五章 蒼空を翔ける

ふたつは選べない

 彼とはじめた会ったその日を、セシリアはよく覚えている。
 六歳になって飛竜に乗ることを許された。父カミロの愛竜は、生まれた頃から一緒のベロニカよりもずっと大きく、その大きな眸《ひとみ》で睥睨《へいげい》されると身体がすこし震えた。
 四つ上の兄レオンハルトは何度も空を経験しているのに落ち着きがまるでなく、父親に落っこちるぞと叱られてもはしゃいでいる。セシリアも昨日まではおなじ気持ちだった。山も街もあっという間に追い越していくんだ。ちょっと寒いけれど心配ない。すぐに慣れるし、風も気持ち良いからな。兄レオンハルトはそう言った。
 はじめての空の旅、夜に目が冴えて眠れないくらいたのしみだった。しかし実際に空を経験してみると、そんな余裕などどこにもなかった。丈夫な外套を着込んでいても親子三人でくっつき合っていても寒いし、風の強さに目が開けていられない。レオン兄様のうそつき。でも、こわいだなんて言えなかった。セシリアはグランルーザの王女でも、父や兄を追い掛けているだけの少女じゃない。私だって竜騎士だ。
 やがてグランルーザの国境を越えてエルグランに入った。
 辺境の砦が見えてきた。あそこにエルグランの公子がいる。兄レオンハルトはすでに何度も彼と会っていたようで、城塞に着くなり我が物顔で歩いて行く。書庫の奥にも勝手に行くので、セシリアは兄を追い掛けるだけで大変だ。扉の前でどきどきしながら待っていたセシリアは、レオンハルトに引き摺られるようにして出てきた少年を見てびっくりした。たしか歳はレオンハルトとおなじ十歳、それなのに頭ひとつ分はちいさくセシリアと背丈もそう変わらない少年を見て、はじめは女の子だと間違えたくらいだった。
 最初の印象は正直に言えば良くはなかった。兄レオンハルトはともかくとして、おなじの年頃の男の子はもっとしっかりしている。こんな細っこい子が竜騎士になれるのかと、値踏みするような目でじろじろ見るセシリアにも彼はにこっと笑うだけだった。
 父カミロは何度も彼に会わせてくれた。
 幼い頃に両親と死に別れた彼には歳の近しい友達がいなかったし、セシリアは自分が成人したら彼の元に行くことも知っていた。嫁ぐという意味を知ったのはそれよりだいぶあとだったが、しかしその頃には彼に対する印象も変わっていたように思う。そう、ジェラールは心の優しい少年だった。
 兄レオンハルトは彼を優男だなんて言うけれど、セシリアはそう思わない。三年もすればジェラールはセシリアの背を超えていたし、体つきもずいぶんたくましくなっていた。きっとたくさん努力したのだろう。書庫に籠もりがちの少年もまた竜騎士だ。レオンハルトと手合わせするジェラール、二人の関係は幼なじみであり親友であり好敵手であり、そんな二人を羨ましく思っていたのもちょっと悔しいので内緒にしておく。そうした関係はずっと長くつづくのだと信じていた。セシリアだけではない。きっと兄レオンハルトもジェラールもだろう。
 焦っていたのだろうか?
