちら側へと引き抜くことに成功をする。あとは実に容易い。前王アズウェルのように、アナクレオンが元老院の操り人形と化したのなら、わざわざ敵対する理由もなくなった。彼らの目的はひとつ、イレスダートの王権を自在に操り、そうして北のルドラスを手中に収める。一番の敵を味方に引き入れたのだから、事は何もかもがうまく進むと、そう思われていた。
 フランツは彼らのやり取りをすべて見ている。
 葡萄酒を煽り、炙った猪肉に被りつく。油まみれになった唇と手をテーブルクロスで拭き取り、咀嚼が終わらぬうちにまた暴言を吐く。まるで大衆食堂のようだ。交わされている声にしても不潔であり不謹慎であり、ただただ不快だった。だが、フランツの食が進まない理由は他で、騎士は己にとって唯一の主君を思う。いったい、我らが王はどうなされたのか。
 それこそ、持ってはならない声であった。だから、フランツ・エルマンは己の声を胸へと仕舞い込む。イレスダートには自身を含めて三人の聖騎士がいたが、いまこの王都に残っているのはフランツだけで、傍らで補佐をつづけてくれたカタリナ・ローズの行方は知れないまま、最後の一人アストレアの公子はいまや王家に剣を向けた大罪人である。
「ムスタールのヘルムートに、再度出撃を申しつけよ。次こそは失敗は許されぬ」
「さしもの黒騎士もやはり人の子というわけですなあ。敗北もありましょうぞ。……しかし、我らが恩を仇で返すとはねえ」
 普段は温厚で知られる初老の侯爵が唾を飛ばし、黒髪の男が皮肉を唇に乗せる。王都マイアにも黒騎士団が敗れたという知らせは入っていたものの、そこで公爵が負傷したという報までは届いていなかった。
「方々、過ぎたことを言っても仕様がありませんよ。ムスタールが役に立たなければランツェスを使えばよろしいのでは?」
「ふん! ホルストが言うことをきくものか。あの小僧はイレスダートが裏切り者ぞ」
「だからこそですよ。ランツェスの公子にも機会を与えてやれば良いのです」
 気色ばむ年長者にも臆することなく、青髪の青年貴族は昂然と返す。声色は目上の者たちを畏敬しつつも切れ長の双眸はその逆で、どこか小馬鹿にしているようにも見える。青髪の青年貴族にもっとも年が近い黒髪の男が葡萄酒を煽った。まだ新参者の彼に同調しつつも味方をするわけではなさそうで、視線は初老の侯爵へと注がれている。
「ランツェスにもいま一度、要請をせよ。それから氷狼騎士団にもだ。未だに返答が得られぬと聞いたがどうなっておる?」
「ベルク将軍ですね。しかし、かの騎士はなかなかの変人……いや、失礼。偏屈だとか? まあ、所詮は下流貴族の成り上がりです。叛乱軍に降っても致し方ないでしょうなあ」
「悠長に笑っている場合ではないぞ! これ以上、裏切り者を増やすなどイレスダートが汚れるばかりではないか! オルグレムの縁者はすべて洗い出し、即刻処刑をするべきだ。奴の麾下きかも同様だ。異論は許さぬ!」
 長机をたたきつけて吠える初老の侯爵に誰も異を唱えたりしなかった。正式な軍法会議を待たずしてその権限などないというのに、彼らの独善は留まるところを知らない。もし、ここにローズ伯がいたならば。フランツは己の声を飲み込む。伯爵は国王派として彼らに対抗していたものの、娘の失踪を機に病に伏せてしまった。
「北はともかくとして、これから重要なのは南となろう。叛乱軍を王都に近づけるわけにはいかぬ」
「それこそ、首尾は上々でございます。アストレアはもとより、オリシスは」
「オリシスのロアなら問題ない。なあに、あの女は扱いやすい」
 初老の侯爵を青髪の青年貴族が諫め、声を引き継いだのは壮年の貴人だ。隣で黒髪の男が笑みを見せ、成り行きを見守っていた他の者もやっと安堵したように食事へと戻る。しかし、その最奥で老者は彼らの声をただきいていた。ここに招かれた騎士フランツ・エルマンのように。
「そうだ。我らは決して歩みを止めてはならない。すべてはイレスダートのために。幸い、駒はいくらでも足りている。……時に、フランツ・エルマン」
 来た。老者の双眸が騎士を射抜く。闇のように暗くて冷たいその目が、聖騎士をおなじところへと誘おうとしている。
「クレイン家が王都を離れたという報告は、そなたが知らせたのだったな? 白騎士団はどう動く? よもや己が王の盾を口実に王都に留まるとでも?」
 次いでフランツの耳に届いたのは嘲笑だ。たしかに、白騎士団は王の盾としてこのマイアを守る義務があり、王の傍から離れてはならない。病のようだとフランツは思った。王都に、白の王宮に、マイアに瀰漫びまんする病魔そのものだ。白騎士団は王の声なくして動かない。とはいえど、これほどに逼迫した状況下に置いて、聖騎士として正しき道へ選ばなかったその暁には、断罪されるのは己だろう。
「手筈はすべて整っております。閣下の手を煩わせるものは、何ひとつございません」
「ほう、それは実に頼もしい」
 老者は満足そうに笑んだ。騎士の挙止を崩さないフランツは、己の吐いた言葉に白々しさを感じていた。


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