六章 あるべき場所へ

闇夜がはじまる 

 夜が近づくにつれて、運び込まれる負傷者の数が増えてきた。
 騎士の矜持を忘れない者がいる。主君への忠義と己の正義とのあいだで揺れる者もいる。あるいは親愛なる友や仲間のために、愛する者のために剣を持つ者がいる。ここに集まる者たちは皆が同志だ。
 彼らは勇敢に戦いながらも傷つき倒れて、この場所に戻ってきた。もう、おそれることはないの。レオナは彼らに声をかける。騎士たちに安心と休息、それから傷ついた身体を癒やすのがレオナの仕事だ。
 脚を負傷した騎士が呻いていた。成人したばかりの少年騎士なのだろう。重傷者は別の天幕へと運ばれるが、少年の真新しい軍服は血の色に染まっているし、額にはびっしりと脂汗をかいている。レオナは少年騎士の前で跪き、祈りの言葉を唱える。ふた呼吸後に少年ははっと目を覚まし、レオナを見てまじろいだ。元気になるおまじないと、レオナはそっとつぶやく。少年は安心したようにまた眠ってしまった。
「余計な真似をされると困りますね」
 冷たい声が降ってきた。ルダの魔道士の一人だった。
「でも、わたし……、」
「それが余計だと言っているんです。あなたにとっては造作もないことでしょうね。けれど、それじゃあ困るんです。皆はあなたばかりを頼りにする」
 反論しようとして声を止めた。レオナが使ったのは魔力のほんの一部だけで、しかしそれは普通の人間にはない力だ。緑色の髪を結えた女魔道士は腕組みを解きもせず、迷惑そうな目顔をする。相手が王女だと知っていての挙措は、むしろ気持ちがいいくらいだった。なんだかアイリスに似ている。だとしたらこれはただの説教ではなく、忠告だと受け取るべきだろう。
 天幕から追い出されたレオナはひとつため息を吐いた。
 言葉は勁烈けいれつすぎても、女魔道士はレオナを気遣ってくれているのだ。太陽が一番高くのぼったその時間に、レオナは己の魔力を解き放った。ムスタールの黒騎士団はその目で白い光を見た。幼き頃から神の教えを言いきかされてきた少年騎士は慄然とし、青年騎士たちは己の罪を認めて泣き崩れている。老騎士たちは神への祈りを口にする。敬虔なヴァルハルワ教徒たちのなかにも冷静な者がいたかもしれない。あれが、王家の力だと知っていた者もまた戦意をなくしたはずだ。
 でも、まだ終わったわけじゃない。
 レオナは森の奥を見つめる。アストレアの森はきっと皆を守ってくれるし、ここへと導いてくれる。最初に集まったのはルダの魔道士たちだ。彼らは数日前に大仕事を終えていたのだが、そこで魔力を使い果たした者もすくなくはなかった。治癒魔法の使い手たちの仕事はそれよりもっとあとで、だから先にここへと着かなければならなかった。レオナも彼らに同行させてもらって、そこまではよかった。しかし、先ほどのような扱いをされるとは思わなかった。きっと、彼らは王女の力を当てにしているから、そういう物言いをするのだろう。
 そのうちに誘導部隊も伏兵部隊も合流する。そうなればもっと負傷者が増えてくるから、ここにいる魔道士たちだけでは対応し切れなくなる。その前にクリスやアイリオーネがここへと着てくれたら安心できるのに、二人はまだ幼い王子と王妃の護衛たちと一緒だから、それには時間かかるはずだ。
 ルダの魔道士たちにも疲れが見えはじめている。
 わたしになにができるのだろう。レオナはずっと己に問いかけている。善意は彼らにとって邪魔なだけだ。きっと、レオナも早く休んで次の戦いに備えるのがただしい。ルダとアストレアの連合軍の本体はここへとたどり着かない。幼なじみはまだ戦っている。明日もそれがつづいていたならば、レオナはふたたび天へと力を解き放たなければならない。それが、己の役目。
 わかっては、いるの。自分を納得させるための声は虚しいだけで、レオナはもう一度息を吐いた。傍付きはレオナにあたたかい飲みものを与えてくれたものの、レオナを天幕に残して出て行った。ルテキアは治癒魔法の使い手ではなかったけれど、彼女は自分にできる仕事をするつもりなのだ。一人きりには広すぎる天幕で所在なくしていたレオナは、そのうちにそこを抜け出して、怪我人たちのところへと行った。でも、けっきょくは彼らの邪魔になってしまった。
 いいえ、ちがう。レオナは口のなかで落とす。眠れない理由はどうしようもない不安が押し寄せているからで、先ほどから胴震いがしているのも寒さのせいではなかった。ああ、そうか。わたしはこわいのだ。レオナはずっと前から感じていた不安をやっと認める。それは、人間としての自然な反応なのかもしれない。人が傷つくことも、死ぬことも。人を傷つけることも、殺すこともぜんぶこわいと思っている。わかっているはずだった。だから、幼なじみはけっして首を縦には振らなかった。でも、と。レオナは唇だけを動かす。予感がするのだ。肌で感じる冷たさと、夜の暗闇と。それから、音に空気に。視えるものと聴こえるものと。人の持つ第六感というものがレオナは特に優れていた。魔力を嗅ぎ取るのは造作のないことだった。