 セシリアは自らの心へと問いかける。でも、もう遅い。ここまで来てしまったのは自分の意思だ。後戻りなんてできない。
 夜明けを待たずにグランルーザを経った。斥候《せっこう》の必要などない。ここは勝手知ったる城である。それに、と。セシリアは唇を動かす。レオンハルトを手中に収めていてもけっして慢心しないのがジェラールだ。あんな手紙ひとつでセシリアが屈するとも考えていないはず、となれば城塞に敵など近づけさせないだろう。
 空中戦は必須だ。それこそグランの戦い方である。先発隊はとにかくあの城塞からすこしでも多くの竜騎士を誘き寄せるのが役目だ。セシリア自ら名乗り出たのは誰よりも辺境の砦をよく知っていたからで、それでも部下たちは唾を飛ばしながら反対した。
 だが、他に誰が彼を止められるというのだろう。
 グラン王国に築かれた城は天然の要塞、難攻不落と名高い城ばかりだ。行く手を阻む竜騎士たちを凌いだところで、次は尖塔から矢の攻撃が待っている。飛竜の鱗は矢など通さないほど頑丈だが、しかし狙われるのは飛竜ではなく竜騎士だ。弓の名手が多いことで知られるのは西のウルーグ、とはいえグラン王国も負けてはいない。無傷で城塞に近づくなど不可能だ。イレスダート人の軍師はそう言い切った。
 セシリアが従える手勢は三十ほど、けっして多くはない数でも闇の空に舞う飛竜の姿は圧巻である。肺まで凍りつかせるような寒さのなか、竜騎士たちの表情は引き締まっている。成人をして間もない少年から彼らを導く青年竜騎士、セシリアとおなじ女竜騎士の姿も見える。皆の名をセシリアは知っているし、自分を信じてここまで来てくれた。誰一人失わずにグランルーザに帰還する。それがたとえ叶わなかったとしても、彼らは最後まで竜騎士として戦いつづける。
 死なせてはならない。そう、自分もそのうちの一人に入っている。
「私の後につづけ!」
 エルグランの城塞が見えてきた。セシリアの声に応えるかのように、うしろから一斉に鬨の声がきこえた。第二部隊はセシリアより小一時間遅れて到着するだろう。竜騎士たちのなかにはイレスダートの聖騎士がいる。失敗はけっして許されない。
 レオンハルト救出にまず官吏たちが声を荒らげる。
 王子が単独でエルグランの公子に会いに行った、そもそもそれ自体が事後報告だった。兄は帰って来ると信じていたセシリアだが、ジェラールという男はそう甘い人間ではなかったということを思い知らされる。その上、王女を失ったとなればグランルーザは戦う前からエルグランに敗北したようなものだ。
 そんなに弱い人間なんかじゃない。兄も、ジェラールも、そして私も。官吏たちのみならず、竜騎士団を説得するのも苦労した。ありったけの思いを込めた声が届いたとは思わない。皆はきっと諦めたのだろう。グランルーザの兄妹は揃いも揃って頑固者だからだ。
 北の尖塔が見える。おそらくあそこにレオンハルトが囚われている。幼い時分に悪戯好きの子どもたちが迷い込んだ塔、その地下には監獄が存在する。何世代も前にグランルーザとエルグランは別たれた。父を見限ったのは王子だった。骨肉の争いの証が地下牢には染みついている。かつてグランルーザの竜騎士たちが囚われた場所、二度とグランルーザの大地を踏みしめることが叶わなかった者たち、兄をおなじ目に遭わせてなるものか。
 ベロニカの咆哮がする。思考にふけていた時間が長すぎたようだ。はっとして顔をあげたそのとき、敵はもう目前に迫っていた。
 愛竜ベロニカを大きく左へと旋回させる。ジェラールならば城塞に近づく前に敵を迎撃する。彼はそういう戦い方をする男だ。しかし、セシリアたちは城塞へともうまもなくというところまで来ていた。罠。セシリアの脳裏にその言葉がよぎる。それとも、セシリア自ら先陣を切って来ると予測していたのだろうか。
 見縊《みくび》らないで。セシリアは歯噛みする。兄と彼が研鑽《けんさん》を重ねていたそのすぐ横で、ただ見ていた女だとでも思っているのか。私は竜騎士だ。迎え撃たんとする竜騎士たちを誘き寄せる。それが最初の役目である。しかし、それだけでは止まらない。血気盛んな若い竜騎士たちがセシリアの部下だ。彼らはまず死を恐れずにただ前へと進みつづける。竜騎士部隊を引きつけつつも、城塞に残った敵も減らさなければならない。あちらもセシリアたちが主力だとは思っていないはずだ。
