六章 あるべき場所へ

魔女と騎士 1

 火急の知らせであったために、扈従は入室の許しを得ずに扉を開こうとしたものの、しかしそれより前にそこから三人が出てきた。ブレイヴは彼らの視線を受ける。一人は相好を崩さずに、一人はやや驚きながらも安堵の色が強く、もう一人は微笑みを描いていた。
 思ったとおりだった。悪い予感が当たったとしても、これは危機ではなく好機だと考えるべきだ。ブレイヴはまず幼なじみと自身の従者に目顔で伝える。大丈夫だ、と。そうして、ブレイヴ自身も彼女たちの無事をたしかめる。敵陣のなかに二人だけで乗り込んできた姫君を、彼は道具として扱ったりはしない。
「ああ、意外と早かったのですね。しかし、よろしいのですか? このまま帰してしまっても?」
 扈従の声は、どこまでが本気か分からないような響きを伴っていた。不快そうにひとつ息を吐いたのは彼だ。
「呆れたな。なんで、聖騎士がここにいる?」
「仰せつかったのは、この方の手当てと見張りですので」
 小一時間ほど前、ブレイヴはある行動に出た。それは賭けといってもよかった。たぶん、扈従はブレイヴを知っていて、その性格も理解していたのだろう。演者としてどこまで付き合ってくれるかどうか。ブレイヴは扈従が剣を抜くよりも先に隠し持っていた短刀を首に当てた。人質ですかときく扈従の声は、どこか面白がっているようにもきこえた。
「話がしたい。ロベルト、きみと」
 卑怯なやり方をするのはここまでだ。ブレイヴは扈従の背中を突き飛ばして解放する。彼のすぐ傍には幼なじみがいて、その背後に控えるノエルは公子の無事を認めてもまだ警戒心を消していない。たしかにこちらの味方はたった三人だけ、この上レオナとノエルを捕らえられたらブレイヴは何も手出しができなくなる。
「それは取り引きのつもりなのか?」
「いいや。でも、きみは俺を殺さなかった。最初からそのつもりじゃなかった。そうだろう?」
 質問に答えてくれるかどうかなんてどちらでもいい。これは、事実だ。だからロベルトはほんのすこし唇に笑みを残していた。彼が、褒章や己の名誉のために動くたちではないことを、ブレイヴは知っている。そうでなければ、はじめからブレイヴを生かしてはいなかったし、こんなところへわざわざ連れてきたりもしない。見定めているのかもしれない。騎士として、いや指揮官として、導くものとして、ブレイヴがそれに値するかどうか。ところが――。
 違和感に最初に気がついたのはロベルトだった。
 におい、それから白煙が見えたときに、彼はもう駆け出していた。せっかく捕らえた聖騎士をそのままにするなんて、そう言わんばかりに嘆息してロベルトの扈従もそれにつづく。幼なじみがブレイヴの袖を引っ張っている。わかっている。彼女が危険を冒してここへと来てしまった理由は、何もブレイヴを救うためだけではない。レオナは、どんな魔力のにおいも見逃さない。それが人ならざるものであれば、尚更に。
「これは……」
 外へと出てみれば騎士たちが倉皇そうこうとしていた。
 火の手があがったのは納屋からでまだ居館には延びていないものの、暴れ狂う炎はまるで生きもののように見える。住民の避難を最優先とし、逃げ遅れた者の救出と消火を急げと指示するのはロベルトで、氷狼騎士団は将軍の声でやっと我に返ったらしい。まず壮年の騎士たちが動き出し、少年騎士も互いを叱咤する。彼の顔は騎士そのもので、しかし遅れてきたブレイヴを見るなり嫌悪を露わにした。
「これが、叛乱軍のやり方か?」
 彼の目に失望が宿っている。ちがう。けれども、ブレイヴの声は怒りと嘆きと、混乱に消されてしまった。ブレイヴの軍師はまだ合流できずにいる。ルダの公女ならブレイヴを見捨てる。じゃあ、他には誰が――。
