五章 蒼空を翔ける

忠告と助言

 彼の帰還は城内のどの顔をも明るくさせ、陰鬱な空気をまるでなかったかのようにする。
 レオンハルトは長く城を空けたことをまずみなに詫びて、されどその言動が軽率であったなどとは口にはしなかった。だから、誰も責める目をしないのだ。彼は重く受け止めはしているものの、何もかもをも一人で背負う男ではなかった。
 出迎えた愛しい妻との抱擁に、ある者は驚き、ある者は頬を染め、またある者は日常でよくあることだと言わんばかりに苦笑した。彼が臣下や民に愛されているのは、この国の王子だからではなく、レオンハルトという一人の男にみなが惚れ込んでいるからで、自身もその一人であるとブレイヴはそう思う。
 しかし、もたらされたのは吉報ばかりではなかった。
 帰ってこなかった者もいる。それは当然だ。激しい空中戦の末に命を落とした者は少なくはない。けれど、それがまさか王女であろうとは、誰が予測しただろうか。
 ブレイヴは将軍や他の騎士たちに詰め寄られていたが、それを制止したのはレオンハルトだった。責めるならば俺を責めろと、彼は厳しい面持ちでそれだけを落とし、またブレイヴには弁明するような言葉を持たなかった。セシリアは敵の攻撃を受けて、彼女の愛竜ベロニカとともに落ちたという。耳にしたとして、到底信じられるものではなかった。その兄であるレオンハルトはなおのことだろう。
 彼は戻って来てから妹の名を口にしないが、それには理由がある。生きているのだと確信があるのだ。それも曖昧な物言いをしないレオンハルトであるから、周囲にはそうしたことを漏らさない。彼の一番の理解者でもある妻アイリオーネだけは真意を知っているようで、ブレイヴの物言いたげな視線にもさびしく微笑むだけだった。
「世話を掛けたな」
 その最初の一言に、ブレイヴはどう反応すべきかを迷った。戻って来てから三日が過ぎてはいるもの、友とはゆっくりと話もできないままだった。
「借りはきっちりと返す。……倍にしてな」
 らしくないと、思った。レオンハルトはこうしたくだけたことをよく口にはするものの、どこか声色が違う。もしかしたら後ろめたさがあるのかもしれない。それならば、お互いさまだ。その無言の時を、レオンハルトは感じ取ったのはブレイヴには読み取れなかったが、次の声はもう少し意識したものに変えていた。
「迷惑ついでに、もう少し付き合ってもらうぞ。……お前の軍師もなかなかに面白い奴だ。主従そろって手離すのは惜しい」
 褒めているのかそうでないのか。だが、これでようやくレオンハルトらしくなった。
「覚悟はしているよ。それに、そのために来た」
 嘘偽りなく言う。グランの力をあてにしているのは本当のこと、ブレイヴはここでもラ・ガーディアと同じ選択をすることになるのだ。今さら、他人からどう思われようとも構わない。青春の時を共に士官学校で過ごした友だとしても。
 子どもたちの声が聞こえてきた。背丈が同じくらいの男の子が二人、その後ろをちいさな女の子がちょこちょこと、置いて行かれないようにと付いて行く。男の子たちはかけっこの途中なのか、けれど女の子がちゃんと付いて来ているかをたしかめながら、おそらくはどちらかの妹なのだろう。城内から出ないようにと、きつく言われているのにかかわらず、やはり子どもたちは退屈をするようだ。それでもここにいる大人の姿を見た途端に、慌てて戻って行ったけれど。
 しばらくその様子を微笑ましく見ていたブレイヴは、レオンハルトへと目を戻した。彼もまたやさしい目をしたまま、ブレイヴにはレオンハルトがいま何を考えているのかがよく分かる。
 レオンハルトとセシリア、それからジェラールは、国は違っていても幼少の頃に交流があったという。いわば幼なじみというもので、ブレイヴは自らに重ねた思いを彼らに抱いた。グランルーザとエルグランはその昔、敵国であったのも、友好関係を継続させるべく王族同士の結婚をするのが習わしであるのも、そしてセシリアとジェラールが大人たちの都合で婚約を結んだのも、子どもたちには関係がない話だ。ただ、彼らは本当に友情を育み、自分たちの夢や希望を乗せて、このグランの空を翔けた。
 それはもう過去の話であり、彼らは二度と同じところへと戻れない。さきほどからレオンハルトは空を見つめたままだ。
 はっきりとした蒼の色はどこまでも広がり、そこに白い雲が被さろうとも邪魔にはならず、うつくしい空だった。山岳地帯であるグランの春はやはり遅いらしく、北から来る風は容赦がない。木々が鮮やかな緑の色を付け、花々が陽気な黄色や橙の彩りを付けるのはまだ先のようだ。午後の時間だといえ、長くここにいれば身体が冷えてしまうだろう。けれど、レオンハルトの唇は閉じたきりだ。
