五章 蒼空を翔ける

コンスタンツとシスター

 ヴァルハルワ教の信者たちが、もっとも大切にしているのが祈りの時間だ。
 一日に三度、時を知らせる鐘の音がきこえるより先に、彼らはもう着席している。途中で仕事を切りあげてきたのは大工たちで、宿屋の店主は店番をいつも異国人に頼んでいる。足を痛めた老爺は杖を突いて大聖堂まで来た。その隣でちいさい子どもたちも、ちゃんと良い子でいる。年齢はそれぞれ、貴族から商家の者、あるいは他国から訪れた巡礼者など身分も問わない。ヴァルハルワ教会はすべての教徒を受け入れる場所だ。
 イレスダートの国内でも、王都マイアに次ぐ軍事力を誇るのがムスタール公国である。さすがに公爵が居住する城をがら空きにするわけにはいかないので、騎士たちは交代で祭儀に訪れる。この国では時間厳守は基本中の基本、他にも厳しい規律を乱す者などは稀で、それこそムスタール人が謹直なたちと言われる所以だろう。
 ムスタール公爵ヘルムートの妻、コンスタンツも敬虔な教徒だった。
 彼女の父親はヘルムートの父親とおなじく枢機卿、となればコンスタンツが信者となったのは必然だったと言える。幼き頃より教会に手伝いに行き、公爵夫人となったいまでも欠かさず祭儀に訪れる。教会関係者はコンスタンツをいつも頼りとしているし、崇高なる精神を持った彼女に憧れを抱く者も多い。
 コンスタンツの美しさも人の目を惹き付ける要因だろう。黒髪はムスタール人の特徴であるものの、彼女の黒髪は特別に美しく見える。彼女は表情が豊かな方ではなかったが、しかしそれもまたコンスタンツを魅力的に見せているようだ。
 病人や困窮者の話をよくきき、慈善活動にも積極的に参加するコンスタンツは教徒たちの目には聖母のように見えるのかもしれない。幻想かなにかだと、コンスタンツはそう思う。彼女は他者が思っているほど熱心な教徒ではなかったからだ。
 たしかに生家はヴァルハルワ教徒に縁があり、嫁いだ公爵家もそうだった。とはいえ、寝食の前の祈りの行為もコンスタンツにとっては慣習に近く、心の拠りどころとはちがう。聖イシュタニアという神の存在は認めていても、心のすべてを預けてはいないのだ。
 もっともコンスタンツほど才媛に溢れた女ならば、それを面に出すような真似は一切なかった。
 何不自由なく育ててくれた両親も、嫁ぎ先の義理父もコンスタンツを褒めそやし、そのたびにコンスタンツは偽りの仮面を貼り付ける。夫であるヘルムートは気づいているだろうか。ふと、そんなことを考えてみてコンスタンツはすぐに思考を止めた。ヘルムートはヴァルハルワ教徒ではなかったし、家族の心の機微に気づかないような男だ。疎ましく感じることもない。ムスタール公爵としてそれが正しく、ヘルムートの心は常にマイア王家と王にあることをコンスタンツは知っていた。
 そのヘルムートが王都へ旅立ってから季節がふたつ過ぎた。
 最初のうちこそは手紙が届いたものの、本格的な冬がはじまってからはぱったり止まってしまった。忙しいのだろう。コンスタンツはそう結論付ける。もとより公用の用事ばかりを認《したた》めた手紙は、家族の仔細を問う記述などなく、それが止まったというのならあちらの仕事で手一杯なのかもしれない。
 冬が過ぎて春が来てもヘルムートはまだ帰ってこなかったが、それでも麾下たちが静かにしているのは、ムスタール公爵という人を信じているからだ。
 政治や軍事にも明るくはないコンスタンツでも、麾下たちは公爵不在のなかでよくやってくれていると思う。黒騎士ヘルムート。彼が率いる黒騎士団はイレスダートにて最強と名高い騎士団である。しかしそんな彼らも、長らくヘルムートの姿が見えないことを不安に感じているのかもしれない。先ほどコンスタンツのもとを訪れたのは騎士団長で、コンスタンツはその前でひとつ嘘を吐いた。公爵はまもなく戻ります。今朝手紙が届きました、と。
 騎士団長はコンスタンツの嘘など見抜いていたが、すぐに一揖して去った。入れちがいに部屋の扉をたたいたのはコンスタンツの扈従だ。
 もうそんな時間だったのか。コンスタンツは客間へと急ぎ、カウチで香茶をたのしんでいた客人にまず詫びた。
「コンスタンツ様もご多忙ですもの。どうか気になさらないで」
 修道女はにっこりと微笑んだ。向かい合ってカウチに座ると、コンスタンツもカップへと手を伸ばす。今朝訪ねて来たのはヴァルハルワ教会の枢機卿、コンスタンツの実父だった。その後も所用が立てつづけに入り、ゆっくりと午餐も過ごせなかった。疲れた顔を見せたつもりはなくとも、修道女にはそう見えたようだ。