 だいじょうぶだと、レオナは繰り返す。それなのに、どうしても悪い予感ばかりが思考の邪魔をする。幼なじみがいまここにいないだけで、こんなにも心細くなるとは思わなかった。
 レオナはいつだってブレイヴがかえってくることを待っていた。幼なじみは嘘を吐かない。だから、ぜったいにレオナのところに帰ってくるはずだ。レオナはそう信じているし、こんなふうに気鬱になっていることを知れば、きっと幼なじみを悲しませてしまうだろう。
 足は勝手に皆のところから離れてしまっていた。合流した部隊が増えてゆくにつれてそれだけ人の数が多くなるから、レオナ一人がいなくなったとしてもすぐには気づかれない。ただし、目撃者がいなければの話だ。
「どこへ行くつもりですか?」
 背後からの声に、レオナの心臓は飛び跳ねる。振り返らずとも誰であるのかがわかるのは、ずっとアストレアから一緒だったからだ。応えないわけにはいかないので、レオナはゆっくりと声の方へと向く。薄茶色のやや癖のある髪の毛と、榛色の目をした青年がレオナを待っていた。アストレアの弓騎士ノエルだ。
「夜の散歩にって、そんな気分でもないでしょう? それに今日は月も出てないし、星だって見えない。用を足すならこんな場所にいるのはおかしい。だいたいひとりで行くはずないでしょう? もしかして、ルテキアを捜してるんです?」
 レオナが口のなかで用意していた言葉は、ぜんぶ先に出されてしまった。松明を持っていない理由だって、ノエルならちゃんとわかっている。ひかりを作り出すくらいレオナにとってすごく簡単で、つまりここから遠くへと離れようとしていることもお見通しなのだ。
「公子を信じていないのですか?」
 明け透けのない物言いだった。おなじ騎士のレナードにしても、いつだって遠慮のない声をする。レオナはそんな彼らのことが好きだった。いつかレナードが言ってくれた友達という言葉も、その場しのぎの声なんかじゃなかった。そうレオナは思っている。だから、嘘は吐けない。
「信じていないわけではないの。でも……、わたし。すごく、嫌な予感がする。なにか、悪いことが起きてしまいそうな。そういう、予感」
 うまく伝えられるかどうか自信はなかった。これまでずっと一緒にきた仲間だからきっとノエルはわかっている。オリシスで、ウルーグで、イスカで、それからグランにて。近くにいるのだ。そういうときに、レオナは彼の存在を感じている。呼吸が浅くなる。肌が粟立つ。自分に似た魔力のにおいがするのは彼らがレオナと同族だからだ。見逃してなんて、おけない。
 怒っているわけでもなく、かといって微笑んでいるわけでもない。そういう顔をノエルはする。ため息を吐いてくれた方がずっとよかった。それくらいに沈黙は長かった。
「だったら、尚更です」
「えっ……?」
 思わず瞬きをしたレオナにノエルはにっこりとする。
「そういうときは、誰かを頼ってください。俺だっておなじ気持ちなんです。公子もセルジュも、間違ったりはしません。でも、絶対じゃあないんです」
「協力、してくれるの?」
「共犯です」
 笑顔のままで言うノエルにレオナは苦笑する。つまりはそういうことだ。レオナはノエルを巻き込む。でも、騎士はレオナの声を信じてくれている。闇夜がはじまるその前に二人は陣営から抜け出した。アストレアの森はレオナたちを惑わせたりはしないけれど、夜の森が味方してくれるとは限らないし、まだそこに敵が潜んでいる可能性だって捨てきれない。風と森のざわめきと、二人の足音だけがしばらくつづいて、ずっと無言だったノエルは思い出したかのように言った。
「ああ、そうだ。後ろは任せて大丈夫ですよね? 俺、接近戦はあんまり得意じゃないので」
 レオナは従犯となってくれる青年に向けて、無言でうなずいた。
 








 月も星も見えない夜の日に、松明も持たずに森の奥へと入り込むのは自殺行為に等しい。頼りとなるのは己の目と耳だけ、疲労が重なれば勘も鈍ってくる。それでも深傷を負っていないだけ幸いだったとブレイヴは思う。
 もうすこしだと、負傷した仲間を励ましながら進むブレイヴに付き従うのはわずか五人だけだった。
