五章 蒼空を翔ける

猛襲

 マウロス大陸に連なる山脈のひとつに、モンタネール山脈がある。
 南の聖王国イレスダートと西のラ・ガーディア、そして北のルドラス。かの三国を繋ぐかのようにそびえ立つ、猛々しくも美しい山脈に挑む登山家や巡礼者の数は多い。数ヶ月と長いときを掛けて平野を馬車で行くことは可能だが、しかし山脈の向こうのグラン王国へと向かうには、山越えを選ぶ他はない。人は空を飛べない生きものだし、また飛べるような乗りものも持たないからだ。
 ラ・ガーディア最大の国ウルーグを出発して五日、馬は山麓の村に置いてきた。
 ここから先は自分たちの足だけが頼りとなる。雇った登山家は二人、いずれも山に長けた猛者で何度かグラン王国へとたどり着いている。ウルーグでは春風そよぐあたたかな季節がやってきたとはいえ、山麓まで来るとさすがに寒い。風雪に耐えながらの山越えは覚悟の上だが、もうふた月は待つのが本来のやり方だと登山家には釘をさされてしまった。
 あいにくだが、ブレイヴにそんな時間はなかった。
 出立より先に別れたディアスとその麾下は、いま頃カナーン地方の辺りだろうか。彼らのことだからもうすこし馬を飛ばして、オリシスくらいにはたどり着いているのかもしれない。気が急くのは悪いくせだ。登山家だけではなく軍師セルジュにまで怒られた。ブレイヴはうしろを振り返る。すこしだけ冷静になれたのは、幼なじみやオリシスの少女たちの顔が見えたからだ。
 グラン王国への道はモンタネール山脈ひとつだけ、だから登山道にはすこしずつ人の手が加えられている。三合目で見えた山小屋で夜を過ごしたときに、登山家は歯を見せて笑った。天候にも恵まれているのでこれなら安心して先に進めます。出立前に愚痴を零していたのにかかわらずこの態度、さすが金貨を二枚持たせたので途中で投げ出したりはしないだろうが、ブレイヴは失笑するところだった。
 そして登山家たちはつづける。冬眠から覚めたばかりの獣に出会う可能性もありますが、騎士様がたくさんいるから安心ですね。ブレイヴはこれにも曖昧な表情で返した。ブレイヴはイレスダートの聖騎士、レナードとノエルは騎士に叙任されてから一年すこし、のこりはルテキアだが彼女は前線で戦うというよりも要人の護衛役だ。異国の剣士クライドも頭数に入っているのだろう。クライドは寝袋に包まってさっさと寝てしまった。
 たしかに熊や狼と出会すかもしれない。しかし、登山家たちはもうひとつの可能性について口にしなかった。失念していたのか、それともこれまで無事だったがために危険性について考えていなかったのか。どちらにしても、想定外の出来事だったのだろう。
 イレスダートではとうに消えた生きものだった。
 寝物語としてきいたそれは絵本のなかだけの存在だったし、その血と力を受け継いだのがマイア王家の子どもたちと知っても、幼いブレイヴには幼なじみとそれが結びつかなかった。ただし、その存在がマウロス大陸からなくなったわけではないのだ。《《彼ら》》は棲家を変えただけだ。そう、このグランという国に。
 足が竦んだのは人間の本能だろう。奴らが翼を羽ばたかせるたびに竜巻が起こる。けたたましい咆哮に耳が使いものにならなくなった。その大きな眸と目が合ったとき、死を覚悟するのが普通だ。
「竜だ!」
 叫んだのはレナードか、ノエルか。氷の魔法を放ったのはエーベル兄弟だった。魔道士の少年アステアと軍師セルジュ、二人の魔法は目眩まし程度に過ぎず、しかしそれがなければ最初の攻撃を避けきるのは不可能だった。
 地面に身を伏せながら、ブレイヴは空を見あげた。大空を羽ばたくのは異形の獣、竜だ。
 セルジュが後方に向かって叫んでいる。林の方へと逃げる幼なじみたちの姿を見送って、ブレイヴはようやく身を起こす。眼前に竜の爪が迫っていた。
 想定外などとんでもない。グラン王国がただの山岳地帯に位置する国だというのなら、一からこの国の歴史を勉強し直すべきだ。グランにはいまも竜が棲息する地である。
 剣でどうにか竜の爪を弾いたものの、衝撃で吹き飛ばされそうになった。竜はふたたび天空へと戻る。そのときになって、ようやくブレイヴは理解した。竜の背にはたしかに人が見えたのだ。
 あれはグランの竜騎士。グラン王国には大きく分けて三種類の竜が棲息する。巨体を持つ竜は人とは関わらずに身を潜める。小型の飛竜は蒼空を翔ける野生の竜だ。それからもうひとつ、いまも人と共存しているの竜もいる。共存というべきだろうか。人間に飼い慣らされた飛竜と人の関係は服従に近い。つまり飛竜を操っているのは人間で、グランの竜騎士にブレイヴたちは敵と見做されたようだ。
「ノエル! アステア!」
 呼ばれてすぐに意図が掴めたのだろう。弓騎士と魔道士、空へと逃げた竜に攻撃できるのは二人だけだ。ただし空を転回する竜にはまだ届かない。攻撃を仕掛けるのはこちらへと近づいたとき、そしてブレイヴは二人を守りながら戦う。ブレイヴたちには剣があるが、自身を守るための武器を持たない者は、直撃を喰らえば死に等しいからだ。
