六章 あるべき場所へ

魔女と騎士 2

 最初にその足跡を見つけたのはブレイヴだった。
 長靴の跡はくっきりと残っているものの、それにしては不自然な歩幅だ。青年、いや成人したばかりの少年騎士たちは馬を奪わなかったという。そうして、逃げ込んだのが森の奥ならば、まだそう遠くへと行っていないはずだ。
 ブレイヴは彼の背を追う。
 この辺り一帯を管轄している氷狼騎士団を束ねているのがロベルトであり、土地勘にも優れている。扈従が彼に付き添わなかった理由もきっとそれだ。もとよりロベルトは集団を好まないたちだった。その彼が騎士団を任されているのだから、二人が別れてからの時間は思った以上に長かったのかもしれない。取り戻せるとは考えなかったが、彼を一人で行かせるわけにはいかなかった。ブレイヴもロベルトも、もうわかっている。追っているのが、人間ではないことを。
 山毛欅の木が行く手の邪魔をする。枝葉を払って、茂みを掻きわけて、道を外れてもっと森深くへと入って行く。追っ手から逃れるのならこんな道を選ばない。
 二人のあいだに会話らしい会話はなく、ただ目的をおなじとすれば遂行するのみだ。たとえ話したとしても彼がすんなり信じるかどうか、ブレイヴは考える。いや、その時間が惜しい。何よりも、その目で見た方が理解が早いだろう。
 竜族は人間の社会にうまく紛れている。それこそ、竜人たちに呪いを課したものの望みであったのか、いまとなっては誰も知らない。けれど、ブレイヴは実際に相対した。白の少年、それから西の果てのサラザール王宮にて、どちらも人間の姿をしていたものの、あれは人間ではなかった。ブレイヴはそう己で認めている。
 少年騎士たちの背中が見えてきた。
 どこまで行く気だろうか。街道から逸れた裏道でも使わない獣の通るようなところをひたすらに進んで来た。アストレアの森に凶暴な獣は潜んでいなくとも、それにしてもだ。やがて、ブレイヴは少年騎士二人ともう一人の姿を認めた。長衣に身を包んでいるために顔はここからではよく見えなかったものの、男の体躯とは異なる。子どもか、女か。どちらにしてもこんな場所に迷い込む巡礼者でないことはたしかで、おそらくは協力者だろう。そして、女の目がブレイヴを捉える。
 精巧な彫刻か、あるいは人形か。
 見た者の心をたちまちにとろかせる美貌は、まさしく魔性の魔女だ。
 青玉石サファイアを思わせる瞳は、幼なじみとおなじ色だった。波打つ紫色の髪は高い位置で結われている。唇には真紅の色が、他にも目元や頬にも化粧がされていて、その容貌だけならばブレイヴの記憶にあるその人とはほど遠かった。けれど、伝えきいていた魔女の姿と相違はない。西の果てのサラザール。人々を蹂躙していたのは王の妾だった。それから、幼なじみの言葉。白の少年――ユノ・ジュールを守ったその女は、誰であったのかを。
「ロベルト」
 彼を牽制する声を喉から絞り出しても無意味な行動だったかもしれない。
 二人はいま、動けずにいる。背中を伝う嫌な汗と、寒いわけでもないのに身震いがする。胃の腑に鋭い痛みを感じたその次には、目眩と吐き気を覚えた。耳鳴りがする。呼吸がうまくできない。この場を何かの強い力で支配されている。魔力をその身に宿さないブレイヴにもそれがどんなに恐ろしいものかがわかる。閉じ込められているのだ。奴らはそこに空間を作り出す。
 このまま放置されるだけで、そのうちに呼吸は止まる。
 いや、ちがう。流れている時間はほんの数呼吸のあいだだけ、しかし身体の自由を奪われ、絶対的な死を感じるその恐怖は、どんな拷問よりも苦痛だった。心臓が暴れ回る。息が苦しい。悪寒と吐き気を堪えているのは自らの精神力の強さではなく、それすらできないくらいに動きを封じられているからだ。意識を手放してしまえば楽になれる。でも、奴らはそれを許してはくれない。  