 しかし、これも黒騎士団の猛攻から逃れるための策のひとつだ。何百、何千から構成される部隊の全員が戻ってくるとは考えない。多少なりとも犠牲は致し方ないとブレイヴは自分へと言いきかせてきた。そうだ。負けたわけではないのだ。そもそもこの戦いの目的は勝利でも敗北でもなかった。黒騎士団の包囲を突破して、散り散りとなった部隊が合流すればいい。皆はその覚悟で各々の仕事をしているだけだ。
 このまま南下をつづければ完全にアストレアの領域に入る。
 だが、ブレイヴは馬をもうすこし東へと進ませていた。自分がアストレアを捨てると言ったのだ。忘れてなどはいない。すこし胸が痛むのは罪悪感ではなく自身がただ無力なだけで、いまがそのときではないことも理解しているし、優先させるべきものが何であるかも、ブレイヴはちゃんとわかっている。それに、ブレイヴは指揮官だ。そこに聖騎士が不在となれば軍の指揮にも関わる上に皆を悪戯にさせてしまう。
「公子」
 声をかけられるまで、自分はどんな顔をしていたのだろう。
「この先がアストレアなのですね」
 窘める声ではなく感慨深いといった声色だった。ずっと傍にいてくれた騎士は、そのうちルダの正軍師を務めるにちがいない。騎士にはそれだけの冷静さがある。
「私はルダしか国を知りません。ですから、木々の濃い色にしても、森や草原の豊かさにしてもどこかちがう世界にでも迷い込んでいるような……そんな気分になります」
 どうやら騎士は夢想家らしい。だが、その声でブレイヴは落ち着くことができた。
「この戦いが終わったら、アストレアの葡萄酒で乾杯しよう。アストレア産は初心者でも飲みやすい。きみも、きっと気に入ると思う」
「お言葉はありがたいのですが、そういった声はいまは控えるべきかと……。ルダの公女ならこう言います。そんな台詞を吐いた奴から先に死ぬ、と」
 ブレイヴは失笑する。そのとおりだと思った。年下の者をやたらと不安にさせてしまうものではない。とはいえ、場を和ませるには適していたようで、笑う声もきこえた。ここまでずっと緊張をつづけていたブレイヴたちだ。すこしくらいは許されてもいい。しかし、それもまたブレイヴの甘さだったのかもしれない。あるいは、このときを待っていたのか。どちらにしても気がついたときにはもう遅かった。
「公子!」
 いきなり矢の雨が降った。ブレイヴをうしろへと引っ張り、その前へと壁になってくれた騎士がいなかったら、最初に死んでいたのは自分だっただろう。
「私に構うな! ここから、離れろ!」
 ブレイヴは馬の腹を蹴る。矢の攻撃から逃げ切ったところで、伏兵部隊はどこに潜んでいるかわからない。三人がブレイヴの前に飛び出してきた。その軍服の色は黒ではなく銀色だった。ずっと感じていた違和感がここでやっと繋がった。いや、そうじゃない。彼の名をきいたそのときから、ブレイヴは知っていたはずだ。
「あなたも、無茶をなさる方だ!」
 三人目の敵を斬ったのはルダの騎士だった。最後まで付き従うつもりなのだろうか。ブレイヴは微笑する。死なせてはならないのは、この先もずっと未来がある若い騎士の方だ。だからブレイヴは自分の馬を捨てた。どうやら弓兵はここにも潜んでいたらしい。馬が嘶き、暴れる。制御できなくなったブレイヴは地へとたたきつけられた。左肩を犠牲にしたのは次の攻撃に備えるためだ。来る。芋虫のように地面を転がることでやっと剣撃から逃れる。相手の攻撃が止まったのは、ルダの騎士が邪魔したからで、しかし騎士の声はブレイヴを呼んだきりきこえなくなった。
 体勢を立て直したブレイヴに剣はしつこく追ってくる。奇妙なことに相手の剣技はブレイヴとよく似ていた。それは遠い昔の、王都マイアの士官学校でたたき込まれたその型は、身体に染みついているからかどうしても癖が残る。とはいえ、ほとんど使いものにならなくなった左腕を捨てて、片手に剣を持ち変えたブレイヴが不利には変わりなかった。息が苦しい。腕が痛む。雑念を消すように揮ったブレイヴの剣は、しかし相手には届かない。ところが、ブレイヴの動きは相手にとっては予想外だったのか、反撃が途中で止まった。自身の反射神経に任せて攻撃を避けるやり方は、イスカの獅子王と戦ったときとおなじで、ブレイヴの手本となっているのは異国の剣士クライドの剣技だ。
 間合いができる。逃げるならば、いまだ。けれど、ブレイヴはそれを選ばずに、いま一度相手の顔を見た。月も星もない、ほとんど暗闇の森のなかでも目はそのうちに慣れてくる。そして、相手はブレイヴに確認するだけの時間を与えてくれるらしい。
 驚きと、絶望と。どちらが大きかったのだろう。それとも、希望と言い換えるべきなのか。一呼吸置いて、ブレイヴはその名を呼んだ。  
 

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