五章 蒼空を翔ける

届かなかった声

 マイア王家に生まれた三番目の子は、誰の目から見ても出来損ないの姫君だった。
 長子アナクレオンは守護の魔法に長け、己の身を守る程度ではあるもの剣も扱える人だ。そこに王者としての風格が加われば、自然と人々は彼を次の王であると認める。その妹であるソニアもまた同様に、彼女はまずその美しさで人の目を惹いた。才媛の誉れ高き姫君と、周囲が褒め称えるのは明確な理由があり、そしてソニアに備わった魔力は宮廷魔道士をはるかに凌ぎ、彼女に扱えない魔法はないと言われたほどである。
 そして、末の子レオナは何も持たない王女であった。
 されど、マイア王家の象徴ともいえるドラグナーとなるのは、アナクレオンでもなければもっともふさわしいとされたソニアでもなく、半ば忌み子として扱われたレオナ王女だと、誰が予測しただろうか。人々は口を揃えて言う。これは運命の悪戯である、と。では、誰が運命を決めるのか。
 急速に下がった気温に、まず人の身体は耐えられない。
 肺まで凍りつかせるほどの寒さに手足の震えは止まらなくなる。そのうちに満足な呼吸もできなくなり、正常な思考が保てなくなるどころか、その先に待つのは死以外になかった。だが、レオナの相好は変わらぬままだ。なぜならば、これは魔力が造り出したもの、レオナは氷を身に纏っている。
 ほんの数カ月前まで、レオナは簡単な氷を作り出すこともできなかった。
 炎、氷、風など、魔力を備わって生まれた者にはそれぞれ得意な属性はあるというが、いずれも初歩的な魔法であればそう鍛錬することもなく操れるだろう。しかし、レオナは幼少の頃はもとより、それを使いこなすことが不可能だった。ゆえに、レオナは軽侮の目で見られていたのだ。
 西のラ・ガーディアに身を置いている間、レオナはアステアとともに魔法の訓練に努めてきた。とはいえ、一朝一夕で身に着くものではない。もともとレオナはそれができなかった身だ。なれど、今、レオナは己の魔力を意のままに操り、凍れる空間を作り出している。そう。彼が炎を使うのであればと、対抗した魔力だ。
 レオナがユノ・ジュールと対峙したのは三度目、こうして戦ったのは二度目でも、そのおそろしさは身をもって知っている。その気になればレオナの命など容易に奪えるくせに、そうしないのはなぜだろうと、レオナは思う。試されているのだ。その目的がどうであれ、レオナは屈するわけにはいかず、負けるつもりもなかった。
 ユノ・ジュールが操る地獄の火炎はまるで生き物のようだ。
 レオナに襲い掛かり、その身を焼き尽くすまで消えることのない炎。ふつうの人間ならば耐えられるものではなくとも、レオナならば生き延びると踏んでいるのだろうか。彼の唇の笑みは消えない。
 対して、レオナは無数の氷の刃を作り出す。いつかユノ・ジュールが攻撃したように空間にそれらを作り出し、相手が身構える前に一斉に放つ。全部が当たらなくてもいい、わずかな動きを止められればそれでいいのだ。レオナの想定とは逆に氷の刃は命中する。その機を逃してはならなかった。レオナは己の魔力のすべてを右手に集中させて、掲げた腕を左の手で支え、今一度雷を作り出した。
 轟音と、大地の揺れはしばらく続いた。
 レオナは肩で呼吸を整える。自身の双眸はたしかにユノ・ジュールを映し、そして自らが放った雷撃は彼を貫いたのだ。その証拠にユノ・ジュールは片膝を付いている。しかし、どれだけの損傷を与えられたことか。これまでレオナが放ったどの魔法であっても、彼を傷つけることは不可能だった。
 身に宿す竜の力が、血が、以前よりも強まっているのが分かる。かつてのレオナならばとっくに魔力が尽きている頃だ。治癒魔法を使い続け、道中に放った雷、ここで放った魔力はそれらを軽く上回るほどに、もうとっくに枯渇していてもおかしくはない。
 ここで攻撃の手を緩めてはならないと、レオナは集中を切らさない。けれど、己の意思に反して、どうしても腕は動かなかった。
 殺すための攻撃をする。その覚悟は偽りではなくても、心のどこかに迷いを持ったまま、ほんとうは、命を奪うために戦っているわけではないのだ。分かり合える相手ではなくとも、親しい人を殺めた憎むべき敵であっても。彼は、レオナと同じ存在なのだ。
 一縷の望みを掛けることなど、愚かしいことであるのかもしれない。それでも、レオナはユノ・ジュールへと一歩近づく。しかし――。
「……らわしい」
 声に、レオナの足は止まる。
「穢らわしい。人間の、子」
