六章 あるべき場所へ

天は誰に味方したのか 2 

 戦争において絶対という言葉は存在しない。
 そう落とした声は誰のものだったのだろう。兄のように親しくしてくれたオリシス公アルウェンだったのか、かつての教官だったのか。それとも、別の誰かだったのか。ブレイヴは、思い出せずにいる。
 ルダとアストレアの聖騎士と、それからオルグレムを含めた連合軍はたしかに劣勢であった。戦力差は言うまでもなく、なによりも相手が悪い。ムスタールの黒騎士団は、大陸で最強とも謳われるイレスダートの要だ。
 ブレイヴはもう一度、東の空を見た。はじめに雷光を認めてから五時間が経過していた。ムスタールの国境の砦はすでに抑えてある。幼なじみの放った聖なるひかりはたしかに黒騎士団の動きを止めた。誘導部隊もまたおなじく、アストレア湖へと上手く敵の兵力を分散させたはずだ。ムスタールの援軍は間に合わない。伏兵部隊を任せたのはクライドで、これまでずっと戦いつづけてきた仲間をブレイヴは信じている。となれば、残るのはムスタールの本体のみだ。
 額からひっきりなしに流れてくる汗を拭う暇もなかった。ムスタールの黒騎士団は戦場での戦い方をよく知っている。彼らは聖騎士が悪魔にでも見えているのだろう。呼吸を整えるその時間さえも与えてはくれずに、聖騎士の首を取るのを競い合っている。大罪人の首を持ち帰ることこそが、正義であるかのように。
 なにが彼らをそうさせるのだろうと、ブレイヴは思う。やはり騎士の矜持からか。いや、そうではない。アストレアの聖騎士は、彼らにとって悪なのだ。そして、黒騎士団を率いているヘルムートというひとは、ブレイヴを必ず討つ。
 ムスタールに出陣を求めた白の王宮の目的は聖騎士の討伐、および叛乱軍の壊滅、王女レオナ並びに王妃マリアベルと幼き王子の保護というところだろう。国王アナクレオンが本当にそれを命じたかどうかなど、どうでもいい。黒騎士ヘルムートは王命に従う。しかし、と。ブレイヴは口のなかで落とす。ヘルムートはそんな人間ではなかった。感情をなくした戦人形さながらに、戦場で狂う騎士とは、ちがう。
 ブレイヴの頬から血が噴き出した。思考から覚めるのがあとすこし遅ければと思うと、ぞっとする。ブレイヴが斬った騎士はまだ若く、呪いの声を吐きながら死んだ。オルグレムの軍と戦ったときとおなじだった。
 現実を改めて突きつけられたような気がする。ムスタールの黒騎士団は止まらない。黒騎士ヘルムートが彼らの主君である限り、退くという選択肢は存在しないのだ。
 ブレイヴは二本目の槍を投げ捨てた。最初の槍はとうに折れてしまっていて、この槍は敵の亡骸から奪ったものだった。片手剣に持ち替えたが、これが折れたときのことは考えたくなかった。西の大国ラ・ガーディア。兄弟国に挟まれたイスカの国で作られたこの剣はブレイヴの手にはすこし重い。イスカの戦士たちには大刃をふるうだけの膂力りょりょくがあるものの、ブレイヴは使い慣れるまで多少の時間を要した。けれども、イスカの剣は強い。気に入ったブレイヴに餞別でくれたのはシオンだ。獅子王スオウの右腕だった男の使っていた剣だと言っていたのを、覚えている。
 この剣でヘルムートの胸を貫く。それ以上の想像がブレイヴにはどうしてもできない。ブレイヴを叱咤するのはセルジュとアイリスに、それからクライドもおなじ声をするかもしれない。オルグレム将軍と対峙したその日のように、自分の言葉が彼に届けばいいだなんて、やはり自分は甘いのだろう。
 無数の矢が降り注ぐ。聖騎士へと届く前にブレイヴの傍に居た騎士たちが撃ち払った。ブレイヴの代わりに死んだ者は数え切れずに、それでも味方の騎士たちはブレイヴを守ろうとする。もういい。ちゃんとわかっている。はじめからブレイヴはヘルムートを殺すために、戦っているのではなかった。大陸最強の黒騎士団を相手に寄せ集めの軍勢ではとても勝てないことも理解している。勝利が目的ではなく、ただこれを突破すればいい。離散した仲間たちと合流し、そのままマイアの領域へと入る。口で言うのはすごく簡単なことだ。しかし、イレスダートの黒騎士はそうさせない。では、ヘルムートはいまどこにいるのか。
率爾そつじながら、申しあげます」
 ブレイヴの元へと馬を寄せたのはルダの騎士だった。
「ここは、直ちに退くべきであると……私はそう判断いたします」
 金髪碧眼の容貌はルダにはめずらしい。名だたる魔道士を多く輩出しているルダにて、ほとんどの人間は濃い髪色をしている。だが、ルダに生まれるすべての子どもが魔力に恵まれるわけではなく、つまり騎士は魔導の道を選べなかった側の人間だ。
「きみの父はルダの軍師だったと、そうきいている」
「はい。ルダにはいま、正軍師はいませんが、私が代理を務めております」
 ブレイヴは納得する。公女付きの騎士だというのに、アイリスはこの騎士を連れて行かずブレイヴの傍に置いた。つまりは監視役として残したのだろう。
「セルジュ殿の策は八割方成功したと考えるべきでしょう。レオナ殿下の白い光を見て、戦線を離れた敵兵も多いと、そう報告にあります。ですが……、」
「ムスタール公爵は、この先にいない、と?」
 先読みされて騎士はまじろいだ。
「ええ。そうです。ですから黒騎士団は、公爵を逃がすための時間を稼いでいる。あわよくば、あなたの首を取るつもりなのでしょう」
 ブレイヴは失笑する。こういう状況だからこそ、必要な冗談だったように思う。ルダの軍師は半年前に病死して、残された上層部の者たちもあまりに頼りなくブレイヴの目には映っていた。剣を選ばざるを得なかった者たちの道とて、けっして誤りではなかった。貴重な戦力でもあるし、若い力は必ずルダの将来の助けにはなる。けれど――。
「いや……、このまま進軍をつづける」
 ルダの騎士が目を瞠る。騎士はブレイヴよりもすこし年下で、感情を上手く隠すことをまだ知らないらしい。
「私は、信用なりませんか?」
「いや、信頼している。だからこそ、いまはその逆を考えた方がいい。ムスタール公がいないのならここを突破できる、と。彼はどこまでも、私を追ってくるはずだから」
「公は、あなたの……、」
 途中で唇を閉じた騎士にブレイヴは微笑する。黒騎士団がムスタール公爵を守ろうとするのは、彼が負傷しているからだと、ブレイヴはそう推測する。だが、それだけではない。騎士が他に言いたかったことを、ブレイヴもまた感じている。この形容のできない違和はなんだろう。
「行こう。まずは左を切り開く。そして、当初の予定どおりに他の部隊と合流する。本体は一旦は散り散りとなってしまうが心配しなくてもいい。己を信じて、そのまま進めばいいんだ」
 とにかく、いまはここで活路を開けなければすべてが無駄になってしまう。あれこれと思考するのは、そのあとでいい。ブレイヴは伝令の騎士におなじ声をする。鬨の声があがった。