 ブレイヴはレオンハルトの口から後悔めいた言葉を聞いたことがない。士官学校で親しくしていたとはいっても、友はブレイヴよりも学年が二つ上、授業や演習などで一緒になることはまずなかった。騎士見習いは何かと失敗が付きものであり、そうした経験が騎士を作り上げていく。それも時として、取り返しのつかない失敗をすることもあるのだ。ブレイヴは仄聞しただけ、彼は反省の声を出しても悔恨の意は見せなかった。同級生の前でも、ブレイヴの前でも。そうした姿は他人から見れば意固地のようにも見える。しかし、ブレイヴはレオンハルトという男の心を知っていた。彼は誰よりも人の痛みが分かる人だ。
「俺のリュシオンとセシリアのベロニカも、兄妹だ」
 脈絡もなく落ちた声にブレイヴは瞬く。レオンハルトは笑んでいた。
「飛竜が一生のうちに産む子どもは一回きりだ。だが、どういうことか続けて生まれた。まぁ、たまにはそういった偶然もあるかもしれないが」
「……つまり、リュシオンとベロニカには、特別な繋がりがあると?」
「そういうことだ」
 レオンハルトの言いたいことが分かってきた。人間同士の絆や縁、そういった目に見えない不確かなものが、竜にもあるらしい。血を同じとするものならばあるいは。
「リュシオンは何も変わったところを見せない。なかなかにふてぶてしい奴なんだ。心配はするなと、俺に言っている。だから俺も、友が妹を信じているのに、その気持ちは裏切れない」
 そういって笑うレオンハルトの横顔をブレイヴは見る。よく、見せる笑みだ。
「だから、セシリアは無事だ。ジェラールが保護しているのなら……、あいつは女の扱いに慣れているからな」
 それは、ふたりが無事であるということを意味している。
 あの時、監獄で再び敵の手に落ちる寸前に、レオンハルトはリュシオンに命じた。飛竜はその昔、マウロスの生きた竜と同じく、炎を意のままに操ることができる。それも体温を調整し、魔力と体力を激しく消耗するものだから、竜は多用することを嫌がるらしい。それも地を這う竜よりも身体の小さい飛竜ならば、一度火を吐けば数年は同じことができないというのだ。従わせるにはよほどの信頼関係がないとまず無理なこと、だがその瞬間が最適であると、リュシオンも判断したのだろう。
 そして、その灼熱の炎は、ブレイヴが今まで見た中でも一番おそろしいものだった。直撃を食らった人間は逃れられず、骨さえも残らないほどの炎。ジェラールの前で幾人の騎士が庇うのが見えたが、それでも無傷であるはずがない。苦肉の策だったのか、それともジェラールがあの炎の中での生き延びると思ったのか。ブレイヴは友にそれを聞けずにいる。それは、レオンハルトとジェラールとの間に、どうしても埋められない溝を見たからだ。
 生まれた国が違う。育った環境が違う。理念も異なれば信教も。どちらかにそれを強制して分からせ従わせるのは、あまりに乱暴なやり方だ。こうして、人と人は違えてしまう。ゆえに敵と敵になってしまう。ブレイヴは口の中にあった声を押し戻した。一筋の光は、希望は消えたわけではなくても、これから再びグランルーザとエルグランとの間で和平が結ばれるのは、難航するにちがいない。さすれば、レオンハルトとジェラールは剣を向け合うこととなる。友に向ける刃。正義よりも、大事なものよりも、それを捨てなければならない時が来る。
「帰ってくるさ。……もしも、そうでなかったなら、その時は兄として妹の幸せを願うだけだ」
 レオンハルトは未来を声に乗せた。セシリアはどちらを選ぶのか。それは、彼女が決めることだ。
「そうだね。彼女は、強い人だ。それにきみたち兄妹はやっぱり似ていると思うよ」
 ブレイヴの揶揄にもレオンハルトは唇の端を上げた。真面目なところ、頑固なところ、熱を内に秘めているところ、笑った時の顔、挙げればきりがないくらいだ。
「俺のことはいい。それより、問題なのはお前の方だ」
 レオンハルトは急に真顔になる。
「お前がイレスダートに、王都マイアに戻るつもりでいるならば、俺はそのための力を惜しまない。だが、お前は聖騎士でありながらも、今はただの反逆者だ。このグランにまで届くまでにな。それを分かっていて、なぜ戻ろうとする?」
 いささか不躾な問いには驚いたものの、ブレイヴは表情を変えない。ただ、高ぶった心臓の音は、それだけ憎悪といかりを広げさせていく。
「マイアで何かが起きている。アナクレオン陛下の御身も、大事がないか分からない状況だ」
「なら、その必要はない。陛下は病で臥せていたが、今は公務も滞りなく行っているそうだ。……ヴァルハルワ教会を通じてジェラールが得た情報だがな」
 そこに信憑性はどれほどあるのか。ブレイヴはもう少し目に力を入れる。
「陛下に刃を向けた者がいる」