 向けられたのは、悪意だった。
「我らを欺き、人間に手を貸した、裏切り者の竜が……っ!」
 防御をしようとしても間に合わなかった。畏怖がそうさせたのだろう。
 ユノ・ジュールの目は、レオナと同じ蒼の色をしているものの、そこに宿す光はなく、あるのは純粋な憎悪だった。レオナの身体は吹き飛ばされる。肩と背中と、それから頭をしたたかに打ったせいか、上体を起こそうにも上がらずに最初に眩暈がした。吐き気は遅れてやってくる。それよりも息ができなくなったのは、おそろしさからだ。
 ほんとうに、ころされる。
 これまで何度となくユノ・ジュールはレオナに容赦のない攻撃をした。死んでいてもいいくらいに、それを耐えきったのは、レオナの竜の力が増大してきたからだ。それこそが彼の狙いだったのか。だとしたら、なんのために――。
 レオナの思考はそこで終わる。今、目の前に突き付けられた死と、向き合わなければならない。無論、受け入れるつもりはなかった。死なないことは分かっている。いや、そうではない。死ぬのは自分ではなく、守ろうとしている者たちが、だ。
「や、めて……」
 レオナは残った魔力のすべてを使うことを覚悟する。本当は残しておきたかった。彼を、殺すつもりはなかった。ただ、退ければいいと、そんな甘い考えを持って、そうして彼が消えた後にもしもアイリオーネたちを襲った炎が消えなくとも、この手で魔力を相殺できればと、そう思っていたのだ。
 ユノ・ジュールは炎を纏っている。怨嗟と、悪心と。彼の憎しみを具現化させた邪悪な炎。そして、そこから小さな太陽が出現しそれは徐々に形を増していく。あの時、レオナを守ってくれたのは母の形見の指環、いとしい者を護るための魔力が込められていたその指環は、もうない。だから、身を守るためにはもう防御ではなく、攻撃に魔力を使うしかなかった。
 やくそくを、した。
 もしかしたら、その想いを、ねがいを、祈りを、裏切ってしまうのかもしれない。
 レオナはかぶりを振る。だいじょうぶだと、自分に言い聞かせれば、次に為すべきことは一つだけだ。無理に身体を起こして、両の脚でしっかりと大地を踏みしめる。レオナの唇は祈りをつぶやき、しかしそれは音とはならなかった。
 レオナと、ユノ・ジュールと。ふたりの魔力が空間を支配する。何人たりとも邪魔などできず、それどころか介入などできないはずだった。
 ぱあん、と。破裂音がした。ひかりとやみと。ふたつの魔力はそこで消える。消された、というのが正しいのかもしれない。糸が切れた操り人形のように、ふたりの身体は崩れ落ちた。
 はじめに動けたのはレオナだった。
 そのレオナの目が映していたのは一人の女。その容貌は魔女さながらに、うつくしく魅惑的な女だった。
「ねえ、さま……?」
 瞬きを二度繰り返した後に、声は勝手に落ちていた。
 身体の震えが止まらないのはなぜだろう。恐怖を克服したわけでもなければ、全身が引き裂かれるような痛みを忘れたわけでもない。けれども、レオナの唇はただひたすらに、それを紡ぐ。
「あねうえ、なの?」
 レオナはその人に向けて言う。だが、女の視線はレオナにではなく、彼の方へと向けられている。女はユノ・ジュールの傍に寄り、そして抱きすくめた。それは、いとしいひとにする行為だった。
「どうして、」
 レオナは喉の奥から声を絞り出す。
「どうしてなの……? あなたは、ソニアねえさま、でしょう?」
 泣き笑いに近い。レオナの声はほとんど自分へと問いかけだった。
 女はレオナを見ぬまま、癒しの魔法を発動させる。ただ見ることしかできないレオナは自答を繰り返していた。
 濃い紫の色をした波打つ髪、レオナと同じ色の蒼の瞳に、ふっくらとやわらかそうな唇には姉が好まなかった色をした紅が塗られている。胸元にや太腿を大胆に露わにした闇の色のドレスなど、姉は嫌っていたはずだ。
 あの日、イレスダートとルドラスとの和平交渉が行われるはずだった日に、姉は姿を消した。そこから何年もたっていたとしても、レオナの目がその人を見間違えるはずがない。
 そうではなかったのなら、どんなによかっただろう。
 上手く働かない頭ではどれだけ繰り返したところで、答えなど出てはこなかった。けれど、レオナは瞬時にそれを結び付ける。それはまさしく、愚王と揶揄されていたサラザールの王に添っていた王妃そのものではないか。そして、今なら理解ができる。異国の地でそれほどに強い魔力を持つ者など、その人以外に考えられないのだと。