 
 山毛欅ブナの木が広がる広い森には人の足跡も馬の蹄も残されてはいない。
 方位磁石がなければ、もっと森深くまで彷徨っていたことだろう。風に揺られる木々の葉が擦れ合う音は誰かの囁きみたいだ。清冽なる湖と、豊かな森を見守る女神アストレイアにはたくさんの精霊たちが仕えていて、時にはちょっとした悪戯をするけれど、けっして人間を惑わしたりはしないのだと、アロイスはきいたことがある。では、争いばかりを繰り返している人間たちは、女神や精霊たちから見れば敵なのだろうか。
 他のイレスダートの公国に比べてアストレアの国土はちいさく、人口もさほど多い方ではなかった。
 いまはマイアに守られているが、アストレアの城主が爵位を授かる前までは隣国の侵略に統合などの危機も多々あったという。しかし、アストレアの民は強い。小国なれど、余所の国に屈することなく今日までこの国があるのも、人々の知恵だけではなかったのだと、アロイスは思う。そうだ。この国は慈悲深い女神と精霊たちに見守られている。だからきっと、弱きものを助けてくれる。たとえそれが、余所者であろうとも。
 早朝からずっと歩き通しだったので、足はもうくたくただった。
 極度の緊張がつづけばそれだけ体力の消耗も早くなるのは当然で、なにしろここには女と子どもばかりがいる。ムスタールの黒騎士団は騎馬部隊が多いそうだが、そのなかに魔道部隊も混じっているはずで、精鋭なる騎士たちは魔力のにおいを見逃したりはしない。だからアロイスはそこにも気を遣う。要人たちを守るための力が逆効果となってしまうだなんて、誰にも顔向けができなくなる。
「あの、これ……、食べてください」
 声をかけられるまで少女に気がつかなかったのは、アロイスがそれだけ深く疲れていたからだ。
「あ、ありがとう、ございます」
 とっさに作った笑みにも金髪の少女はにっこりと微笑んでくれた。生まれて半年ほどの赤子から大人までここにはいるけれど、アロイスと一番歳の近いのがこの少女だった。彼女はたしかオリシスの娘だときいている。象牙色の肌にやわらかく波打つ蜂蜜色の髪の毛、それから藍色の瞳はオリシス人にはめずらしいなと、そんなことを思いながらアロイスは少女が分けてくれた白パンを頬張る。あまり食欲がなかったものの、せっかくの好意に応えたかったのだ。
 他の者へと白パンを配る少女の背を見守るアロイスのところに、またちがう少女が現れる。
 蒲公英色の髪の毛を結った少女はアロイスよりももうすこし年上で、けれども人形みたいに可愛らしい容貌をしている。あの大きな赤い宝玉石のような目に見つめられたときに、アロイスはわけもなくどきどきしてしまった。それから、彼女は腰に剣を佩いていて、ここで戦える唯一の人間だということにも。
「ここ、すぐに離れたほうがいい」
 はじめて話しかけられた。たしかフレイアという名前だったと、アロイスは思い出す。
「えっ……と、どういう、ことですか?」
「血のにおいがする」
 アロイスはまじろいだ。彼女が殺気立っているのはそのためか。
「私、先に行く。みんなは早く行って」
「ま、待ってください……! それなら、ぼ、僕も行きます」
「あなた、戦えないじゃない」
「そ、それは、そうですけど……でも、まもることは、できます」
 フレイアという人がどれだけ強いかなんて、それはいま問題ではない。ただ自分よりちょっと年上でも女の子ひとりを行かせたくはない。
「要らない。私が、行く」
「あ、足手纏いには、なりませんから……!」
「邪魔」
「んなっ……!」
「はい。そこまでですよ。喧嘩は駄目です」
 本格的な言い争いがはじまるその前に割って入ったのは、フレイアの従者だった。白皙の肌と白金の長い髪、薄藍の瞳はいつもやさしそうで、心地のよいアルトの声にしても女性のように思える。