 身動きが取れないというのに、苦痛と思考だけが残っている。ブレイヴは油断も慢心もしていなかった。だからブレイヴはロベルトに同行したし、他の者も連れてこなかった。幼なじみをあそこに残してきてよかったと思う。力のあるもの同士が戦えばただでは済まない。ここら一帯が灰と化し、生命は途絶える。人間も動物も、森も湖もなくなって、草木が何年も芽生えない死のせかいが訪れるだろう。それでも、きっと彼女は守ろうとする。
 そうだ。いまも、守られている。
 ブレイヴには幼なじみから贈られたお守りがある。左耳に飾られた石榴石ガーネットのピアスにはレオナの魔力が込められていて、危険な力からずっとブレイヴを救ってくれた。すこしだけ体が楽になったような気がする。目だけは動かせたので、ブレイヴはロベルトを見た。彼も、永遠につづくこの時間のなかに囚われて苦しんでいる。きっと、レオナの力は彼をも守ってくれているのだろう。そうでなかったらとっくに二人とも発狂しているか、死んでいる。
 獣の唸りがきこえた。少年騎士たちからだ。彼らは声を発していたが、それは人間の言葉とはほど遠く、しかし怒っているのだけは理解できた。人間の命など簡単に摘み取れるはずの力が何かに邪魔をされている。彼らはそれが自分たちとおなじ竜の力だとは認めずに、異端と見做す。そのうちに少年騎士たちの容貌が変わってゆく。血走った目は青から赤へと、唇が裂けて牙が剥き出しになる。成人して間もない人間の子らの姿が、醜く老いた姿へと変貌するのをブレイヴは見た。あれが、本来の姿なのだろうか。ブレイヴはいよいよ己の死を覚悟する。視界の端にもう一人を認めるそのときまでは。
「やめなさい」
 乾いた女の声がした。言葉はたしかに彼らを止めているものの、声色には同情や憐憫といったものはなかった。邪魔をされたとばかりにますます怒る彼らに、女は玲瓏な笑みをする。
「私の獲物を奪うつもりなの?」
 叱責や詰問とも異なれば、これは命令だった。意味のわからない言葉でがなり立てていた奴らが急に大人しくなる。ブレイヴの身体が解放されたのは、そのときだ。重力から解き放たれて、膝が全身を支えきれなくなった。四つん這いの状態でしばらく肩で呼吸を整えているそのあいだに奴らの姿が消える。あとに残ったのは、人間の女が一人。
「ロベルト、だめだ」
 ブレイヴは制止の声をする。
「追ってはいけない。……殺される」
 今度こそ、本当に。
 ブレイヴはまだ呼吸に喘いでいる。胸の痛みを堪えるようにして、しかしまだ起きあがれない。彼にも疼痛があるはずなのに、ロベルトはそれを押さえ込んでいた。いや、意地で耐えているのかもしれない。少年騎士たちの姿をしていた異形の者たち、奴らが消えたその先には遺体が見える。人間、と。かろうじて判断できたのは先ほどまで彼らのしていた容貌とまったくおなじだった。金髪と碧眼と、銀の軍服。他はもう人間と認めるものが残っていないその死骸は、けれども彼が追っていた氷狼騎士団の者たちだった。
「ふふっ、賢明な判断ね」
 ブレイヴは激しく目を瞬いていた。耳に届いた声は、たしかにきき覚えがあった。動揺は正常な思考を妨げる。それでなくとも呼吸が整わないいまこのときに、己の記憶のすべてをたしかめる術もなければその余裕もない。それに、どうだろうか。声、というものは人を形成する重要な要素であったとして、そこまで明確に覚えていられるものなのだろうか。姿や所作、あるいはにおい。長い時間が過ぎれば過ぎるほど、その人ではなくなっていくというのに。
 逡巡するブレイヴを無視して、ロベルトは間合いを詰めようとする。逃してはならない。彼はそのつもりでいるようだ。だめだ、と。ブレイヴはいま一度声にする。仲間を殺された。少年騎士たちはもう人間でも生きものでもないただの肉塊になってしまった。家族が見れば半狂乱となって叫び、それから滂沱ぼうだの涙を流すだろう。生きてさえいれば罰を与えられてもまた戻ることはできる。それなのに、少年騎士たちはもう戻らない。
 彼はきっと、友とおなじ道をえらぶだろう。ブレイヴもロベルトも。ただ一度も、友とは呼べなかったあの人と、おなじように。
 女は右手を掲げて見せた。忠告は終わりだ。威嚇にしては本気の殺意がブレイヴを襲う。そして、唇が動いた。妖艶な赤を乗せたまさしく、魔女のそれで。