「こたえて。あなたは、わたしの……!」
 されど、ついに女はレオナを見ることをしなかった。女が微笑みかけるのは彼だけだ。聖母のようにやさしく、うつくしく、いたわりと愛しさをもって。
「イシュタリカ」
 それが、彼女の名だというのならば――。
「参りましょう? ユノ・ジュール」
 彼女は応えるだけだ。
 甘美な囁きが聞こえる。女は空間に闇を作り出し、やがて二人はその中へと呑み込まれていった。レオナは這うようにして追いかけて、闇へと手を伸ばす。そして、掴み損ねた手は、ただ虚しく下ろされただけだった。










 かつてないほどにブレイヴは疲れていた。それほどに厳しく、激しい戦いだった。
 敵が大部隊であってもこちらは少数で切り抜けなければならないこともあれば、数万の敵と味方が入り混じった合戦でも生き抜けてきた。斥候、あるいはおとりとなったのも一度や二度ならず、死を悟ったことさえもあった。こうしてまだ生きているのは、己の運もあったのだろうか。
 ブレイヴは荒くなった呼吸を自然なものへと戻そうとする。エルグランの城内にはまだ多数の敵が残っており、いずれも死にもの狂いで襲い掛かってくる。ブレイヴの青髪が特に目立つのは、グランの人間が茶色か黒に近い髪をしたものばかりだからだ。つまり、彼らにとって敵以外の何物でもなかった。
 彼らは降伏という言葉を知らないらしい。ブレイヴたちの他にもグランルーザの部隊は続く。外ではまだ竜騎士同士の空中戦が行われているが、どちらが優勢であるか明らかである。なおも抵抗を続けるのは、王への忠誠心、それからジェラールという偉大な騎士への哀悼の意からだ。
 侵略者と。ブレイヴに放たれた言葉は、まだ耳の奥に残っている。そうなのかもしれない。ここがイレスダートではないというのに、ラ・ガーディアと同じことを繰り返している。ブレイヴは自嘲する。されど、己の剣をとめるわけにはいかなかった。
 やがて、ブレイヴはそこへとたどり着く。王の間だ。抵抗を続けていた騎士たちの屍が積み重なり、残った数名の騎士だけが王の傍から離れずにいた。どちらが先に動くか、その時にこそ終わりがくる。
「来たか。ブレイヴ」
 レオンハルトは目が合う前に言った。彼の視線は玉座の王に注がれている。どうやら説得の言う名の交渉は受け入れられなかったらしい。その背からは濃い疲労が伝わってくる。
 ブレイヴは友のことを思う。しかし、葛藤しているだけの時間はもうない。ここを落としたとしても、グランルーザが落ちていては何の意味もなくなる。焦りは冷静を保つための妨げとなるとはいえど、限界だ。
 レオンハルトは一歩進み出る。敵が一斉に動き出したのはその時だった。これが最後であると、悟ったのだろう。ブレイヴが庇う前にレオンハルトの従卒たちが彼らを斬った。そうして、王はただ一人になる。
「あなたは、エルグランをお潰しになるつもりか」
 レオンハルトは声を大きくする。届いているはずだ。それなのに、王は冷たい仮面を付けたまま、唇が動く気配はない。
「我らは、グランルーザはエルグランを取り込むつもりはない。我らが望むのはただ一つ、不可侵条約が再び結ばれることだ」
 痛みを、かなしみを、いかりを、憎しみを。その、すべてを忘れて。和平が未来永劫と続くことを願う。
 ブレイヴはレオンハルトと王を見つめながらも、見ていたのはイレスダートとルドラスだった。長き争いを続けていたとしても、かの北の敵国の滅亡を望んでいるわけではない。歩み寄ることができるのであれば、手と手を取り合うことができるのであれば。
「もう遅い。グランルーザの王子よ。私は、何もかもを失くしてしまった」
 王は言う。それは違うのだと、レオンハルトは声を発するつもりだったのだろう。だが、それには一歩遅かった。玉座から立ち上がった王は短剣を取り出す。それは最後の抵抗だった。
 眼前に赤が舞う。王が短刀を振り上げ、自らの喉元に突き刺し、崩れ落ちるまでのそのわずかな時間だというのに、それはブレイヴのまなこにゆっくりと映っていた。
 レオンハルトの吼える声が聞こえた。こうなることは分かっていたのだ。それでも、認めたくなかったのは、かつての友であるジェラールへの想いからだったのか。
 ブレイヴは祈りの仕草をする。それは敬虔なヴァルハルワ教徒であるにもかかわらず、禁じられていた自決を選ぶしかなかった王への哀惜だった。


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