「セルジュも前に出るな」
 軍師も初歩的な攻撃魔法が使えるが、本職のアステアよりも魔力が尽きるのは早い。敵は竜騎士が一人に見えても、いつ増援がくるかわからない状況なら温存しておく方がいいだろう。
 小型の飛竜とはいっても鷹を仕留めるとは訳がちがう。
 空を自在に駆け巡る竜の眸にこちらの動きなど丸見えだ。それに竜を操る竜騎士、《《狙われている》》のが自身だとわかっていても、平気で突っ込んでくる。一気に急降下する竜の攻撃はおそろしく早かった。
 イスカの剣でなければ最初の一撃で折れていたかもしれない。
 刃は竜の鱗に阻まれて通らず、鋼でも打ったかのように固かった。爪や牙となるとどんな金属よりも硬質で、受け止めれば砕けてしまう。ブレイヴはレナードにまともに相手にしないようにと、目顔で伝える。レナードの役目はあくまでノエルとアステアを守ること、ここでの勇気などただの無謀でしかないと、騎士も理解したようだ。
「妙だな」
「なにが?」
 異形の獣を前に臆さないクライドはさすがだが、ブレイヴにはそれだけの余裕もなく、またすぐに空へと視線を戻す。
「攻撃が単調すぎる。本気で襲ってきているようには見えない」
 そうだとしても凌ぎきるだけで精一杯だ。ノエルもアステアも懸命に攻撃をつづけているが矢も氷の魔法もなかなか届かず、竜が急降下するたびに巻き起こる風に耐えるだけでも体勢が崩れる。
「あっちはどうなっている?」
 幼なじみたちだ。後方にいたレオナたちは林へと逃げ込んだ。竜は囮で、本体は後方。要するにクライドはそう言いたいのだ。 
 すぐにでも助けに行きたいところでも、竜の攻撃がそれを許さない。
 後方にいたのはレオナとルテキアとシャルロット、それにフレイアとクリス。フォルネに戻ったとばかりに思っていたものの、フォルネの王女と白皙の聖職者はまだウルーグに留まっていた。聖騎士殿は借りているものが多すぎるでしょう。そう、白皙の聖職者がささやく。グラン王国への旅の資金が追加された。ルイナスはラ・ガーディアの動乱でブレイヴの友になったが、ただで金をくれるほどやさしくはなかった。
 いま思えば、彼女たちの存在がありがたい。クライドの指摘どおり他にも敵が潜んでいたとしても、フレイアはきっと幼なじみたちを守ってくれる。意識を空へと戻して、ブレイヴは迫り来る竜と向き合った。なかなか手練れの竜騎士だ。遠距離攻撃が可能なノエルとアステアを狙っているが、それをブレイヴらが食い止める。どちらが先に潰れるかの我慢比べのようだ。
「左へ飛べ!」
 クライドの叫びに、ブレイヴは即座に従った。
 単調だと指摘したクライドは正しかった。そのまま空へと帰るかと思われた竜はその場で旋回する。長い尾に巻き込まれた木々が倒れていくのが見えた。もうすこし屈むのが遅かったら、身体中の骨が砕けていたかもしれない。
「公子! ノエルが……!」
 ところが、避けきれなかった者もいたようだ。ノエルが右足を押さえて倒れている。足が潰れたのなら一刻も早く治療が必要だ。
「セルジュ、ノエルを!」
 放り出されたノエルの弓矢を拾って、ブレイヴは空へと逃げる竜を追う。士官学校を思い出せ。剣や槍は騎士の必須科目、しかし騎馬で戦うときに弓もまた強力な武器のひとつとなる。狙いは竜ではなく背に跨がる騎士だ。それは間一髪だった。空に投げ出された竜騎士が見えた。次の攻撃の命令がなければ飛竜がこちらに襲ってこないことを、ブレイヴは知っていた。
 そのまま滞空していた竜もほどなくして北へと消えた。主を失っても竜舎へと回帰する習慣でもあるのかもしれない。安堵するブレイヴたちだが、新手を確認するまで時間は掛からなかった。次から次へと。舌打ちでもしたい気分になってくる。 
 セルジュの治癒魔法で、いくらかは回復したノエルが弓矢を引き取った。次は外さない。狙いを定めたノエルをブレイヴは止める。飛竜に跨がる騎士がこちらへと呼びかけていたからだ。
 降伏か和睦か。いきなり襲ってきておきながら虫がよすぎる話だ。言葉次第ではふたたび戦闘がはじまる。そう思考していたブレイヴは、飛竜からおりる騎士の姿を認めて考えを改めた。栗毛の短い髪と意志の強そうな濃褐色の目。その容貌には覚えがあったのでブレイヴは警戒心を消す。たしか彼には妹がいた。ブレイヴの前で一揖し、それから笑みを作った女竜騎士の顔は、彼にそっくりだ。
「きみは、レオンハルトの妹。グランルーザの妹姫?」
「はい、セシリアと申します。聖騎士殿を迎えにまいりました」
 実に堂々とした挙止と声だった。セシリアと名乗った竜騎士はもう一度微笑んだ。


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