「おまえを見損ないたくはなかった」
「ちがう、ロベルト。俺は……!」
「まって」
 二人の視線が彼女へと向かう。
「まってください。あれは、ちがう。ただの炎ではないの。魔の力を強く感じる。あのときと、おなじ……」
 ロベルトも彼の扈従も、奇怪なものでも見るような目をするものの、ブレイヴには幼なじみの言葉が理解できる。あれがどんなに危険であるかも、彼らに知らせなければならない。
「すぐにここから離れるべきだ。動ける者もそうでない者も。全員が、だ」
「おれたち氷狼騎士団だけじゃない。あそこにあるのが軍需品だけだと思うか? 民に飢えろと、おまえはそう言うのか?」
「そうだとしても、人の手には負えない。いまは……、耐えるしかないんだ」
 あの炎には強い魔力が宿っている。以前とおなじ、ブレイヴは直接その目で見たわけではなかったが、遭遇した者たちがいる。レオナとアステアと。あれは西のラ・ガーディアにて、ウルーグの国境の街にイスカが侵攻したときだ。あの炎は外側から消すことはできない。市街地を襲う炎に対抗しようと魔道士の少年は自身の魔力を解き放ったものの、魔の力に勝てなかったと嘆いていた。そう、あの炎は生きている。術者が魔力を解くか、あるいはすべてを燃やし尽くすのが先か。どちらにしても、選択肢はない。
「まって、ブレイヴ。わたし、わたしならできるわ」
「だめだ。レオナ、きみには……、」
 ブレイヴは幼なじみの手を強く握る。そうしなければ、彼女はあの炎に立ち向かっていただろう。行かせない。あんな危険なものにレオナを近づけさせたくない。たしかに、幼なじみの力を持ってすれば、被害を最小限に留めることができるのかもしれない。それでも、ブレイヴは認めない。ここで恩を売っておくことが、かつての友と交渉する材料になったとしても。
 取り残されていた人々が運ばれてくる。負傷者の程度はさまざまで、肩を貸されながらも自分の足で歩いている者、ひどい火傷を負っている者もいる。ここにはヴァルハルワ教徒たちが逗留しているときいたが、治癒魔法の使い手はとても足りないくらいだ。
「べ、ベルク将軍……」
 救出された騎士の一人が彼へと近づく。外傷はなさそうでも白煙を多く吸い込んだせいか、激しく咳き込んでいる。何があったと問うロベルトに、青年騎士は涙ながらに訴えた。
「お、お願いです……。弟を、止めて、ください。あいつは、仲間を……、」
 青年騎士はつづいて助け出された騎士を見る。ブレイヴも目を瞠った。ひどい傷だ。火災が原因でああはならない。やっと来た聖職者たちが負傷した騎士の治癒をはじめるものの、癒しの光は間に合わずに騎士は吐血した。
 ブレイヴを呼ぶ声がする。幼なじみだ。繋がっていた手が解かれる。
「どいてください」
 治癒を諦めかけていた聖職者たちに割って入ると、彼女は跪いて祈りのための時間を使う。
 緑色をした淡い光がレオナの手から零れている。それはやがて、傷つき倒れた騎士の全身を包み込んでゆく。ほんのすこしの、瞬きをするそのあいだに。絶え間なく流れていた血が止まり、皮膚を裂き、骨まで届いていた傷がまもなく消える。傷が塞がったというよりも、抉られた肉片と皮膚が再生したといった方がいい。身体を巡る血液もまた、新しく生まれ変わったかのように、土気色だった騎士の頬に色が戻っている。おお、と。感嘆にも畏怖にも取れる声が漏れた。聖職者たちは異端な力を恐がっているのかもしれない。
「おまえの弟はどっちに行った?」
 はっとしてブレイヴは振り返った。空咳を繰り返す青年騎士に彼は問うている。そうだ。不可解なことはまだ終わっていない。