「それ以上は踏み込まない方が良い。殺すわ。あなたでも。あの子はさぞかし悲しむでしょうね。泣いて、暴れて、狂って。壊れるなら、それでもいいわ」
「……っ、あなたは!」
 ブレイヴにはその名を呼ぶことができない。幼なじみの姿が見える。そうだ。だから彼女は戸惑い、驚き、苦しみ、悲しんだのだ。いきているのだと、疑わなかったその人を、自身の姉を。しかし、こうして目の前にすれば疑うことになる。自分の目を、耳を、記憶を。そのすべてを。消えた王女。ソニア・リル・マイア。しかし、いまはもうイレスダートの王女その人ではない。
 目の前に闇が生まれた。
 膨大な魔力の渦に魔女が呑みこまれてゆくそのあいだに、ブレイヴはただ幼なじみを思っていた。



 










「おれにも、ちゃんとわかる言葉で説明しろ」
 当然の声だと思う。ロベルトはブレイヴがまだ苦痛に喘いでいるそのあいだに、殺された仲間のもとへと行っていた。銀色の軍服は氷狼騎士団の証、少年騎士たちがただ偶然に異形の者たちと出会ったのだとしても、その怒りは抑えきれないように彼の声は冷えていた。ブレイヴはようやく立ちあがり、少年騎士たちを見る。彼は敬虔なヴァルハルワ教徒ではなかったし、勇敢な騎士たちを弔うための祈りの言葉が要る。はたして、聖職者たちはここへと来てくれるだろうか。
「ああ。俺はそのつもりだよ。最初から、そう言っているじゃないか。ロベルト」
 ブレイヴは少年騎士たちの前で祈りの所作をする。息苦しさもなくなり痛みも消えたのは、奴らがここからいなくなったためなのか。そして、あの人も――。 
乾いた唇から声が出てくるまで、すこしの時間が必要だった。それでも、一度外へと落ちた言葉は、するりとつづいてゆく。まるで、他人事みたいだとブレイヴは思う。ガレリアからアストレア、サリタへと追われたこと。それからラ・ガーディアにグランに、ルダに至るまでのすべてを話した。偽りも誇張も、なにひとつとしていなかった。イレスダートの子どもたちはちいさい頃にお伽の話をきかされる。母の胸のなかであるいは祖母の膝の上で、ブレイヴは幼なじみたちと夜こっそりと昔はなしをした。あのときはまだ、どこか遠くの自分たちとは関係のないところの話だと、そう思っていた。いまはちがう。あまりに近くにありすぎる。
 ロベルトはただ黙ってブレイヴの話をきいていた。相槌すら返ってこないのがなんとも彼らしい。呼吸も落ち着いていて、だから彼がそれほど驚いていないのがわかる。やさしいひとだ。自分のことのように感じているのかもしれない。久しぶりに再会した友の声を、それも聖騎士という大罪人の言葉を、疑いもせずに受け止めている。ロベルトはそういうひとだ。
 元来た道へと戻るにはすこし苦労した。小径から逸れて入り組んだ森のなかを進んでいたのを、いまさらながらに思い出す。足跡をたどってゆくのにそう苦労をしなかったのは知らずのうちにそれなりに緊張していたためだろう。茂みは歩行の邪魔をするし、木々のあいだを通ってゆくのもなかなか大変だ。途中に声が詰まってしまうのもそのせいで、しかしそれだけが理由でなかったのは、ブレイヴが幼なじみに関することを避けて話そうとしているから、仔細まで事細かくでなくとも触れなければならない。彼の信頼を失いかねないからだ。ロベルトはやはり無言だった。それも、彼のやさしさなのだとブレイヴは思う。
 やがて、開けた場所へと出た。その向こうにはロベルトの砦が見える。
 話が終わったのと認めて、ロベルトはブレイヴを置き去りにする勢いで進んでいく。彼は早く戻りたいのだろう。そういう立場にいる人であるし、なによりあそこはまだ混乱している。
 城門を抜けると最初に会ったのはロベルトの扈従だった。扈従は長いこと主を待っていたみたいに、肩で安堵の息を吐く。ブレイヴは扈従と一緒にいるはずの彼女の姿がないことをまず不審に思う。
「彼女は? ……レオナは?」
「ずいぶんとお疲れの様子でしたので、勝手ながらも一室をご用意しました。お付きの方も一緒ですので心配には及びません」