 北の塔には壁伝いに弓兵が構えていた。矢の一斉攻撃が終われば今度は空中戦がはじまる。もっと、もっとだ。こちらへと敵を集めなければ。
 セシリアの槍は敵の胸を貫いた。藍の空に赤い血が舞った。主を失った竜はしばらく飛行をつづけていたが、そのうち本能のままに襲いかかってきた。さすがはジェラールの育てた竜騎士団、強いはずだ。
 そろそろ頃合いだろうか。
 セシリアは懐に仕舞っていた巾着を取り出して、空中へとばらまいた。イレスダートの軍師は薬学にも明るいらしく、セルジュの調合した薬はここで重要な役割を担っていた。エルグランの竜騎士たちの動きが鈍くなった。いや、正確には飛竜たちがだ。竜の谷で手に入れた花はここでも役立ってくれた。鎮静作用のあるのは花の香り、しかし根の部分に含まれていたわずかな毒は興奮作用を持つ。粉末状にして空へと撒き散らせば、敵の飛竜が突然味方の竜に噛みついた。
「上手くいきましたね!」
 少年の竜騎士が言う。その嬉しそうな声音はもう勝ったつもりでいるらしい。 
 セシリアはグランの空を知り尽くしていた。風、におい、雲の流れ、色。北風がセシリアたちの味方をしてくれる。だからまともに食らった敵の飛竜たちは揉み合っている。同士討ちだ。恨むならばあの花の存在をセシリアに教えたジェラールに、セシリアはそう微笑む。
 内緒だよ。少年のジェラールはセシリアに言った。竜の谷に咲く花にはふしぎな力があるんだ。僕の父上と母上は救えなかったけれど、でもいつかきみの役には立つかもしれない。
 セシリアだって母を助けられなかった。敬虔なヴァルハルワは自然な死を望むからだ。でもきっと、母上は許してくれる。大事なベロニカを、そして他の飛竜たちを救えたのだから。
 ジェラールだってきっとわかってくれる。聖騎士の前で吐露した声は本当だ。セシリアは彼ともう一度話がしたかった。彼が望むまま、セシリアはここに来た。一人で来いとはその手紙には書かれていなかった。仲間を大勢率いてやってきたと知れば彼は笑うだろうか、それとも失望するだろうか。それでも、いい。レオンハルトを奪ったのはジェラールだ。グランルーザに必要な人間は返してもらうだけだ。
 これが成功しても失敗しても、彼のところには行けない。
 セシリアはグランルーザの竜騎士で、ジェラールはエルグランの公子だ。あるいは不可侵条約が未来永劫とつづいて、グランルーザとエルグランが違えることなく隣国同士互いの存在を認め合っていたならば。やがてエルグランの王冠を戴く彼の横にセシリアは寄り添っていただろう。二人のあいだに生まれた子どもは彼のように敬虔なるヴァルハルワ教徒として育ち、竜騎士として名を馳せる。きっと、そんな未来が待っている。
 セシリアはかぶりを振った。選ばなかったのは他でもないセシリアだ。いまさら、戻れるわけでもないのに、ふたつとも手に入れようだなんて虫が良すぎる話だ。セシリアは微笑する。東の空に光は見えた。ほどなくして、第二部隊も追いつくだろう。
「セシリア様!」
 少年竜騎士の声と、ベロニカの咆哮はほぼ同時だった。新手か、それとも下からの攻撃か。直前まで攻撃に気づけなかったほど、セシリアは集中力を欠いていた。
 人間には効かないはずではなかったのか。そう、イレスダートの軍師を罵るのは間違っている。気が高ぶっていたのは、心をそこへと囚われていたセシリアの弱さのせいだ。そんな主を庇ったのはベロニカである。セシリアを狙って放たれた無数の矢を翼で受け止める。飛竜には人間が作った武器など届かないが、しかしベロニカは咆哮をつづけている。竜の鱗にも届く強度、あるいは魔力が込められた武器をエルグランが持っていたとすれば。セシリアの思考はつづかない。急激な速度でベロニカごと落ちてゆく。凄まじい風圧に耐えながらも、セシリアは愛竜ベロニカの名を呼びつづける。意識を闇へと手放したのはそのすぐあとだった。

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