「アストレアの、森に……」
「味方殺しは大罪だ。逃してはおけない」
 ロベルトの声に青年騎士は苦しそうな表情をし、また咳き込んだ。負傷者の数が増えてきた。救出に急ぐ騎士たちのなかにノエルの姿がある。いつの間に加わっていたのだろうか。従者は怪我人を聖職者たちに預けると、ブレイヴの前に進み出た。
「あの炎を放った者と、それからもう一人がいるようです。近くにいた者が証左となるために、いきなり攻撃されたのだと……」
 ノエルは氷狼騎士団の者たちを見て、またブレイヴへと視線を戻した。
「公子。行ってください」
 従者にはブレイヴの性格も次に取る行動もお見通しだ。逡巡の時間はわずかで、ブレイヴはうなずいた。
「申し開きはあとできく。いまはここを……、レオナを頼む」
 ブレイヴを見つめる人がもう一人いる。幼なじみは不安そうな目をして、けれどもブレイヴを止められないことを知っている。
「大丈夫だよ、レオナ。きみはここに残って。彼らを、」
「ええ、わかっているわ。でも、気をつけて……」 
 ロベルトは扈従に細かい指示を与えていた。さすがは氷狼騎士団だ。まだ混乱しているものの、騎士たちの行動は早い。良い騎士団だと思う。戦場で敵対する相手でなかったら、きっと良き仲間となれたはずだ。その彼らの指揮官を失ってはいけない。ブレイヴは彼の前に立つ。 
「なんのつもりだ?」
「監視だと、そう思えばいい」
 彼を、一人では行かせはしない。
 望まぬ共闘だったとしても、いまは協力者が必要だ。答える声はなく、けれどもロベルトはブレイヴを拒否せずに、謹直きんちょくらしい目をする。昔と何も変わっていない。そういう顔を、彼はしていた。









 彼女はただその先を見つめていた。
 最初に見えた白煙は黒い色に変わっている。武具や被服、糧食も建物も、そして人も、すべてを焼き尽くすまで消えない炎はたしかに意思を持つ。彼らの目的が、殲滅ではなかったとしても。
 イシュタリカに悼む心はなかった。あれとおなじだけの炎を彼女は簡単に起こせる。右手を掲げて、ただ魔力をそこへと集中させるだけの作業は、罪人を断頭台に連れて行くよりも早い。そうして、彼女は何人も殺した。西の王国の果て。彼女はそこで魔女と恐れられ、偽りの王妃として君臨する。そこからまだ半年と経っていないので、記憶は生々しく残っているものの、彼女にとってさして重要な事柄でもなかった。
 とはいえ、この形容できない感情は苛立ちなのか不快感の方が強いのか、彼女はこたえを出さずにいる。それとも、ここがイレスダートであったがためか。どうだっていい。イシュタリカはイレスダートを捨てた、いやこの国がイシュタリカを捨てたのだ。
 彼らはじきに戻ってくるだろう。竜人ドラグナーの思考や目的は単純で、それでも彼らはそれが使命であると信じているし、己のただしさを疑わなかった。まるで人間みたいだ。彼女は薄く笑う。人間よりも、もっと人間らしい。その彼らの姿は滑稽でしかなかった。
 彼らはずっと縛られているのだ。長いながい永遠にも似ている時間のなかで、それでもゆるやかに確実に、老いてゆく。竜の力が弱まり、そのうちに人間の姿も保てなくなる。だから、彼らは焦っている。彼らに残されているときは、もうそれほど長くはないのだろう。
 そう。竜人たちは呪いを恐れている。かつて、人と竜とが共存していた時代に、終わりを告げたそのときから。彼らの王はなぜ竜たちに呪いを施したのだろう。罪を贖う時間ならば十分にあったはず、ともあれ竜人たちはそのどちらかを選ぶしかなかった。竜として悠久の時を生きてやがて朽ちてゆくのか。それとも、人の形を取って人とおなじように生き、子を為して受け継いでゆくのか。ただ、その二択しかない。彼女はときどきわからなくなる。本当にふたつの選択しかなければ、彼はいったい何であるのだろう、と。