「そうか……、ありがとう」
「いえ。礼を言うべきはこちらです。随分と助けられましたので」 
 ブレイヴは目を眇める。どうやらあの炎は消えているらしい。術者がそこから離れたためだろう。しかし怪我人は多数いて、幼なじみは自身の力を惜しまずに使った。彼女はいつも自分を犠牲にしようとする。それが、使命であると思い込んでいる。
「ところで、ベルク将軍に客人が見えておりますが、いかがなさいますか?」
 ロベルトは眉間を抑える。疲労が一気にきたようだ。火事の後始末もまだ終わっていないし、炎と煙は消えてもここから先の方がもっと苦労する。
「見てのとおりだ。丁重に、」
「いえ、そういうわけにもいかない方ですよ」
 扈従は目顔でブレイヴとロベルトのふたりを導く。ブレイヴは思わず瞬いていた。
「オルグレム将軍……? なぜ、あなたがここに?」
 鷹揚な足取りで老将軍が近づいてくる。それも、麾下の白髯と禿頭の騎士が傍にいるのだから間違えようもない。かの将軍はムスタールにいたはずだ。黒騎士団の兵力だけでも厄介なのに、ムスタールには他にも騎士団がたくさん存在する。そのひとつ、ムスタールとの国境を任されているのはヘルムートの従兄弟だった。ブレイヴはそこを攻略するためにオルグレムにセルジュを託した。軍師がまだ合流していないのに、どうして先に老将軍がいるのか。
「なに、交渉が必要だと思ってな」
「交渉、ですか?」
 オルグレムの視線が彼へと向かう。ロベルトはそれが客人などと認めずに、ただ迷惑が増えたと言う顔をしている。
「ベルク将軍。まずはこの度の火災お見舞い申しあげる。我が部隊もまもなく到着するだろう。遠慮なく使ってほしい。それから食料や物資の支援も致そう。なに、遠慮することはないぞ。我々は、共にイレスダートの騎士なのだからな」
 ロベルトよりも先に扈従が反応した。しかし、ロベルトは扈従を制して、ひと呼吸を置いてから紡いだ。
「……あなたの利点はどこにある?」
 オルグレムは笑みを見せたものの、彼はふたたび唇を閉じた。
「なに、そう身構えなくともよい。氷狼騎士団には迷惑を掛けんよ。しかし、協力はしてもらおう。我々にこの砦を貸す。それだけでいい。簡単だろう?」
 これが恫喝だったなら、彼もきっと抗えたはずだ。 
 災害によって疲弊した騎士団を武力によって制圧するのは容易く、だがそれでは本当に叛乱軍のする行いだ。ブレイヴが行っているのは侵略とはちがう。沈黙はそう長いことつづかずに、ロベルトはまたひとつため息を吐いた。
「すこし、考えさせてほしい。はっきり言って混乱している。おれは、あなたたちみたいに賢くはない」
 その逆だと、ブレイヴは思う。ロベルトは考えすぎているのだ。オルグレムの突然の声にブレイヴ自身も戸惑っていたのも事実、ブレイヴは老将軍の耳元で囁く。
「……しかし、私たちはそれほど多くの物資を持ちません」
「なあに。それは聖騎士殿の軍師殿に頼るしかないだろうが、案じることはない」
 したたかな老人だ。苦笑するブレイヴの肩をたたいて、オルグレムはそのまま行ってしまった。ロベルトがどういう答えを出すのか、もう決まっているかのように。
 いったい、何を企んでいるのやら。勝手なことばかりされてはさすがに困る。否定的なつぶやきが零れそうになったのも、それだけ疲れていたせいかもしれない。物言いたげな視線を送ってくるロベルトにブレイヴは応えずにいる。彼にしてみれば厄介者は増える一方で、これから離れていた部隊も皆ここへと集結する。氷狼騎士団の砦を借りるだなんて都合の良い言葉では終わらずに、これは占拠するに近い。軍師とまだ合流も果たしていないのに、セルジュに何の相談もなく事はもう動いてしまった。何度目のため息だろうか。そうしたいのはこちらだと、ブレイヴは思う。
 上手く言い訳ができるだろうか。ブレイヴには自信がなかった。  
 

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