 窓の外では雪が降っている。
 また大雪になるのだろうか。子どもたちもそろそろ雪遊びには飽きた頃だ。
「夏の長雨につづいて、今度は大雪の被害まで。ムスタールに春は遠いですわね」
 修道女は憐憫の笑みをする。
「ええ。本当に」
 コンスタンツもおなじ笑みで返した。
 寒さを耐え忍んだ花々がいっせいに芽吹く頃だというのに、ムスタールにはいつまで経っても春がやって来ない。夏の災害につづいて今度は冬まで、沃土に恵まれたムスタールとはいえ、このままでは作物の収穫に影響する。すでに逃げ出した農奴もいるらしく、領主がコンスタンツのところに相談に来たばかりだ。 
 ヘルムートならば、王都マイアの支援を求めるだろう。
 しかし、ムスタールの官吏たちはあまり白の王宮に借りを作るべきではないと、そうコンスタンツに囁く。これもまたコンスタンツを悩ませるひとつだった。
 ヘルムートの英断を待っていては、民は困窮するかもしれない。
 いまは良くとも次の秋も冬も、どうなるかわからない状況で他国を頼らないという選択肢を選べるかどうか、コンスタンツには自信がなかった。
「ランツェス公にはお話になりましたの?」
「いえ、まだ……」
 返事に窮したコンスタンツに、修道女がきょとんとする。
「まあ。ランツェスに頼りづらいのでしたら、アストレアはどうかしら? あそこのエレノア様は親しみやすい方でしてよ?」
 まるで会ったことのあるかのような物言いに、コンスタンツは微笑する。隣国ランツェスはムスタール同様、雪害に悩まされている。ならばもっとあたたかい南を頼るところでも、アストレアの公子はイレスダートにいないという。白の王宮、とりわけ元老院から猜疑を向けられているとの噂は本当なのだろうか。真偽がたしかめられないいま、アストレアと関わるのは危険である。
「お父上は、なんておっしゃっているの?」
「それは……」
 正直に言うべきか迷った。実父とは今朝話したばかりだ。ヘルムートの声を待たずに白の王宮に要請すべきと、強く念を押された。教会への献金が減っているためだ。 
 コンスタンツは香茶をたのしむ修道女をちらと見た。
 シスターと、恭順の意を込めて人々はその名を口にする。女は本当の名を神に捧げたのだろう。白金の髪に薄藍の瞳、白皙の肌もまた美しく、所作も落ち着いている。歳はまだ二十代のコンスタンツからすれば母親くらいだったが、それでもなお衰えない美しさは、女が上流貴族の出身だと認めさせるには十分だろう。でも、あのワイト家は――。コンスタンツは思考をそこで止める。没落した名家を口にするのは憚られた。
 シスターに声を掛けられたのは、いつだっただろうか。たしか祭儀の帰りだったと、そう記憶している。
 コンスタンツにはヘルムートとのあいだに二人の息子がいる。子どもたちを扈従に任せて、コンスタンツは教会関係者の茶会に招かれていた。他愛もないお喋りの時間は疲れるだけで、このあとにも公爵代理の公務が待っている。公爵夫人ともあろう方が、そんな疲れた顔をしていてはなりませんよ。実の両親にさえ叱られたことのなかったコンスタンツは、修道女の声に驚いた。
 その後も、大聖堂でシスターとは何度か会う機会があった。
 さすがは修道女、常日頃から迷える子羊たちの告解を耳にしている人だ。人の心を掌握するのに実に長けていた。公爵家へと招くようになったのも、コンスタンツが相談相手に餓えていたからだ。
「ムスタール公を案じるお気持ちはわかりますわ。ですが、安心なさって。黒騎士ヘルムートほど実直な騎士が他にいまして? 大丈夫。公爵は直に戻って来ます」
 いくらか弱気になっていたのかもしれない。
 人前で泣いたことのなかったコンスタンツの頬を、つと涙が伝っていった。あまり教会関係者に頼り過ぎるべきではない。ヘルムートと義理の父との関係を知っているコンスタンツは、ヘルムートが教会をよく思っていないことも知っている。心のよすがを求めてしまってはならない。そう、自制しつつもコンスタンツはシスターの前で吐露する。涙を見せてしまったのは一度きりだったが、コンスタンツは修道女の助言によって救われているのもまた事実だった。
「そういえば、公子様はおいくつになりますの?」
 コンスタンツは顔をあげた。急に話題が変わるのは間々あったが、突然だった。
「もうすぐ十歳ですわ。子どもの成長は早いものです」