 イシュタリカは思考を打ち消した。
 視線を右へと投げる。茂みの向こうには遺体がふたつ転がっていて、いずれも銀の軍服を身に纏っていた。あれは氷狼騎士団の軍服だ。竜人たちには人間のせかいでの争いごとなど興味も関心も薄い。北のルドラスと南のイレスダートの戦争も、イレスダートの起きている内乱もまた、彼らは理解などしていないのだ。ただ単に、運が悪かっただけ。少年騎士たちは氷狼騎士団に所属していて、騎士団がこの辺りを管轄していただけの、それだけのこと。斥候を任された少年騎士たちはたまたま彼らの目に留まっただけなのだ。
 勇敢な少年騎士たちは彼らを闖入者だと認めて誰何する。
 イシュタリカは若い娘であるし、老いた彼らの容貌は巡礼者の親子にも見えなくはなかった。だが、時期が悪い。ムスタールの黒騎士団と叛乱軍の交戦がはじまるその前に、近隣の民はすべて氷狼騎士団の元へと身を寄せていた。異国を行き来する旅商人ならとっくにムスタールへと着いているはずで、巡礼者もまた移動したりはしない。だから、少年騎士たちは彼らを見逃したりしなかったのだ。
 焦慮に駆られた少年騎士が声を荒げる。ここで騒ぎを起こすつもりはない。ところが、イシュタリカが声を紡ぐよりも先に彼らは動いていた。呼吸をするそのあいだに、少年たちはもう騎士でも人間でもない、ただの肉の塊へと変わっていた。
「お前たちは、ユノ・ジュールの望まぬ行いとすると言うの?」
 彼らはユノ・ジュールを表の舞台へと引き摺りだしたくせに、彼を敬うわけではなかった。己が欲がためだけに彼を王にした。すべては、歴史を人の手から完全に竜のものへと取り戻すそのために。
 彼らは喉の奥から不気味な音を出す。声、というにはほど遠い獣の唸りに近かった。言葉は理解できなくても罵られているのはわかった。彼らはイシュタリカを異端に見る。同族でもなければ人間ともちがう女に手出しができないのは、己が魔力とよく似ていたからだ。たしかに、彼女の身体にはそのどちらもが流れている。人間の血と竜の血と、完全なる存在ではないとはいえど、流れを汲むものにはちがいない。それゆえに、竜人たちは彼女を監視する。イシュタリカという女神の名を謳った魔女を警戒する。自分たちこそが、見張られていることにも気づかずに。
 殺すのはじつに容易い。しかし、いまがそのときではないと知っているからこそ、イシュタリカは彼らを野放しにする。ユノ・ジュールには味方が必要だ。
 ようやく彼らが戻ってきた。
 髪も顔も、体格も声もにおいまで、殺された少年騎士二人とそっくりの姿をしている。うまく演じ切れたかどうかなど、彼らには関係がない。竜族は化けるのが得意な種族だ。そうやって人間のせかいに入り込み、他人へと成り済まして混乱させる。あとはもう簡単だ。信頼関係が崩れた人間の社会はすぐに戦争をはじめる。彼らにそうした知恵くらいは残っているらしく、けれども竜人たちには叛乱軍もそうでないものの区別もついてはいなかった。
 そうだ。彼らは用心深くはない。だから、付けられていたことも知らずに、彼らを追って来た二人の騎士の姿をイシュタリカは認めた。はたして、罠にかかったのは、どちらであったのか。魔女は妖艶な笑みを浮かべた。  
 

Copyright(C)2014 asakura All rights reserved.designed by flower&clover
inserted by FC2 system