「せっかくのご厚意です。ここは、甘えましょう。フレイア様。アロイス公子はちゃんと守ってくださいます」
「クリスが、そういうなら……」
 よかった。彼女はようやく引き下がってくれたみたいだ。クリスという名の聖職者がアロイスに目顔で言う。気を悪くしないでくださいね、と。別に怒ってなんてない。ルダの公子は非凡な人間だといつも言われてきたことだし、上の姉たちと比べられるのも慣れっこだった。
 ところが、フレイアはアロイスなんて忘れたようにどんどん先へと行く。置いていくつもりだろうか。普段は大人しい気質のアロイスも、意地になって彼女を追う。上の姉は王妃の傍に居るから何も言わずに出てきてしまったが、これでよかったと思う。アロイスの姉たちは心配性だから、きっと止められていただろう。次女だったら殴られていたところかもしれない。
 それにしてもどこまで行くつもりなのか。フレイアの足は止まらずに、アロイスの呼吸も乱れてきた。靴擦れを起こしていた左足を庇っていたせいで、今度は右足まで痛むし、ここのところ寝不足だったので頭痛もしてきた。同行を申し出たのは間違いで、やはり自分は足手纏いとなってしまうのか。後悔の声を口のなかで落としそうになって、アロイスはかぶりを振った。いけない。これでは本当に姉に殴られてしまう。理不尽な叱咤はどれもアロイスのためなのだと側近たちは言い、アロイスもそのとおりだと思う。だから、アロイスは自分がただしいと思った道を迷ったりはしない。
「止まって」
 彼女が言った。アロイスは自分の息を殺す。悲鳴を咄嗟に手で塞いだのは正解だっただろう。大声はアロイスたちの存在を他へと知らせることになりかねないし、なによりも傷に障る。そう。アロイスの目の前には戦線を離脱した一人の騎士がいる。生々しい血のにおいに吐き気を覚えたアロイスは生唾を呑み込んでそれを耐えた。それほどに、騎士の傷は深かった。
「そこ、に、誰か……、いる、のか……?」
 途中で騎士は激しく咳き込んだ。大木へと背を預けた黒髪の騎士は、しかしその手に剣を離さずにいる。アロイスは震えた。騎士の持つ剣の刻印も、纏った軍服も、アロイスとは関わりのないものだった。王国より下賜されたたくさんの勲章の持つ意味も、アロイスは知らない。彼は傷つき倒れていて、もう目も見えないようだった。先に動いたのはフレイアで、けれどアロイスは彼女を制しする。
「なぜ、止めるの?」
「だめです。殺しては、いけない」
 それは懇願に近い声だった。フレイアが怪訝そうにアロイスを見つめるのも無理はない。黒服は黒騎士団の証だ。
「放っておいても死ぬかもしれない。でも、私は危険は残さない」
「やめてくださいと、言ってるんです」
 アロイスは引かない。彼女の腕を掴んで、懸命に訴える。
「姉を、アイリオーネを連れてきます。まだ、救えるはずです」
「本気なの? この人、敵だよ? 私たちが戦っている相手」
 それがなんだというのか。騎士には死が近づいている。そこが戦場ならば受け入れるしかない運命だ。けれど、ここはもうちがう。雑兵も、将校も関係がない。消えゆく命の灯火をアロイスは奪いたくはなかった。
「従ってください。ここを、任されているのはこの僕です」
 かくして、ルダの公子は一人の騎士の命を救う。それが、ムスタール公爵ヘルムートだということなど、何も知らずに。そして、その数奇な運命がまたひとつ複雑に絡み合うことも、アストレアの聖騎士とムスタールの黒騎士がふたたび戦うことも、いまこのときに誰か予想しただろう。

 
 

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