「イレスダートではそれはお前の方だと、もっぱらの噂だ。加えて王女殿下の拉致、オリシスの公爵の暗殺、サリタではマイアの騎士たちを多数殺めた上に西へと逃亡。それらは全部、お前に掛けられた容疑だ」
「レオンハルト」
「怒るな。誣告であっても、今のお前はそれだけの罪を重ねた逆賊だ」
 事実ではないことなど、すべてを話したレオンハルトには分かっているはずだ。ならば、なぜあえて言うのか。
「ヘルムート卿のくだりにしても、お前は信じてはいないのだろう。かの公爵が陛下に造反の意を示したなど」
「彼ほどの人がそんなことをするはずがない。けれど、なにか、理由があったのなら、」
「それこそ妙な話だと思わないか? つまるところ、これは策略だ。お前は上手く嵌められている」
 誰に? と。持った疑惑をブレイヴは消す。レオンハルトはたたみかけるに続けた。
「アストレアのことは、気持ちは分からなくはない。だが、お前が戻ったところで収まるような事態だとは俺は思えん。それだけの危険を冒してまで、なぜ戻ろうとする?」
 時を待てと、レオンハルトは言っているのかもしれない。歯痒さにブレイヴは震えそうになる。イレスダートは北のルドラスとの戦争中、それも国境であるガレリアはすでに落ちているというのに、無用な時間はない。マイア内の混乱にしてもどこまでが真実であるか、見極める必要もある。どこもかしこも敵だらけだ。だとしても、ブレイヴはイレスダートに、マイアに戻るのだ。それは、ただひとりのために――。
「ちがうな。俺は、彼女を理由に自分を正当化しているだけなのかもしれない。利用しているんだ、彼女を。これでは立派な逆賊だな」
 唇から勝手に出てきたのは自嘲だった。
 祖国アストレアはマイアの手に落ちているのだろう。不当な扱いこそされてはいないはずでも、そこに自由はない。母も、臣下も、騎士たちも、民も。ブレイヴの帰りを待っている。それにはまず疑いを晴らさなければならない。力で抑圧されるのならば、同じだけの力を用いて。ブレイヴはそうしてここまでを来た。その力を得るのが目的だった。
「なるほど。頭が固い」
 しかし、紡がれたのは否定を含んだ声だった。
「俺もよくアイリには頑固者だと言われるが、お前はその上を行くようだな。まったく周りが見えていない」
「レオン、俺は」
「お前が剣を持つ理由はそれか?」
 以前、同じことを訊かれたような気がする。そう。あれはオリシスのアルウェンだ。
「お前は聖騎士になるのが夢だと、あの士官学校で言ったな。それはめでたく叶った。喜ばしいことだ。マイアの貴族どもではなく、田舎騎士と嘲られたアストレアの公子であるお前が聖騎士になったんだ。ああ、もちろんお前の苦労は知っている。引き換えに何を失ったかも。だがな、そうしてまで手に入れたいものがあった。それだけの覚悟がお前にはあった。違うか?」
 どうやらレオンハルトはブレイヴの声を待つつもりがないらしい。さすがに怒りを感じたが、レオンハルトは知っていながらもあえて問うているのだ。それならば、応えることはない。レオンハルトの双眸にも同じ色が見える。彼は、怒っているのだ。
「力を手にしたのはなぜだ? お前が彼女をマイアへ戻してやりたい気持ちは何だ? 守りたいと思うのは、王女だからか? 勅命だからか? 幼なじみだからか?」
 そのどれもが、嘘だ。ブレイヴは息を止める。
「その中に正解などない。愛しているからだ、彼女を。いい加減に認めろ」
 これが、もっと幼い感情のままで育っていたならば、友に掴み掛かり、あるいはその頬を殴っていたことだろう。
 ブレイヴはまだそれを一度も声にしたことがなかった。心で唱えたこともなかった。できなかったのは、己が無力であるから。たいせつなひとを守ることもできないような男が、軽々しく口にしていい言葉ではなかったからだ。
「レオナが何も感じていないとは言わせないぞ。お前はそこまで馬鹿ではないからな」
 何もかもを見透かされている。されど、見ないふりをしてきたわけではない。向き合うべきなのは、そのこころと。
「ジェラールはセシリアを求めている。ヴァルハルワ教の信者は恋愛による結婚を許されていないにかかわらずだ。……あいつも無自覚かもしれんがな。それでも、お前よりはよっぽど正直に生きている。ああいうところは嫌いではない」
 そうして、レオンハルトはブレイヴの反論も何も聞かずに去って行ってしまった。ブレイヴは天を仰ぐ。蒼穹の空の澄んだ色は、彼女の純真な心の色のようだと、思った。
 

Copyright(C)2014_2018 asakura All rights reserved.designed by flower&clover
inserted by FC2 system