 コンスタンツは母親の顔をする。物思いに沈んでいたのは疲労のせいだと、そう相手に信じ込ませるくらいの演技ならば簡単だ。シスターの目がより細くなる。
「まあ。そのくらいの子どもはたしかに可愛いけれど、でもまだまだ手が離せないでしょうね」
「ええ、そうですわね」
 ふと、コンスタンツは違和を感じた。
 シスターとの茶会はこれが四度目、いずれも話題はおよそ女性らしくないものばかりだった。城内に招くにあたって、コンスタンツは修道女の周辺を調べている。たしか、この女《ひと》に子はいなかったはずだ。五つになる前に疫病で亡くしている。扈従の報告ではそうきいていた。だからコンスタンツは家族に関する話題を、とりわけ子どもたちの話を避けた。触れたところでシスターは明け透けもなく身の上を話すかもしれないが、同情など禁忌である。
 なにか他の話題を。コンスタンツは香茶を飲みながら考えを巡らせる。今日のシスターはいつもより機嫌がいいし饒舌だ。
「お父上があの黒騎士ヘルムートですもの。教育にもなにかと気を遣うところでしょうね」
「いいえ。信頼できる者たちにすべて任せておりますので」
「まあ、頼もしいことですこと。でも……、剣術にしても馬術にしても、教育係は女性よりも男性の方が適しているのではなくて?」
「いえ、イリアは……」
 はっとして、コンスタンツは途中で唇を閉じた。誘導尋問だろうか。それにしては不自然だ。疑惑の視線を受けてもシスターは艶美な笑みを止めない。
「イリア? その方の《《本当の名》》は、ルーファス・クレインでしょう?」
「まあ、どうして……?」
 そんなことをきくのだろう。言葉とは裏腹にコンスタンツの思考はそこへとたどり着いている。わざわざ子どもの話題を出してきた魂胆が読めた。この修道女は知っているのだ。十歳になる公子に新しい教育係が付いたことを。
 イリア・クレイン。そう名乗った女騎士をコンスタンツは保護している。イリアは仔細を皆まで話さなかったものの、大聖堂で軟禁状態にあったいわく付きの騎士だ。それにクレイン家といえば当主は病死したが、その妹は王家の末姫の傍付きである。
 厄介な女に関わってしまったのかもしれない。イリア・クレイン、それからシスター。
 この修道女がクレイン家の女騎士を知りたがる理由は定かでなくとも、これで教会と元老院が昵懇《じっこん》の仲だということがわかった。実際、元老院のなかでヴァルハルワ教徒も多いのだろう。王都マイアからレオナ王女が消えたという噂も真実で、だから教会は傍付きを追っている。レオナ王女はこのムスタールにいるはずの人間だからだ。
 王女の身替わりはクレイン家に縁のある娘で、しかしすでに教会によって消されている。いったい、イリア・クレインという王女の傍付きを手に入れてなにをしようとしているのか。
 コンスタンツは肩で息を吐いた。知る必要はないだろう。イリアは公爵家で保護した人間だ。コンスタンツはルーファス・クレインなど知らないのだから。
「あら? てっきりコンスタンツ様はご存じだとばかり思っていましたわ。いえね、かの騎士殿が行方知れずなのです。クレイン家はヴァルハルワ教会とも繋がりの深い名家ですもの。もう心配で心配で」
 安芝居に付き合うのも疲れてきた頃だ。それでもコンスタンツは笑みで応える。 シスターとはこれまで良好な関係を築きあげてきたものの、さすがに王家に関わる人間を差し出すつもりはなかった。それに、この修道女はおそろしい。ムスタール公爵不在のときを狙ってコンスタンツに近づき、公爵家を教会側へと引き摺り込もうとしている。
 どこかではっきり線引きをしなくてはならない。茶会と称してお喋りをたのしむ友人ならいい。コンスタンツの相談に答えてくれる歳の離れた友人、それ以上は心を許してはならない相手だ。
 そう、まだいまは。コンスタンツは口のなかでつぶやく。このままヘルムートが戻らなければ遅かれ早かれ教会には頼らざるを得なくなる。しかしそれではマイア王家から離反するもおなじ、マイアとヴァルハルワ教会と、最善となるものをいまは決断すべきではないと、コンスタンツは思う。
「お捜しの方が一刻も早く見つかるよう、わたくしもお祈りいたしますわ」
 これはいわば拒絶の笑みだ。対して、シスターは最後まで相好を崩さなかっ


Copyright(C)2014_2018 asakura All rights reserved.designed by flower&clover
inserted by FC2 system